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レイチェルは、絨毯の真ん中で自我を失ってしまったヤザーンに、水を飲ませてやり、背中をさすってやったり忙しい。この二人、なんだかんだで仲が良い。
横ではゾイドが憮然とした顔で、羨ましそうにしている。このどうしようもない男、自分もレイチェルに、甲斐甲斐しく世話して欲しいのだ。
レイチェルがこの男にどれほど世話を焼かせていたのかを知ったら、ヤザーンへの感謝よりもまず、羨ましくて拗ねてしまう事だけは間違いない。
「ヤザーン様、しっかりして!今セスがユーセフ様を呼びに行っていますわよ。」
ヤザーンは、腰を抜かしてのだろう、絨毯から一歩も歩けず、ぶつぶつ口の中で、何か呟いていた。
「大丈夫よ、セスは足が速いから、直ぐにきて下さるわ、ヤザーン様、もうちょっとお水飲んで待っていてくださる?」
レイチェルが言い終わらないうちに、広い医務室の真ん中に、青白い光で魔法陣が展開されて、カッと白く光る。
次の瞬間、風の渦の中には、妖しい美貌の男と、強力な転移魔法で目を回しているらしいセスがいた。
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「パシャにおかれましてはご機嫌麗しく。」
ユーセフは頭を下げた。
ゾイドの顔から、先ほどまでの表情が一切消えた。
そして、椅子から立ち上がると、ケマル・パシャ、と尊敬を持って呼ばれている、威風堂々とした態度で挨拶をうける。
ユーセフも、砂漠の第一王子としての実に威厳ある態度で、堂々とゾイドの前に歩み出た。
二人の間には、非常に張り詰めた緊張感のある魔力が満ちており、哀れなセスは、この二人の恐ろしい男に挟まれて、砂漠の鷹に睨まれたうさぎの様に、青い顔をしていた。
「。。。ヤザーンが、今すぐに貴方が必要と。挨拶もなく、部下を送りました。失礼をお許しください。」
先に口を開いたのは、ゾイドだ。
砂漠は非常に挨拶を重んじる。
この非礼は、場合によっては王子の顔に泥を塗ったと、大問題になりかねない。
ゾイドから非礼を詫びるのは順当だ。
「。。どうぞお気になさらず。それで、ヤザーンは?」
パシャからの詫びを受け取ると、ユーセフが部屋の奥に目をやった。
そこには、絨毯の上で混乱しているヤザーンと、それを心配そうに、背中をさすって世話してやっている、愛おしい、優しい娘がいた。
「。。レイチェル!」
砂漠のパシャの御前だというのに、思わずただのヨルに戻って無防備な笑顔で、その名を呼んでしまったのは、ユーセフの所為だろうか?
ユーセフは日々、砂漠の大国の第一王子という、重責に耐えて政務をこなしているのだ。
砂漠の小さな白い花のようなレイチェルの前で、ただの青年、ヨルに戻って、一緒に月を見つめたい。
甘いお菓子をねだられて、ちょっとだけ、甘やかしてやりたい。
大きな笑顔で、こちらを見て、笑ってほしい。
なによりも今ユーセフが欲しいのは、ただそれだけ。
汚い手を使ってでも、欲しいのだ。
一度レイチェルの愛を知ってしまったら、もうその愛の無かった頃の日々に戻るのが、果てしなく苦痛だ。
砂漠の大国も、大規模なハーレムも、その竜の大軍も、レイチェルの笑顔ほどには、心を温めてくれなかった。
安らぎをくれなかった。
レイチェルは振り返ると、大きな笑顔で、ユーセフに言った。
「ヨル!元気だった?ねえヤザーン様の所にきてあげて!」




