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祠の跡からほど近い、そこは聖なる森があった跡地だという。
ラクダ達が金具を震えさせ、怯え始めたところを見ると、火の神の怒りとやらは、遠くなさそうだ。
「私たちは、アッカ、の神と対なるものとして、火の神も崇めております。アッカ、が全てを生み出すもの。火の神が、全てを焼き尽くすもの。」
ファティマはもう、何も隠すつもりは無いらしい。
「火の神は、火、そのものです。ほら。そちらに見えるでしょう。」
ゾイドのラクダが、震えて動かなくなった。
ファティマ指差す方向を見るが、ゾイドには何も見えない。砂漠の人々は、大変目が良い。
ゾイドは腰につけていた、小さな望遠鏡を取り出すと、ファティマの指差す方向を見た。
そして、思わず息を飲んだ。
天に届かんがばかりの大きな黒い火が、砂漠を焼き尽くす勢いで、囂々と燃え盛っていたのだ。
「。。。これが、火の神の怒りか。」
空を焦がすその黒い火は、ゾイドには見覚えがあった。
領地の魔女達が、生贄を捧げる時に使う古い、黒い火だ。
これは、古い魔術による呪いで発生させている火。
それが抑圧する物が無い砂漠で、巨大化した物だ。ここまで巨大なものは、ゾイドも初めて見る。
「黒い、呪いの水が、火を巻き込んで巨大化しているのです。」
ファティマはその水分の多い、憂いを湛えた目をふせた。ファティマの部族にとっては、耐え難い光景なのだろう。男達は皆、火を見ようとはしない。
ここまでの巨大な呪いを相手に対峙した事はない。
ゾイドの魔力が歯が立たない場合は、ゾイドもこの黒い炎に呑まれ、魔力ごと、その身は取り込まれる。
ゾイドはふと、自分の手が震えている事に気がついた。
(面白い。)
ゾイドは、その表情の読めない顔をファティマと、男達に向けると、言った。
「ここからは、一番屈強な男を一人だけ、火の神の元に案内役として連れてゆく。ファティマ、魔力の限り結界を張ってここから動くな。」
「。。パシャ。では私が案内をいたしましょう。」
側で仕えていた、男が名乗りをあげた。
片目を失っているが、魔力はこの屈強な男達の中では、抜きん出ている。
「ディノ、とお呼びください。パシャ。この命は今より、貴方の物です。」
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「。。。ヨルは? ヨルはどこに行ってしまったの。。?」
レイチェルは、怯え、混乱していた。
先ほどまで、レイチェルの傍には、優しい、聞き上手な、大切な友達の、庭師ヨルがいたはずだ。こんな野獣の様な目をした男は、知らない。
ユーセフはゆっくり笑うと、レイチェルの手を離さずに言った。
「君の目の前にいるさ。ただし、私の本当の名前はユーセフ。ヨルは、君の前に出る時だけ、使っていた名前だ。それも楽しかったが、もう遊びは終わりだ。」
爛々とその瞳は熱を帯びて輝く。
レイチェルは、信じられなかった。いや。信じたくなかった。
ヨルには、確かにずっと違和感は、あったのだ。
庭師にしては、やけに白く美しい手をしていたし、高貴な人にしか許されていない、香の香りを纏っていた。
そして、不自然なまでに教養が高かった。
本当はレイチェルも、この男が庭師では無い事に心では薄々と気がついていたのかもしれないが、疑う理由も、必要も、否定してきた。
レイチェルには、ヨルには孤独な日々でできた、ただの、大切な友達でいて欲しかったのだ。
「。。なぜ?」
レイチェルの頬には、大粒の涙がこぼれた。
「最初は君が間諜の類かと思って、調べていたのさ。だが途中から、庭師ヨルのふりをして君に会うのが楽しくなってきてね。」
さも楽しそうに、ユーセフはクック、と悪く笑った。これがようやく、いつものユーセフだ。この娘の前だと、いつも調子が狂うのだ。
「そのうちに、すっかり君の事が気に入ってしまった。それで、君を私のハーレムに迎えにやってきた。」
ユーセフは、第一王子として、威厳のある、傲慢な態度で、こう言い放った。
「どんな願いでも叶えてやろう。どんな贅沢もさせてやろう。女として生まれた事を誇りに思うほどの、最高の愛も与えてやろう。レイチェル、さあ、私の元にこい。」
レイチェルは、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
もうその頬の、涙は乾いていた。
「。。ヨル、病気の妹さんは?」
「え?」
「病気の妹さんの話も、嘘なの?」
そこで初めて、傲慢な態度でレイチェルに接していたユーセフは、少し気まずくなる。
レイチェルがユーセフの事を、庭師・ヨルだとすっかり騙されてくれていた事にとても満足していたが、レイチェルが、この架空の妹に、心を痛めていた事を思い出したのだ。
ユーセルは、一瞬怯んだが、すぐにその真っ直ぐな目を見返して、答えた。
「。。あ、ああ。病気の妹の事も、嘘だ。。」
ユーセフは実に気まずい。
適当に口から出まかせで作った設定で、胸の悪い事にしておいた妹の為に、初めて織った絨毯をレイチェルはヨルに与えたのだ。
。。。おそらく最初は相当嫌われるだろう。
呪いの言葉を吐かれるか、怒りをぶつけられるか。悲しみにくれられるか。
泣かれる事は確実だ。
まあ仕方がない。少し心を手に入れるまで長くなりそうだが、時間をかけて可愛がってやろう。あれは可愛い娘だ。
そうユーセフが心で舌打ちをしていた時。
「。。よかった。」
ユーセフの耳に届いたレイチェルの言葉は、予想の全てと違う物だった。
「。。レイチェル、何がよかったんだ?」
すっかり驚いて、傲慢なユーセフ王子の態度が、この男からするりと落ち抜けた。ヨルの時の、優しく、聞き上手な青年の顔に戻ってしまう。
レイチェルは、もうユーセフの方は向いていない、
指はもう、絨毯の続きを織りながら、小さい声で答えた。
「ヨルに、病気で苦しんでいる妹さんが、いない事よ。」
しゅ、しゅ、と絨毯を織る音が響く。
「それから、お給料のみんなを高い薬に当てて、滅多に妹さんに会えない、気の毒な庭師のヨルが、この世にいない事もね。」
そう言って、小さく微笑むと、もうレイチェルは、ユーセフの事も、ヨルの事も頭にないのだろう。
言葉は何も発する事なく、絨毯に向かっていた。
ユーセフは、赤面して、立ち尽くしていた。
自分という人間が、心から恥ずかしくなったのだ。
この後に及んで、ユーセフは、自分がヨルではなく、ユーセフ第一王子だとレイチェルが知ったら、何かがレイチェルの中で変わると信じていたのだ。
だがレイチェルは、ヨルがユーセフだろうが、庭師だろうが、第一王子だろうが、おそらくネコであろうが、何も変わらない。どうでもよかったのだ。
ただ、一人の病気の妹をもつ青年の事を、心配していた。ただそれだけ。
裏も、表も、何もない。
ユーセフは、レイチェルの絨毯を織る音だけが響くこの小さな部屋で、この世にただ一人、取り残された様な気持ちになってしまっていた。




