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侍女長に泣きつかれて、ヤザーンはレイチェルの部屋にきていた。
レイチェルが食事をしなくなってから3日にもなる。
この食の細い娘が、これ以上食べなくなったら死んでしまう、と涙ながらでのヘイゲルの訴えに、ヤザーンも無視はできない。面倒臭い。どうせハンストかなにかだ。これだから外国の女は嫌なのだ。
ヘイゲルによると、どうも大陸語が耳に入ってこない様で、何をヘイゲルが言っても反応しないとか。
ヨルに扮した、ユーセフ王子が不在の今、東館でアストリア語が使えるのはヤザーンだけ。
ヤザーンは、アストリア語で、レイチェルの部屋の外で語りかけてみる。
「レイチェル様、食事をお持ちしました。ヘイゲルが、食事をしていない様だと心配をしております。」
「。。。。」
「レイチェル様。」
「。。。。」
返事がない。ああ面倒臭い。
中で辛気臭く泣いているか、怒りに狂ってるか、どちらかだ。相手にしたくないものだ。
ヤザーンが勝手に扉を開けて中を覗くと、ギョッとした。
どちらでもなかったのだ!
何かに取り憑かれた様に絨毯に向かう、幽霊の様に痩せた娘がいた、だけ。
「レイチェル様?一体何を??」
アストリア語が耳に聞こえたらしい。
暗い部屋で、目だけぎょろぎょろさせた娘は、ヤザーンに振り返ると、にっこり笑って、
「あら、ヤザーン様お久しぶり。」
それだけいうと、また爛々とした目で、猛烈に絨毯を織り始めた。
どっからどう見ても、砂漠の悪霊に取り憑かれたかの形相だ。怖い。
「レイチェル様!!」
完全に、目つきが、砂漠の中毒性のあるタバコを吸った時の人々の顔と、同じだ。
「ちょっと!ちょっとお話を!!」
異常を察したヤザーンは、焦って、かなりマナーに反するが、無理やりレイチェルの腕を掴んで、絨毯からその身をひっぺがした。
「ちょっと!何なさるのヤザーン様!砂漠の国でも、男性が女性に対してその様な振る舞いは、認められていませんわよ!」
どうやら薬物の影響ではないらしい。
明らかに不愉快を示すレイチェルに、ほっとして、ヤザーンは淡々と言い放つ。
「私は宦官です。レイチェル様。男性という括りには、縛られておりません。」
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ヤザーンが分かったことは、別にレイチェルはハンストしている訳でもなんでもなく、ひたすら絨毯に集中していたとの事。
3日ぐらい前から、絨毯にしこんだ術式から、魔力の発生が確認されてきたというのだが、それからずっと、昼も夜も絨毯を織っていたとか。
実家にいる時は、レイチェルがそういう状態に落ちても、侍女が無理やり食事だのを持ってくるので、なんとか生きていたが、おそらく自分一人では、朝なのか昼なのかわからないほど集中してしまって、食事をしていない事も、今気がついたとか。
手芸をしていると、よくある事なの、驚かせてごめんなさいと、とても素直に頭を下げた。
モリモリとヤザーンが持ってきた食事を食べている。
「。。それでね、魔術が発動する様に術式を組んだのよ。それで織り始めたら、私が考えていた魔力の出力の仕方と全然違うのよ!もう、とんでもなく面白くて、素晴らしくて!」
ヤザーンは、呆れ返って、モリモリ令嬢らしからぬ様相で食事する娘を眺めていたが、心の中では、実は心の底から驚いていたのだ。
この娘の操る魔術については、一定の尊敬を払っていたし、絨毯を織り上げたという知らせを聞いた時には、この甘えた娘だと思っていたアストリア人を、一人前の砂漠の女だと、見直したものだ。
今だって、自分の魔術の知識を、砂漠の絨毯という芸術に叩きつけて、寝食を忘れて没頭している。この国ですら、魔術を絨毯織に入れ込む事ができる人材はそうはいない。素晴らしい能力だ。
だが、ヤザーンを心底驚かせたのは、それらではない。
レイチェルの態度だ。
ヤザーンが宦官だと知った、レイチェルの反応は、
「ああ、そうなの」
と、実にあっけないものだったのだ。
宦官。
ヤザーンは政治犯だ。宦官とは、罪を犯した男が受ける罪の中で、死刑の次に、一番重い罰を受けた男達がなるもの。男性という性の機能を奪われた、ハーレムに唯一出入りが許された存在だ。
時にはハーレムでの出世を望んで自らを男性の性機能を放棄する男もいるが、多数ではない。そして、宦官はあまり尊敬をされない。
男達からは蔑まれ、女達からは軽く見られる。
外国の女達の場合は、ヤザーンが宦官と知ると、詳しく肉体的な事情を聞かれるか、もしくは露骨に嫌悪感を示される。
レイチェルは、そのどちらでもなかった。
まるきり、どうでも良いという反応をした。おそらく今日持ってきたパンが、アストリア風だった事の方が明らかにレイチェルの興味が高そうだ。
ヤザーンは、思わず聞いてしまった。
「。。レイチェル様は、私が宦官であるという事に、何も思われないのですか?」
レイチェルは、不思議そうな顔をして、パンにがっつきながら言った。
今更お腹が空いていた事に気がついたらしい。当たり前だが、3日も食事をしていなかったのだ。
「だって、ヤザーン様は、ヤザーン様だわ。」
そう言って、行儀悪く葡萄を房ごと口に含んだ。
ヤザーンは、なんだかいたたまれない気分になっていた。
恥ずかしい様な、嬉しい様な、泣きたい様な、そんな気持ちだ。
宦官という自分の立場を受け入れざるを得なくなってから、もう10年にもなるだろうか。
人々の蔑みの目、哀れみの目にはもう、慣れきっていた。
今更こんな真っ直ぐな目で、宦官でもない、政治犯でもない、ただのヤザーンとして見据えられて、ヤザーンは苦しくなった。
なぜかはわからない。
この娘はやはり苦手だ。
この娘の前にいると、裸にされた様な、何もかも見透かされている様な、そんな気持ちになる。
「ねえ、ヤザーン様、ちょっとアストリアに手紙を書くので、送って下さらない?急ぎでないのだけれど。」
そう言って、なんと葡萄を口に咥えたまま、紙に怒涛の勢いで、アストリア語で手紙を書き出した。
心の底から、ヤザーンの身体的な事情に興味がないらしい。宦官になったその事情すら聞かなかった。
じゃあこれお願いしますね、とヤザーンに手渡して、また鬼の形相で絨毯に向かう。
ヤザーンはなんの迷いもなく手紙を開くと中を確認した。
「お義理父様。七連星ですが、中央の赤い星の角度は、実際に測定すると2度ほど東にずれています。青い星も測定地点の一つにして測ってください。出力の不安定は解決します。なお、術式を絨毯に落とし込むと、期待していた物ではない別の魔力が発生して、完成が待ち遠しいです。完成したらまた報告します。レイチェル。」
若い娘の手紙だというのに、季節の挨拶もなし!詩もなし!香水もなし!強い情熱は感じるが、用件のみ!
これは令嬢としてかなりダメだ。なるほど、残念令嬢だと言われていると自嘲しているだけはある。
宛先はリンデンバーグ魔法伯に当てられてあった。。。。パシャのお名前は、リンデンバーグだったと記憶がある。
(・・ん?お義理父様?)




