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砂漠の大国へは、北の大国の平原の街道を通過するルートを取る事にする。
道々には、小さな村があり、宿泊場所には困らない。昔の巡礼が利用したという、石畳の道が舗装されており、
少し土産物屋があるくらいで、あまり観光としての見どころは少ないが、馬車での旅には打って付けなのだ。
フォート・リー経由で海を通る南周りの方法もあるが、南の海は、平民向けの避暑地が多く集まる地域で、あまり品行がよろしくない。
はじめてのレイチェルとの旅だというのに、ゾイドの気分は浮かない。
この旅は名目上、砂漠の大国の使節団と、王からの返礼の使節団との合同の旅であり、レイチェルは、ゾイドの部下としての帯同として参加する。
レイチェルに与えられた暗黙の役割は、受け取った寵姫の、帰路の世話役だと言う。
アストリアからの女手が必要なのだ。
当然ゾイドとレイチェルの馬車は分けられ、宿の部屋も分けられた。
砂漠の国の文化では、男女が共に食事をすることは許されない。
使節団をもてなす立場であるゾイドは、共に旅をしていながら、レイチェルと食事をとる事も滅多にかなわないのだ。
一方で、砂漠の国の使節団を歓待するに当たって、ゾイドの魔術士としての才能も、教養の深さも、使節団の瞠目する所となったらしい。
使節団のゾイドへの扱いは、少しずつ、ただの小国の貴族の若造という軽んじられた物から尊敬を含んだ物となり、今や、かの国では「師」を意味する、”パシャ”と呼ばれはじめた。体面を重んじるかの国で、”パシャ”と呼ばれる事の意味は、アストリア人には重みが測ることのできないほど、大きな尊敬を含んだ意味あいだという。
多忙な旅の間中、レイチェルはゾイドの前で、一人の部下としての公人の顔を崩さない。それはゾイドも同じ事。
二人の間には、レイチェルのサファイアが、妖しく、煌々と光を湛えて揺れていた。
。。レイチェルが遠い。こんなに近くにいるのに、遠い。
「レイチェル様でしたら、今日は乗り物酔いが酷かったらしく、昼食はおとりになっておられませんが、馬車では機嫌よくお過ごしでしたよ。私にもこのようなお気遣いを。」
時々、レイチェルの様子をこうやって、レイチェルの馬車の同乗者に聞いてみる。
一番若い使節団の帯同者のセスは、外務大臣の2番目の息子だ。
今回のような、外国の使者への返礼など、あまり重要ではない外務をようやく任されるようになったばかりの、まだ若く、気安くて、明るい、美しい男だ。
年の近いレイチェルとは早速友人になったらしい。
下っ端同士、気兼ねなく一緒に食事したり、街までちょっとした買い物に行ったりして、羨ましい。
セスは袖口の縫い取りを見せてくれた。
ふんわりと、メリルの香りが残っている。レイチェルが刺したのだろう。
「。。勝利の護符、か。」
「ええ。帰国しましたら、官吏への登用試験があります。この試験に合格したら、私も晴れて父の側近として、国に尽くすつもりです。」
そしたら可愛いお嫁さんが欲しいですね、と晴れやかな顔をして、セスは言う。
他にも、馬車の中では、レイチェルは年配の側近達に護符入りの膝当てだの、冷却効果のある肩当てだのを作っているそうな。
レイチェルはいつでも、誰にでも惜しみなく魔術を与えるので、全くゾイドは慣れてしまっているが、魔術を手芸の形で、生活に落とし込めるほどの実力者はそうはいない。
長年膝の痛みだの五十肩だのに苦しんできた王の側近達は、贈り物をそれはそれは喜んで、レイチェルを孫のように可愛がっているとか。
きっとレイチェルの事だから、馬車で張り切って針仕事をして、乗り物酔いでもしてしまったのだろう。
レイチェルは、いつでもどこでも、レイチェルそのまま。
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北の国を超えると、そこは砂漠の国の領地となる。
北の灰色の空が、一気に白さを含み、そして強烈な青に変わる。まだ空気は冷気を含むが、明らかに砂漠の予感がする、そんな空気だ。
ここからは、アストリアの返礼使節団が歓待をうける番となる。
アストリア国からの”パシャ”の話を少しでも聞きたいと、砂漠の街々のいく先々にて、ゾイドを囲んで、歓待の席を設けられるようになったのは、国境を越えてすぐだった。
オアシスの街を通るごとに、少しずつ、与えられる白い天幕が大きくなってゆき、その街で一番肥えた羊が屠られ、昼もなく夜もなく、客人が天幕を訪れる。
天幕に引かれた絨毯は毛織物から絹織物になっていた。
客人達は、天文や、哲学や、魔術の議論を”パシャ”と戦わせ、その度にゾイドの名はどんどん大きくなっていった。
議論を投げかけた砂漠の賢人達が、また他の賢人を呼ぶ。その度に”パシャ”の名誉は大きくなる。
娯楽の少ない砂漠の街のこと。ゾイド一行の来訪は、お祭り騒ぎだ。
アストリアとほとんど国交のない砂漠の国での、ゾイドの評価は、そのまま国の名誉に繋がる。
王の側近達はこの段々と大きくなってゆく歓待を、そのまま国の名誉として受け取り歓迎した。
アストリア王の側近達も、ゾイドに及ばないまでも、それぞれの分野で深い知識と経験を積んだ、一流の文化人である。
側近達の面々は、ゾイドに負けじと砂漠の賢人達と議論を交わし、酒の杯を交わし、特に即興で作曲した砂漠の王を称えるリュートの曲を披露した、側近の一人は、そのまま喜びに興奮した砂漠の男達にもみくちゃにされて、足を怪我をしたほどの熱狂になってきた。
アストリア国返礼使節団は、交流の少ないこの砂漠の大国で、アストリア国の名を知の名誉で飾る、立派な功績をあげている真っ最中であった。
そんな中。
レイチェルはたった一人で、天幕の外れの、小さな宿にいた。
食事の際に男女の同席の許されないこの国での歓待の席に、レイチェルは含まれないのだ。当然、賢者達の知の遊びにも、レイチェルは蚊帳の外。この国では、女性は表舞台に決して出てこないのである。
レイチェルはそもそも引きこもりなので、宿に一人で、静かに過ごしている事に苦痛はないだろうが。
(何を考えているのか、さっぱりわからない。。)
ゾイドはこの自身をめぐるお祭り騒ぎの中、心は焦りに焦っていた。
まだゾイドの結婚問題について、何一つレイチェルと、腹を割った話ができていない。
そんな中で自分がレイチェルに与えたのは、アストリアの貴婦人としてはありえない、この屈辱的な扱いだ。
婚約者をまるっきり旅先の宿に放っておいて、自分達だけ酒宴を楽しむなど、アストリアでは紳士にもとる行為なのだ。文化の違いとはいえ、ここがアストリアであれば、婚約を考え直されても文句がいえない。
極め付けには、建前上とはいえ、帰路の寵姫の世話役という、婚約者としては、侮辱そのものであろう役割を任ぜられての旅。
文句の一つでも言ってくれたら。我が儘でも言ってくれたら。泣いてくれたら、どれだけ楽だろう。
本当はレイチェルのその心に、何が去来しているのか、ゾイドは知りたかった。
この旅の最中に、二人で、ゆっくりと話をする機会があるだろうと先延ばしにして、今まで時間が取れずにいたのだ。
「”パシャ”、どうぞ私の杯を受けてください。」
次から次に酒を継ぎにやってくる砂漠の男達。酒を断るのは、名誉に関わるらしく、決して断るなと使節団の男達は忠告してくれていた。
ゾイドの名声はどんどん大きくなってゆく。
砂漠の向こうからの”パシャ”。
少しで良いから、この歓待を抜け出して、愛しい娘の顔をみたい。だがそれも、今夜も敵わないのだろう。
諦めて、今日何杯目かになる白く濁った、砂漠の酒の杯を空けた。
酒の強さもこの国では、男としてとても重要な事だという。
月が明るい。砂漠の月はなんと美しい物だろうか。




