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「。。手の怪我は。。?」
「え、ええ、かすり傷なので大したことはないのですが、ほら、私魔法が効かないから、治癒魔法が受けられないので。。」
「。。そうか。。」
人外に美しい顔が歪む。長いまつ毛が伏せられて、影を落とす。
深い沈黙が続く。
本当に大した事のない怪我だったのだが、ルーナが大袈裟に包帯を巻いているのだ。
どうせどこかでルークとゾイドがレイチェルの姿を覗き見るだろうから、罪悪感を煽るだけ煽ってやろうという、ルーナの意趣返しだ。
ルーナはレイチェルを愛してるとか、そういう建前で、結局自分勝手な男達に、本当にカンカンに怒っているのだ。
そしてレイチェルの求婚者達は、ルーナの言葉が心からこたえたらしく、反省しきりだ。
レイチェルの監視役のはずの、ルークにすらレイチェルはあっていない。
部屋を訪ねて行っても、
「今はお休み中です。酷い熱がありますので」
とか、
「今は殿方達にあの様な姿を晒した心の痛みで、誰にも会いたくないそうですわ。面会はしばらくご遠慮ください」
だの、まあルーナはルークの罪悪感を煽らせていた。
実際のところは、ちょっと風邪を拗らせたけれども手芸はできるし、いつも通りの引きこもり生活を満喫していただけなのだが。
ちなみに酷い格好を人前で晒したが、そういう事を気にする様な娘では、レイチェルは決してないので、心の痛みとやらは、まるっきりの大嘘だ。
ルークはロッカウェイ公国の国交の件で目の回る忙しさの中、時々レイチェルを訪ねているらしい。可愛い見舞いや、小さなカードだけ残して、レイチェルの顔を見る事なく去って行く。
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(。。せっかくゾイド様に会えたのに、何を考えてるのかわからないわ。。怒っていらっしゃるのかしら。。)
レイチェルはほとんど泣きそうになってしまった。
ゾイドのことはさっぱりまだ、わからない。
こんなにこのお方のことが好きなのに、好きになればなるほど、何一つ、かの人の事がわからないのだ。
人外に美しい、アストリア最強の魔術士。
愛しいのに、切ないのに。こんなに恋しかった、あの人が、目の前にいるのに。
ゾイドはいつもの表情の読めない顔だ。
少し眉をひそめて、何かを言おうとしている。
レイチェルは、この高貴な男を前に、己が惨めだった。
「。。。。」
「。。。。。」
長い沈黙を破ったのはゾイドだ。
ボツリ、と小さな声で、呟いた。
「。。。。豆が、苦手なんだ」
「。。はあ。。」
張り詰めた重い空気の中での、以外すぎる言葉に、レイチェルはこけそうになる。
あ、この人好き嫌いがあるのね。
そう言えば、そんな事も知らなかった。
「後、果物によっては喉がかゆくなる。」
「。。ええ、私も南の果物を食べると、そうなります。」
やはりゾイドは何を考えているのかさっぱりわからない。とりあえず相槌を打っておく。
ゾイドは真剣な面持ちだ。
「肉は好きだ。燻製が好きだ。鴨の燻製をワインでやるのは、好きだ。」
それから、と前置きをして、ゾイドは続けた
「子供のころ、ハチの巣をつっついて、刺されて死にかけた。」
「まあ。」
レイチェルは思わず笑ってしまった。
おおよそ愚かさからは無縁のこの男にも、子供時代があって、それから愚かにもハチの巣に手を出して刺されて大変な目にあったことがあったらしい。
「あと、私は楽器が弾けない。母が諦めた。才がないらしい。」
この男にも、できない事があるのか。
レイチェルはようやく声を出して笑った。
ゾイドは甘美な喜びが全身を走る蠢きに、身を任せていた。
嬉しい。レイチェルが笑ってくれるだけで、空を飛べる気分だ。
なんて可愛いんだ。ずっと、ずっと笑っていて欲しい。
ゾイドは幸せだった。
「。。私には、父と、母と、弟がいる。従兄弟は大勢いるらしいが、あまり興味がない。私の隼の名前はサフラン。最初からついていた名前だ。サフランは、ジーク殿下の隼と同じ巣で生まれた。」
いい名前ですね、とレイチェルはうなずく。
ゾイドは、甘い、甘い瞳をレイチェルにむけて、上擦った声でレイチェルに聞く。
「。。レイチェル、君はどうなんだ。」
「嫌いな食べ物ですか?」
「。。全部だ。私は貴女の全てが知りたい。」
レイチェルは、ああ、とようやく、この妙な会話の意図を理解した。
このどうしようもなく不器用な男は、どうやら、ようやくレイチェルと対話したいらしいのだ。
一方通行な意志の疎通だけでなく、まず自分の事をおずおずと話して、そして、レイチェルの事を知ろうと。
叱られた子犬の様に、上目遣いでレイチェルを伺う美貌の男を、どうして愛せずにいられよう。
(本当に困ったお方。)
レイチェルは苦笑いだ。そして、優しく言葉を紡ぐ。
「好き嫌いはありませんよ。チョコレートが好きですが、太っては大変なので、一日に一つだけにしています。」
「パントマ社のものが好きだと聞いた。」
レイチェルの愛用の、安物だけれど比較的美味しくて量が多い、お得なチョコレートの製造元だ。
平民しか買わない様なチョコレートの会社を、この高貴な男は一体誰かから聞いたのかしら。
「それから、好きな色は、薔薇色です。」
「君が薔薇色のドレスをまとったら、世界が薔薇色に変わるだろう。」
真っ直ぐに瞳を見て、物凄い事をいう。
グエっと、なんだか変な音が喉の奥からした気がするが、なんとか心を整えてレイチェルは続ける。
「。。実家にはキツツキが巣を作っていて、」
「名前がマリュとリュエ、だな。心得ている。」
びっくりした。なぜゾイド様が知ってるの?お父様ですら知らないのに。
レイチェルが目をパチパチさせていると、ゾイドはゆっくりと言葉を続けた。
「君は嬉しい事と、悲しい事があると、いつも屋根裏にある母君の絵を見にいく。3年前ライラ殿の赤い靴が欲しくて、大喧嘩になって、10日も口を聞かなかった。菓子はなんでも好きだが、あまり焼くのは得意でない。それから、右足のくるぶしに星の形の黒子がある。」
レイチェルの動悸が早くなるのを感じた。
「実家のメイドの作った石鹸が気に入っていると聞いた。貴女はあの娘の誕生日に、ブラウスの襟を作った。刺繍の柄が蝶だった。あのメイドは、お嬢様からいただいた襟は、いつも特別の晴れの日に着ると、自慢していた。私は心から羨ましかった。」
マーサから、そこまで聞いたのか。この忙しい高貴なお人が、一介の子爵家まで訪れて、マーサのお誕生日のお話まで、聞いてきたのだ。
ゾイドは続ける。
「孤児院の子供に、祈りを。ミツワの娘達にも祈りを縫っていた。君は誰にも知られていないと思って、一人でそんな事をしていた。私は、惨めな男だ。初めて誰かの為に祈る事を覚えたのは、貴女と出会ってからだ。貴女の気高い魂の前に、私は恥いるばかりだ。」
ミツワの娘にしていた事まで。
レイチェルは理解した。ゾイドはレイチェルの全てを知ろうと、レイチェルを受け止めようと、レイチェルと共にあろうとしている。
地味な変わり者の令嬢だと、そう言われ続けて、どれだけの人がレイチェルを本当に知ろうとしただろうか。
人外に美しいこの魔物の様な、そして心から困った男ほどに、誠実にレイチェルと向き合った人間が、いただろうか。
ゾイドは壊れ物を扱う様に、そっとレイチェルの手をとって、その美しい唇を乗せた。
「貴女に近づくと、とても、とても甘い香りがする。メリルの香りの様な香りだ。抱きしめると柔らかくて、とても小さくて壊れそうだ。とても可愛くて、貴女と口付けを交わした日は、星を捕まえて来られる気がする。」
そしてこわごわと、本当にこわごわとレイチェルを抱きしめた。
「私はとても勝手な男だ。勝手な思いで、貴女の迷惑も考えずに、デビューしたばかりの貴女の婚約者に収まって、勝手に王宮に連れて、貴女は石の乙女になって、私の為に大きな危険に晒した。私の様な男に、貴女の手を取る資格はない。」
かすれる声で続ける。
「だというのに、この国でも。貴女に私の気持ちを押し付けて、あまつには怪我を負わせた。」
苦しそうに、息をはく。
「あの男に君が取られてしまう。そう思ったら、何も考えられなくなって、この国を焼き払ってあの男を消したいと、そう強く思った。」
おそらく本気だろう。
あの場に、バルトがいなければ、ルークはこの世にはいなかっただろう。
そしてアストリアとフォート・リーは開戦となっていたに違いない。氷の矢で、岡の一つが針山の様相になったと、ローランドから聞き及んだ。あの近距離からのゾイドの急襲に対応できたのは、バルトと、ルークだったからだ。
「君に、私の全てを知ってもらいたい。それから君の事を全て教えてくれ。どんな些細な事もだ。これから決して君を一人にしたり、しない。何もかも、何もかも一緒だと約束する。」
ゾイドの、とろける様な赤い瞳に真っ直ぐ魅入られて、魂が体を手放そうとしている。
この男はきっと悪魔だ。人外に美しい、赤い目をした悪魔の、甘いささやきだ。
きっとこの悪魔のささやきを聞き入れてしまったら、魂を取られてしまうのだろう。
でも。
「どうか、どうか私の妻に、なって欲しい。あの男ではなく私を選んで欲しい。レイチェル、どうか私の手を。」
ゾイドは、震える手で、レイチェルの前に跪いた。
 




