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レイチェル・ジーンは、ジーン子爵の次女。
特になんといった特技があるわけでなし、美貌があるわけでなし、目だった欠点があるわけでなし、ある意味普通、ある意味つまらない。ただ一点を除いて。
「お父様、私デビュタントのドレスは私で仕上げて良くって?」
ニコニコと茶色いそばかすだらけの笑顔を父であるジーン子爵に向ける。子爵は苦笑いで娘を見つめる。ドレスは好きに仕上げたら良いと、半ば諦めて苦笑いでそう言った。
ジーン子爵ヘラルドは凡庸な、しかし堅実なやり方で領地をやりくりしてきた。
公用の書類の紙類を扱う領地では、良君と言うには凡庸な、しかし地味に有能な領主である。領地の騎士団長の縁者から妻を得て、その領地にしっかり密着した生き方は、領民から親戚の兄のような慕われ方をし、二人の娘も上の娘は領地の有力な商人に嫁した。下の娘も、身分ではなく堅実に幸せにしてくれるような誰かと結ばれることだけでを小さく望むような、そんな男だった。
妻を流行病で亡くした後、勝手に領地で優しい恋人を見つけてきた長女を快く送った後、子爵は次女レイチェルには何も求めていない。風変わりな次女だ。婿はとらずに爵位は甥の一人にでも嗣がせて、二人で田舎の領地に引っ込んでも良い。平和で牧歌的な領地で好きな事をして生涯過ごすのもよかろう。何せレイチェルは地味な上に風変わりだ。無理に婿なぞ取らなくても良いと、優しい、そして現実的な父はふう、と小さく息を吐く。
レイチェルは上機嫌で彼女の小さな部屋に向かう。
(お父様もおっしゃって下さったし、やっぱりもう少し装飾増やしましょう。あと刺繍も余分に。あ、時間があるかしら?東の紋様を入れてみたらどうかしら。はじめてだし)
地味な子爵の地味な次女。別に贅沢なドレスではないが、ジーン子爵は領地のそれなりのサロンで作らせたまあまあのデビュタントドレスを用意している。仕上げなぞ必要はないが、これは風変わりな娘と父ではよくある会話であった。
手芸はレイチェルの趣味だ。屋敷中の布という布に妙な模様を縫ったり纏ったりする少々行き過ぎではあるし、妙な模様ばかりでちょっと禍々しいのだが、母を早くになくした娘の趣味に、子爵は大変寛容である。また実際のところ、子爵も、嫁いだ姉のライラも手芸の事も魔術の事も全く知識がなく、レイチェルの趣味がどの程度常軌を逸しているのか皆目検討もつかずにいたのだ。
レイチェルは、自宅の横の敷地にある王立魔法史資料館に、子爵令嬢というささやかなながらも身分があることで、出入りを許されている。まだ文字も読めなかった小さい頃から、この古い図書館はレイチェルの大切な遊び場だった。資料館としては立派なものであるが、非常に硬い内容の資料ばかりであり、また半数の蔵書が古語や外国の言葉である事から、自然ほとんど人の出入りはなく、週に2、3人資料を取りにきた下級の魔術官吏の出入りがあるくらいだ。
レイチェルはこの建物のステンドグラスが大好きで、またこの静謐な空間が大好きだったのだ。
姉のライラは社交的な性格で、少女らしい華やかな事が好きだったので、レイチェルのこの秘密の遊び場の事は知ってはいたが、興味はなかったらしい。レイチェルが王子様もきらびやかな装飾もない何の本をそんなに資料館で熱心に読んでいるのか、ライラはいつも首を傾げていた。
レイチェルの部屋には大変手の込んだレースのカーテン、美しい刺繍の施されたベッドカバー、あふれるような煌びやかな細緻な装飾の花瓶敷そしてキルトの数々でさながら小さな宝石箱の様相だ。
その数々は、大陸ではお目にかかることのできない希少な意匠と細密に施された職人技に、複雑な術式、魔法陣を縫い付けられてある。薄くではあるがそのそれぞれが発動した綺麗な魔術によって、レイチェルの部屋は神殿の中のように清浄な空気に満ちている。
その全てがこの地味なレイチェルの手によるものなのだ。
一般的に貴族令嬢というものは、刺繍など己の美的感覚を見せつける手立てであるものを嗜む事が勧められる。レイチェルもその例外では無いが、レイチェルは子爵令嬢の嗜みにしては情熱的に。いや、異常と言っていいほど手芸、そしてその縫い取りに使用する「魔術文様」に情熱をもやしていたのだ。
本人はその価値すら知らないであろううちに古来より伝わり今や絶えた王家の文様を実にひっそり復帰させ、レース編みにして鍋敷きにしている。どこぞの魔道士が目にしたら失神ものだが、スープが冷めにくいと使用人には好評の鍋敷だ。他にも南の領地に密かに伝わる祝福の紋様をキルトに仕立て上げ、その複雑な魔術を発動させた後は、無造作に幾多のクッションの山に埋めていたり、お人形の髪の毛を図書館の本で見た通りに複雑に編み込んで、魔術が展開してしまい、うっかり動くようになった人形を見つけたレイチェルの侍女、マーサが失神してしまいしっかり絞られた事もある。
レイチェルは彼女が興味の趣くままに作り出した手芸作品のその学術的、魔術的価値には気づかず、小さな彼女の宝箱のような部屋を飾る事、それだけを理由にせっせと古代魔術を復帰させていたのである。ささやかな、小さな子爵令嬢の部屋で。