第二話
長い時間をかけて砂漠を歩き、夜が明ける頃、少女の村に辿り着いた。
そうそう絡まれることはなかったものの、常に周囲を警戒して歩く少女が、この世界の危険さを表していた。
「そもそも何故幼子が一人でこのような地を歩いていたのだ?」
「街へ作物を売りに行って、生産していない食料や生活用品を買って帰る帰りだったんですよ」
実際は一人ではなく、複数で来ていたと言う。
逃げられないと悟った少女は一人で囮役を買って出たのだ。
「無謀な」
「少しでも多くの食料を持ち帰る必要がありましたし、何よりお金を運んでいましたからね」
「その考えは素晴らしいと思うが……」
自らを犠牲にして村人を助けたと言えば聞こえはいいが、やはり無謀だった。
「リズ! 無事だったのか!?」
村に到着した二人を出迎えたのは、数人の成人男性だった。
服こそ少女と同じく着古したボロ布だが、それぞれ鉄の棒で武装している。
「野盗に襲われて、お前が一人囮になったと聞いて……」
「心配かけてごめんなさい、お父さん。でも大丈夫、親切なお貴族様に助けてもらったから」
「お、おお……」
リズと呼ばれた少女の父親らしい男性は、少女の言葉に男の方を見た。
その瞳には、困惑と恐怖が浮かんでいる。
元の世界で、何度となく男が見た目だった。
「それはありがとうございました。我々のような矮小な存在は捨てておいても誰も非難しませんものを……」
お礼の言葉を口にし、頭を下げるが、やはり言葉には棘があった。
「何分貧しい村ですから、碌なお礼もできずに心苦しいですが……」
言外に謝礼を要求されても困る、と告げていた。
税を取られるだけの存在であると皮肉を口にしているのかもしれない。
しかし、父親の言葉もまるきり嘘という訳ではなかった。
村と言いつつも、簡単な囲いで仕切られているだけで、これまで歩いてきた砂漠と地面はなんら変わりがない。
このような環境でまともに育つ植物などあるのか、と男は別の意味で不安になった。
「実は道に迷っていてな。街まで案内して貰いたいのだが……」
「娘を助けていただいたお礼をしたいのはやまやまですが、こちらもギリギリの生活をしておりますもので、他に用も無く街へ行く余裕は……」
父親は顔こそ男に向けているが、その目はせわしなく周囲を探っていた。
男が一人かどうかを確認しているのだった。
娘を助けるお人好しが一人なら、同情を誘えば謝礼は頭を下げるだけで済むと考えている。
「では街の大まかな方向だけ教えて貰えるか? それと、納屋の隅でも良いから半日ほど休ませて貰いたい」
「わかりました。何もできずに申し訳ありません」
言って父親は頭を下げるが、内心で喜んでいるのは男の目にも明らかだった。
「しかしお貴族様を納屋に寝かせるなど恐れ多い。どうか我が家にてお休みください」
他に渡すものがなくていいと思ったら現金なものだった。
しかし男は不快感を抱かなかった。
このような土地で生きていくには、このくらいの強かさが必要なのだろうと、その逞しさに感心してさえいた。
父親に案内されてリズの家に向かう途中、村の男たちは警戒した目線を男に浴びせ続けた。
身の危険を感じるようなものではなかったので、男は敢えて気づかぬふりをして、父親の後を追う。
「そう言えば、お貴族様のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「名前? うー……ん」
「ああ、いえ、その深い意味はないのです。ただ、娘を救ってくださったお貴族様の名前も知らぬままというのは逆に失礼かと思いまして」
男の反応から、何かを勘違いした父親が慌てて弁明を始める。
その態度は、逆に怪しかった。
男は別に名前を教えるのが嫌だったわけではない。
ただ、現世での名前をそのまま使っても良いかどうか迷っただけだった。
貴族を騙るつもりはないが、少なくとも、村を出るまでは貴族のふりをしていた方が良い事は男にもわかった。
かと言って、この国で使われていないような名前を名乗るのは憚られた。
現世でも、祖国と外国とでは名前の感覚が違っていたのを覚えている。
「テルだ」
少女の名前はリズだった。
これならそれほど違和感が無いかと思い、男はそう名乗った。
「実を言うと、そのまま逃げちゃってもいいかと思ったんですよね」
テルが案内されたリズの家は、村の中でも特に大きいというものではなかった。
石造りのしっかりとした家で、部屋も複数あったが、地面は剥き出しであったし、通された客間には、擦り切れた布が一枚敷いてあるだけだった。
地面に寝転ぶよりはマシかと、テルはその布の上に横になる。
暫くすると食事をリズが運んできた。
ぶよぶよとした触感の見たことも無い植物の欠片が一つ入っているだけの薄味のスープが一杯。
これが嫌がらせでなくこの村での普通だと言うならば、やはりこの村は貧しいのだろう。
これがこの国の標準的な食事だと言うならば、この国自体が貧しいという事になる。
食事を運んできたリズはそのまま客間に座り込んでしまった。
暫く無言でテルの方をぼうっと眺めていたが、ややあって、そう口を開いた。
「帝国市民と言っても、国に守られるようなことはなくて、ただ生きている事を許されているだけ。一生砂埃に塗れてカクタスを作り続けるなんてまっぴら……」
自分を助けてくれたお人好しとは言え、『お貴族様』相手に語る内容ではなかった。
子供だからお目こぼしをして貰えるだろうと思っての行動なら、やはり彼女は強かだった。
カクタスとはこの植物だろうか、とテルは別の事を考えていたが。
「知ってますか? 今よりずっと昔、人々はもっと高度な文明を築いていたそうですよ。飢えに苦しむ事も無く、皆豊かな暮らしをしていたそうです」
「ほう」
「記録が途切れているのでそれがどうして滅んだのかはわかっていないそうですけどね。電灯をはじめとしたそうした機械は、古代文明の遺産をそのまま使っているんです」
「電灯か……」
呟くものの、テルはその言葉を知らなかった。
とは言え、それはこの世界の住人も同じだった。
同じように遺跡で見つかった古文書によって、移設したり修理したりはできるし、中には複製できる者もいる。
だが、そこから新しい何かを生み出すことはできていなかった。
リズが知っている限り、この三百年ほど、人類の文明は一歩も先へ進んでいない。
「まるで、先に進むことを恐れているみたい……」
「物知りなのだな」
「本が読めれば街に出て暮らしていけると思っていた時期があったんですよ」
「文字が読めるならそれなりに仕事はありそうだが?」
テルの元居た世界でも、文字の読み書きができる人間は少数だった。
少女の年齢ならば、雇う人間も多いだろう。
「街に買い出しに出た時にそれとなく聞いてみたんですけどね、街だと逆に文字が読める程度は珍しくないんですよ」
「成程な」
そして沈黙が室内を支配する。
「……そのような事を私に言っても、連れて行ってはやれぬぞ」
「……わかってますよ」
それでもやはり期待していたのだろう。落胆した様子でリズは部屋を出て行った。
テルが本当にこの世界の貴族だったなら、これも何かの縁、と連れ出していたかもしれない。
しかし、今のテルは少々腕が立つ程度の放浪者でしかない。
少なくとも、テルはそう思っている。
何を為すことも自由だと女神は言った。
しかし同時に、何も為せないかもしれないとも言った。
少女一人の望みも叶えてやれない自らの非力を、テルはただ嘆くことしかできなかった。
ひょっとしたら、これは自分への罰なのかもしれないと考える。
高貴な生まれでありながら、戦乱の世を治めるどころか、立場を追われてしまった自分への罰。
無力な己に打ちひしがれることが、かつて救うことのできなかった民草たちへの贖罪になるのかどうかはわからなかったが。
テルが苦しむことが目的ならば、それは達せられているようだった。
「どうだった?」
「貰った名簿の中に、テルなんてお貴族様はいねぇ」
「全員の名前が記載されてる訳じゃないだろうから、放浪息子を恥ずかしがって載せてない可能性もあるな」
「賞金首の中には名前も肖像画も無かったな」
「となるとただ邪魔なだけか」
「隠しているならいなくなってもわからんだろう」
「今日中に出て行ってくれるならそのまま見逃しても構わんが……」
「おべべも剣も良いものだった。売れば来年は税くらいにはなるんじゃねぇか?」
「変な噂がたっても困る。暫く様子を見るんだ」