午前5時、君へ
君を起こさないように、僕は寝床を出た。
随分と使い古された安っぽいベッドは、急に体重をかけるとキシキシと鳴るので、そうっと動いてやる必要があった。
ようやく立ち上がって、明かりをつけないままに振り返ると、君はこちらに背を向け、蹲って眠っている。モコモコした淡い桃色のパジャマが、君の寝息に合わせて膨らんだり萎んだりしている。
僕はそのままリビングに移動した。そして小さな卓上ライトをつけると、予め買っておいた朝飯を机の上に広げ、無言のままに食べ始めた。さほど広くない部屋なので、食卓の椅子からでも、眠る君の姿がよく見える。小さな窓の外はまだ、暗闇と静かな微睡みが満ちている。
朝早くに出るから、と君に伝えてあった。
案の定寂しがって駄々をこねる君だったが、乗る予定の電車が朝早いからと伝えると、しぶしぶといった様子で引き下がった。分かっていたのに、そんな君がいじらしくて目を逸らしてしまった。
本当のことを言うと、別れ際に君の泣き顔を見たくはなかったんだ。我儘なのは分かってるので、敢えて伝えはしなかったけれども。
思えば、君と一緒になって4年と少しが経つ。僕はずっと、君に甘えっぱなしだった。
表現者を目指して、売れもしない小説を書き続けた僕を、君は優しく受け止めてくれたね。せっかく一浪して入った大学を辞めて、アルバイトで生計を立て始めた時も、君は僕の考えを尊重してくれた。友人と殴り合いの喧嘩をして傷だらけで帰ってきた僕の話を、君は夜明けまで聞いてくれた。時には道を誤りそうな僕を叱りつけて、僕より真剣に僕のことを考えてくれた。
いつだって君は僕のために、何もかもを捧げてくれた。僕には勿体無いくらい、最高の彼女だった。
僕は君に、何ができただろうか。
僕は菓子パンを2つ食べ終えると、ガタつく食卓の上に無造作に置かれたタバコを取り、静かに火をつけた。まだ薄暗い部屋を、紫煙がゆるりと揺れて、メンソールの香り。君はもぞもぞと寝返りをうった。
外はまだ、冷たい夜の闇にとっぷり浸かったままだ。
この夜が、僕たちの関係の終着点となることは、君には伝えていなかった。けれども僕はいつ帰るかといった話もしなかったので、聡明な君は、きっと気がついていたのだろう。朝になったら旅立ってしまう僕に、君は小さな指輪をくれた。小さなオパールのついた、シルバーの指輪だった。
サイズはピッタリのはずだけど、つけてなくてもいいからお守りがわりに持っておいて、なんて君らしい。本当に嬉しかったよ。
僕たちは少しだけ贅沢をした夕飯を食べ、缶の発泡酒を嗜み、同じ夜を共に過ごした。君の声を、君の匂いを、君の体温を、忘れないように全身に深く深く刻みつけながら、柔らかな君を抱いた。
僕は灰皿に火を押し付けて消すと、ゆっくり立ち上がった。部屋の隅にまとめて置いておいた少ない荷物を持ち、もう戻ることのない部屋をぐるりと見回した。
背の低い冷蔵庫や傷ついた本棚、壁に残ったシミ、小さな写真立て……。そのどれもが、君との幸福な思い出を吸い込んでいて、目を合わせると僕との別れを惜しむ。
窓の外が少しだけ明るくなってきていた。東から空が白に染まり始め、濃紺の静謐に包まれた夜が終わる。君との最後の夜が。
部屋を出る前に、もう一度寝床の方を見た。
君の小さな背中は震えていた。
泣いているのだろう、と思った。旅立つ僕に気づかれないように、声を押し殺して泣いているのだろう。いつから起きていたのか、はたまた眠っていないのだろうか。
それほどまでに悲しいのに、君は起き上がって僕を止めたりはしない。泣きながら僕を見送ったりもしない。ただ、ひとりで静かに涙を流しているのだろう。
「ありがとう」
震える淡い桃色の背中に、僕はそっと呟いた。君はいつでも聡明で、優しくて、献身的で、僕の一番の理解者だった。この調子だと、朝早い電車に乗る理由も、お見通しだったのかもしれない。
でも君のおかげで、僕はここを発つことができる。
これから先、僕は何度も君を思い出すだろう。朝起きてコーヒーを淹れる時、本屋で君の好きな作家の本を見かけた時、面白い映画を見つけた時、髪が伸びてきたと感じた時。僕はその時が来る度に、君の幸せをこのオパールの指輪に祈ろう。
甘え下手で不器用な君に、大いなる愛が与えられますように、と。
そっと軋むドアを開けて黎明へと踏み出した。
さようなら、最愛の人。