コウくんに関することパート1
思わず口をついて出た。話には聞いていたことだが、この時が初体験であった。
午後八時二十二分。今日も今日とて牛丼チェーンのホール業務に精を出す。特に今頃になるとサラリーマンが多く、いっそう求められるのだ。
「遅えぞ。人を待たせてんだヨ」
怒号が飛ぶことは珍しくない。だがひと際目につく、耳につくお客様だ。
「申し訳ありません」
「それしか言えねえのかヨ」
ここだ。思わず口をついて出た。あまりに独特な口癖が似ていたから──
「コウくんか」
「なんだと──」
言いかけてお客様の正面から色が落ちていって、まるで生気を取りこぼしている最中のようであった。ふらつきながら立ち上がり今にも倒れそうな様子を見て、他のお客様方にも動揺が感じられた。
椅子を倒して乱暴に扉を開いて、小汚い男は店を後にした。
「マコトくん」
一部始終を見たバイトリーダーがただ一言を漏らして、騒動は一先ず収束した。
勤務時間が終了してバイトリーダーの追及にあった。俺はただ分かりません、分かりませんと一点張り。そうする他にない。本当によく分かっていないのだ。
「よく働くのになあ」
バイトリーダーは俺から方向を逸らした。いつも彼には言葉が足りない。
今後の店における立ち位置や気まずさなんて考えても仕方がない。それよりも胸のモヤモヤとして残る謎と向き合うことにしよう。
あの男は誰だ。歳が離れていたから、中学や高校の同級生ではないか。しかし年齢に関しては自信がないな。無精ひげの小汚い格好が彼を老いて見せていたかもしれない。
「コウくん」
またしても口をついた。ずっと昔からこの先まで、いつもそうしていたような感覚があった。だめだ。どうしても思い出せない。メグミがスマホを鳴らして、何よりそれが俺の思考をストップさせてしまった。
「市民プール」
用件の他には言葉を使わないのは悪い癖であった。
メグミは、あえて「らしい」言い方をするのなら、付き合って七年になる恋人である。中三の頃からデートに行くようになって、互いに孤独だから自然消滅もさせられないまま今に至る。たいていは許嫁だと茶化され、正直な人間には気味悪がられている。
「却下」
「市民プール」
メグミは変な女だ。
彼女の様相を言い表すならば「バカっぽい」「色々ユルそう」という感じだが、それでいて中身は俺の百倍才女である。しかし思いつきで行動する迷惑な一面を持っている。二十二歳、冬のデートに市民プールはないだろう。
「もっとそれらしいデートしようよ」
彼女の返信は途絶える。
デートは魔法の言葉であった。俺たちは、互いの関係の不可解を実感する言葉を何より嫌うのだ。俺だって気持ちが悪いけれど背に腹は代えられない。
これでゆっくり考えられる。
翌朝、正月以来の帰省をした。とは言え下宿先から歩けば二十分ほどの実家である。
既に講義への出席が必要でないから、あがりを決めて地元に根を下ろしているのだ。しかし両親には内緒だ。わざと遠回りして、地下鉄に乗って手土産を買ってから向かう。
「コウくんって覚えてるか」
何の気なしにとられるような尋ね方をした。
「何よやぶからぼうに」
「いやコウくんだってさ」
「聞こえてるよ。やぶからぼうって言ったよ」
小競り合いの絶えない円満夫婦である。
「コウくん」
「はいはい。昔遊んでもらったお兄さんでしょ。あの東北へ引っ越した──さ、さ」
「桜田さんだ」
「桜庭さんだよ。あの頃観たドラマに出てたのと同じ名前だからね。覚えてるよ」
「写真とかあるか」
狐につままれたような顔を生で初めて見た。
母は「メグミちゃんに嫌われてないか」など小言を漏らしながらも写真を見つけ出してくれた。小学四年生の自分。隣には少し年上の男の子。さらに隣にはもう一人、女の子が映っていた。
「どこさ」
「市民プールだよ。今は改装されて全然違うんだっけか」




