駿鳳宮
駿鳳宮の南門である朱琴門を抜け、更に馬車は走る。
この先に、正門である黄天門があると言うのだが、敷地内に門が二つ以上あるだけでも驚きなのに、いったいどれほどの広さがあるというのか。
見渡す限り王宮の敷地であると言われ、藍宇は早々に考える事を放棄することにした。
黄天門より先は、外朝と呼ばれる政の中心地であり、馬車で入ることはできないため、そこで馬車を降りてもらう事になる、と劉昇が説明した頃、馬車が止まった。
馬車から降り、劉昇が姿を見せると、どこからか見ているのだろう、黄天門の重厚な扉がゆっくりと開きはじめた。
自分の胸がドクドクと高鳴るのを感じ、自然と手が胸をおさえる。
そんな藍宇の様子に気付いたのか、それまで寡黙に後ろに控えていた官の一人、玉鈴がそっと声を掛けた。
「そう緊張なさらなくとも大丈夫です。今は藍宇様の登極の準備に向けて官は皆走り回っております故、これから向かう伽涼殿にいるのは、最低限の者たちのみです」
「・・・大丈夫」
緊張するなといわれても無理に決まっている、と言いたい気持ちをこらえ、精一杯の虚勢をはった。
「では、参りましょう」
門をくぐり、駿鳳宮の広大な敷地内に並び立つ宮殿を改めて目の当たりにした藍宇と明麗は、言葉もなくそれを見渡した。広大な庭、そしてその中央には宮殿が聳え立つ。また、その両側、そして後方にもいくつもの宮が見えた。
キョロキョロと周りを見回しながら、前を進む劉昇について西側にある一つの宮へ入った。
その中を慌しく行き交っていた官吏が、劉昇たちに気付き、その真ん中に立つ藍宇を見止めるや、皆一斉にその場へ平伏した。
予測はしていたものの、いざ実際に何人もの人間に次々と頭を下げられていくのはやっぱり慣れない、と、藍宇は、居心地の悪さを感じながらその場を足早に通りぬけた。
そのまましばらく歩き、宮の中を通り抜けると、渡り廊下に出た。そこからは、蓮の花が咲く広く美しい池が一望できる。
しかし、緊張の中その景色を堪能する余裕などなく、次の宮へと入った。初めに入ったのと大差ない宮の中をまた歩くと、今度は外に出た。
小路を挟んだ少し先に、これまでとはやや趣きの違う、どこか風情のある宮が建っていた。
伽涼殿。 王が住むための宮がそれであった。
伽涼殿の一室に通された藍宇と明麗を、待ってましたとばかりに幾人もの女官が取り囲んだ。
「え?え?何?」
「お待ち申し上げておりました。藍宇様、明麗様」
次々と二人を取り囲む女官たちに、藍宇と明麗が目を白黒させる。二人の服に手をかけたまま、女官の1人が戸口に立っている劉昇に視線を向けた。
「ま、劉昇様、いつまでそこに突っ立っておられるおつもりですか? まさか、藍宇様の着替えをそこでご鑑賞でもされるので?」
「するか! まったく・・・では、藍宇様、明麗様、ひとまずここでお召しかえをしていただきます。女官たちに全てお任せくだされば結構です。では、また後ほど」
早口にそれだけを述べると、劉昇はそそくさと部屋を退出していった。
その様子を見ていた女官たちが、愉快そうに笑い声をあげる。
「さて、それでは再開いたしましょう。 藍宇様はこちらへおいで下さいませ。明麗様はあちらの部屋へお願いいたします」
明麗は女官の半数ほどに連れられ、向かいの部屋へと入っていった。
「蘭蘭、湯殿の準備は出来てますね?」
「はい、晶春様」
「よろしい。 では、藍宇様、ちょっと失礼いたしますね」
「え?」
その言葉を皮切りに、晶春と呼ばれたやや年嵩の女官を筆頭に女官たちが、藍宇の衣服をあっという間に脱がし、そのまま部屋の奥に続いていた浴室へ連れ、広い浴槽へと身を沈めさせた。
藍宇は、自分の家より広い浴室を見回し、
「・・・これ、お風呂なの・・・?」
「ええ。この伽涼殿は代々王陛下がお使いになっている宮なのです。そして、今は藍宇様のものでございますよ」
「・・・あたしの・・・」
未だに戸惑っているものの、おどおどとした様子は既に消えうせていた。それどころか、その瞳には強い決意の様子が見え隠れしている。
晶春達は、そんな藍宇を見て満足げに顔を見合わせた。
「さっ、藍宇様。あまり時間はございませんことよ。お体をお流しするのでこちらへお座りくださいませ」
「え・・・あの、あたし自分で洗えるので・・・」
「いいえ、そういうわけには参りません!」
「そうですよ!それにこの後は、入浴後のお手入れもあるんですから!」
「おていれ?」
「わたくしどもにお任せください! 隅から隅まで磨き上げて、完璧に仕上げてごらんにいれます!!」
「・・・コ、コワ・・・」
布を片手に息巻く女官達に、藍宇は、コワイともらした。
しかし、女官達はそんな藍宇を意にも介さず、嬉々として、近くに置かれた簡易寝台のセットや、その隣にある卓台の上へ、いくつもの香油や何が入っているのか分からない壜を、どんどんと並べていったのだった。
華美ではないが、一見して高価であると分かる衣服が一式部屋の中へ次々と運び込まれてくる。
藍宇は、その様を唖然とした表情でながめ、すでに綺麗な服装に身を包んでいた母の明麗は、それらを見ては何度も感嘆の声を上げていた。
全てが運び終わると、今度は先ほどの女官達が藍宇にそれらの衣装を着付けにかかる。
金糸で鮮やかな刺繍が施された藍色の上衣に、絹で出来た下衣。翡翠の玉をあしらった髪留めで髪を軽く結い上げる。そして、踏と呼ばれる靴を履いた。
この泉台国では、底を蝋で固めた、包と呼ばれる布製の靴が一般的なものである。
踏は、泉台国では希少資源であるゴムが靴底として使われている高級品であった。
「お気に召していただけましたか?」
恐ろしいほど肌触りの良い衣服に、ついつい何度も腕を動かしたり腰をひねってみたり、と落ち着きのない藍宇に、晶春がそう声をかけた。
「あ、はい。 ・・・あの、本当にコレがあたしの服なんですか?」
「もちろんですとも。本日お召し頂いているのは、簡単なものですが、登極の式典では勿論正装していただくことになりますよ」
簡単なもの!?
今来ている服だけでも、十分すぎるほどに豪華だと思っているのに、簡単なものだといわれ、藍宇は軽く眩暈をおこした。
ならば正装をすれば、どんな姿になるのだろうか。
一国の王として、国を象徴し治める立場の者が着るものなのだから、国民に対する示しというものがあることは、藍宇にも分かっていたが、いかんせん、貧民という地位にあったことからも、金銭感覚の違いがあまりに大きすぎた。
女官達に気付かれないよう、小さくため息をついた藍宇の脳内ではすでに、いかにして服装を質素に負けさせるかの策略が計算され始めていた。