7話 奴隷少女
感傷に浸っていると、何やら地響きが聞こえて来た。
蒼穹の本格的な崩壊が始まったのだろう。
俺は扉の奥のエンジェルホールを見る。
先ほどまで白く輝いていたそれは、もう既に黒ずんでいた。
どうやらユミルが倒れた時点で終了らしい。
正直に言えば傷を治したい。エンジェルホールがあってくれればと思っていた。
しかし、ない物は仕方ない。
俺は急いで出口の扉へと歩き出した。
結構ダメージが大きい。走るなんてとてもじゃないが出来なかった。
しかし、丁度いい。何せ初めての蒼穹だ。じっくりと観察したい。
俺は歩幅をゆっくりに初めての蒼穹の景色を眺めながらこの場を後にした。
扉を開くと、目の前には円盤がある。俺はその上に立った。
身体を浮遊感が襲う。
鮮やかな虹色がストライプの線のように円盤に吸い込まれ、次の瞬間に俺は違う場所に転移していた。
そこは天高い空ではなく、草原だった。
随分と親切設定なんだな。
俺は草の上に寝転んだ。
あぁ、楽だ。そして気持ちがいい。
このまま寝てしまおうか。そんな気持ちになってしまう。しかし、それは出来ない。そんな事をしてしまえば最後、俺は奴隷商人に捕まるだろう。あくまで少しの休憩だ。
…………。
五分ほどだ。そのくらいで俺は身を起こした。これ以上だと本格的に寝てしまう。
「あぁ、眠い。近くに宿屋はないのかな」
そう独り言ちると、直ぐ近くで草を踏む音がする。
俺は痛みを抑えながらとっさに後方へと跳躍した。
前を見る。そこには、少しビクついた少女がいた。
随分とみすぼらしい格好だ。ボロボロの布で辛うじて服を着ている状態だ。ある意味では扇情的ではあるが、正直痛々しさの方が勝っている。おまけに枷なんかもついてて。
俺はとりあえず見通す目を取り出そうとするが、やめた。
彼女の顔を見る。美しい。そして、角が生えている。鹿の角だ。恐らくケリュネイアという半魔の一族だろう。
確かついこの間まで各国から奴隷狩りに駆られて滅んだと聞いた。
見ていると、彼女は耐え兼ねたのか俺を避けるように駆け出した。
恐らく脱走兵だろう。
申し訳ないが助ける事は出来ない。
奴隷制度がある限り、奴隷雇いは守られている。
人の奴隷に手を出すものは誰であろうと重罪だ。
その所為でみんな奴隷を助けようとしない。そして、俺もそうだ。今目を反らした。悲痛な目にあっている者が居ながら目を反らした。
夢に溢れる宮殿と違い現実にはこんな苦痛もある。
とんだところに飛ばしてくれたもんだぜ。蒼穹のユミル。
俺はひたすら目を伏せていると、何かが投げられた。俺はそれをキャッチした。
見てみると白い粉の入った小瓶があった。回復薬だ。
彼女を見るとぎこちなく笑う。
恩を売るのか?いや、違う。純粋な善意だ。目がその類の奴らとは違う。
「もらえない」
俺は投げ返した。
どうしても関われないんだ。これからの冒険を安全に過ごすには、罪人になるわけにはいかない。
俺の夢は冒険者。こんなところでとん挫させるわけにはいかないんだ。
俺は一言だけ言うと、目を伏せた。
しかし、ふわりと俺の周囲に白い粉が舞う。
すると、俺の傷はみるみるうちに治っていった。
「おい、あんた」
伏せた目を上げると、少女は既に遠くへと走っていた。
強靭な脚力に高い魔力。そして、ひたすらに純粋な心。
言い伝え通りだ。
周辺の国々はそんな彼らの良心を利用したんだ。
今だってこれっぽっちも助けてくれなんて言わなかった。
きっと、俺の身を案じてくれたんだ。
奴隷制度の事を知っているから。だから直ぐに走り去った。
俺は何て惨めなんだ。あんな懸命に生きる為に逃げ出した。
……逃げ出した。逃げ出した?
賢いケリュネイアの民ならば脱走がどういう事を指すのかを知っているはず。
きっと何かある。聡明な彼らが示すものには何かがあるとも言われているし。
考えていると、少女の姿は消えていき、代わりに追ってが現れた。
現れたのは族だった。しかも、胸につけている紋章が見覚えのある物だった。
ある程度は名のある組織という事だ。
……そういう事か。なるほど。逃げ出したくもなるな。
そいつらは、俺の元まで来ると思いっきり睨みつけて来た。
数は5人。皆それなりの服を着ている様だ。
対する俺は初心者用の服だがな。だからだろうか、目の前の男は完全に舐めきった口調で話しかけて来た。
「おい小僧。ここらに娘が来なかったか」
小僧呼ばわりか、随分とまた。
俺はどうしたものかと考えて、一拍の間の後に男の横を薙ぎ払った。
ザンッ。
草原に大きな切れ目が生まれる。
「うわっ」
突然の事。そして、服装で勝手に甘く見ていたこいつらは腰を抜かすように後ろへ下がった。
何かをブツブツと呟いている。
少しすると、そいつらはこちらに会釈をして去っていった。皆一様に俺の右腕のニーズヘッグへと視線を向けていた。
族のわかりやすい上下関係か。
俺は少女が去っていった方向を見て駆け出した。
「ったく。ちょっとだけだかんな」
そうだ。俺は思い出していた。
奴隷の解約には解除方法がある。
どんな形であれ、解除されて刻印を消された奴隷は解放される。
そして、その解放は隠された洞窟にある。
心から望むものに開く洞窟に。
走る途中に見通す目を見て周囲を観察する。
ここら周辺は、何ともない。
しかし、先の方に異常な魔力が検知できる。
やっぱり。恐らくケリュネイアの解除方法と洞窟のありかはまだケリュネイアしか知らないのだろう。
人間との関係は深くもなく浅くもなくだったらしいから。
俺は何時しか森の中を駆けていた。
前方に魔物の反応はない。
俺は左右を見た。まばらに赤い点が動いている。
恐らく彼女が倒したんだ。
そうか。魔物がいない方向に進めばいいんだ。
俺は魔物のいない方向を懸命に探して走り、ケリュネイアの奴隷解放を強く願った。
すると、周囲が霧がかり始め、だんだんと見通しが悪くなった。
それでも見通す目は健在だ。
一度足を止めて、俺は一番魔力の強い場所を探した。
「あった」
それは500メートルほど先の場所にあった。
現在地から100メートル進むと、ならされていない崖のような荒々しい急斜面があり、俺はそこを一気に駆ける。
残りの400メートルを降り終えると、目の前にはビリビリと残像のように消え隠れする不思議な壁があった。
俺はそれに手を触れた。
ぐにゅ。
どうやら中に入れるようだ。俺はそのまま手を前に突き出したまま洞窟の中に入った。