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ゴーグル2:ゴーグル君ひび割れる

翌朝、登校途中のゴーグル君と、彼のお姉さんとばったり会った。

「あら。おはよう、健二郎君」

「おはようございます、お姉さん。ゴーグル君もおはよう」

「昨日は眼鏡を家まで送り届けてくれたんですって?」

ありがとうと、お姉さんが頭を下げる。少し長めの髪がふわりと揺れた。

「本当は母さんが迎えに行く手筈になっていたんだけど、すっかり忘れてサスペンスを観てたらしかったから。助かっちゃったわ」

軽く舌を出す。

「なんだよ、姉ちゃん。気持ち悪いな」

「気持ち悪いとは何よ。アンタのことでしょう?」

「礼はもう言ったよ、僕から」

「何なのよ、変な眼鏡ね」

今更だが、ゴーグル君というのは、愛称だ。本名は水中眼鏡みずなかめがねという。驚くことに戸籍もあるらしい。

それにしても、遠慮なく罵声を浴びせあう姉弟を見ていると、何となく入り辛い雰囲気だ。独特の、気を置けない者同士だけが行える掛け合いというか、他人が踏み込んでいくには少し気構えてしまう。

「健二郎君」

「はい」

「いつもありがとうね。うちの弟の面倒を見てくれて」

「だからよしてよ。そういうの」

ゴーグル君の気持ちもわからないでもない。僕としてもそう改まれると、なんだか背中の辺りがむずむずする。



水泳の時間。

ゴーグル君が唯一参加する実習である。彼はいつも水泳の時間が近づいてくるとそわそわと落ち着かなくなる、ような気がする。実習の度に参加を免除されるゴーグル君。仲間外れ、とは違うのだが、区別がなされている。彼だって生きている? のだから思うところもあるはずだ。だから、心置きなく参加できる水泳の時間を楽しみにしているのかもしれない。彼が一番輝く時と言っても良いかも知れない。

「がんばれー。ゴーグル! あと少しだぞー」

「いけー。ゴーグルー。ぶちかませー」

男子たちが一致団結し、四肢をばたつかせて波を起こす。その大きなうねりを、ゴーグル君は一身に受け、弾丸のような勢いをかってプールの反対側の壁へと流れていく。

結局は他力本願なのだが、ゴーグル君は自分で泳いでいるものだと思い込んでいるのだ。だったらそれでいいじゃないかと、クラスの総意で、このような形が取られている。ゴーグル君の内面を一体皆がどこまで慮っているのかはわからないが、誰一人真実を告げるような野暮はしていない。ファルセット伊藤も、普段は冗談でゴーグル君を揶揄したりするが、本当に悲しむようなことは言わない。

ゴーグル君は、ひょっとすると幸せなのかもしれない。皆に支えられて、これからも生きていけるんじゃないか。食費はかからないし。

「ああ、まずい!」

突然、背後の男子の一人が、押し殺したような叫びを上げた。

僕も気付く。勢いがつきすぎている。流れは今や、五月雨を集めた最上川より速い。いけない。ほとんど本能的に体を突き動かされる。駆けるようにプールを移動する。地上なら或いは間に合ったかもしれない。だが浮力が邪魔をして思うように動かない体では間に合わなかった。

ゴチッ!

ゴーグル君のレンズの部分が向こう側の壁に激突する鈍い音がした。

「ゴーグルくううううううん!」

水中眼鏡みすなかめがね、えーっと、タイムは21秒8か。まずまずじゃないか」



休み時間。

ゴーグル君のレンズには縦に大きく、痛々しい傷が走っていた。誰が悪いわけでもない。もし責任の所在がどこかと問われれば、「ゴーグルと人との共存を推し進める委員会」の初代会長である僕だろう。これは入学して間もなく設立されてじゃんけんで負けて任命されただけの経緯だが、なんにせよ拝命した以上それなりの責任はつきまとうものである。

それに、そういう事情は抜きにしても、クラスで一番彼と仲が良いのは僕だ。それはつまり彼の色々な特性を知っていることに他ならず、そういった観点から危機管理意識の甘さを指摘されればぐうの音も出ない。

「ゴーグル君、大丈夫かい?」

声をかける。もう何度目か知れない確認。

「大丈夫、大丈夫。これくらい、屁のツッパリにもならないよ」

ゴーグル君の返答も寸分違わずこれだった。

「だけど、そんなに傷が入っていて、大丈夫なのかい?」

「大丈夫だよ。帰ったら姉ちゃんに言って取り替えてもらうから」

「取り替える!?」

そんなことが出来るのか。それで大丈夫なのか。体の一部ではないのか。いや、そもそも人間の体と同列に語るのは難しいのだ。というか、人間だって臓器移植手術だったり、体の一部を取り替えることだってあるんだ。いやでも…… 思考が混迷する前に、ゴーグル君が笑う。

「だから、御崎君が気にすることはないよ。それに、僕は皆に手伝ってもらって、やっとこさ授業に参加している身なんだ。文句なんて滅相もないよ」

「ゴーグル君」

気付いていたのか。

「なんだい? まさか僕が気付いていなかったとでも思っているのかい? そんなわけないじゃないか」

またカラカラと笑う。深刻な雰囲気を出さないように努めているのがわかって、逆にこちらが心苦しくなる。

「あんな波が人工のプールで起こるわけがないだろう? 大体僕の目は節穴じゃないんだ。こんなに立派なレンズが二つも嵌っているんだよ? 皆が頑張って波を起こしてくれていることくらい知っていたさ」

「……そっか」

「ああ。ところで御崎君」

「うん?」

「今日のお弁当なんだが、プールの水を汲んできて欲しいんだ」

「お弁当持たせてもらえなかったのかい?」

「いや。あるにはあるけれど、今日はクソまずい水道水なんだよ。家畜の餌でももう少しマシなものだろうに」

母さんの手抜きにも困ったものだ、と不平をもらす。

「でも、プールの水だって、もとは水道水だろう?」

「ああ、でも塩素が入っている。たまにはそういう気分なんだ」

僕はゴーグルになったことはないので、彼の気分というものは察しようがない。でも、何となく思う。彼は僕や他のクラスメイトたちが気を遣わないように、あえてプールの水を所望したのかもしれない。自分は何も気にしていないよ、とでも言うように。

「次の時間は女子が使うだろう? その後が昼休み。直後ともなればエキスが新鮮だと思うんだ」

「この……」

クサレエロ眼鏡が。

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