ゴーグル19:ゴーグル君空気と化す
駅前で待ち合わせをしていると、玲奈の元気な声が聞こえた。彼女は大抵待ち合わせの時間きっかりにやってくる。
「ごめんね、待った? どのガスマスクを着て行こうか迷っちゃって」
「そっか。そんなに沢山持っているんだね」
敬語は廃止になった。彼女の意向である。
僕は腰掛けていたベンチから立ち上がる。今日も今日とて、夏日。最高気温が人の平熱に追いつきそうな日が続く。
「暑くない? ガスマスク」
「へいちゃらだよ。さ、行こう」
手をつないで、歩き出す。デートの決まりごと。これも暑いので、遠慮したいと言ったが、彼女は頑として受け付けなかった。まあ、実際は気恥ずかしいからやめて欲しかったのだが、なし崩し的に慣れてしまった。
「あ、そうだ。カード出して」
「う、うん」
僕はお尻のポケットから財布を取り出す。中を探ると、一番上に厚紙のカードがあった。
玲奈カード、というものである。僕たちが付き合うことになった日、流石に気が早いということで婚姻届は丁重にお返ししたところ、じゃあこれをあげると貰ったのだった。これはポイントカード制で、彼女が判子を持っている。どうすれば貯まるのかと言うと、これがわからない。彼女の基準で、僕が嬉しいことをしてくれた時に、捺印という格好である。時々なんら脈絡もなく押されるものだから、彼女自身にも仔細な設定があるわけでもないのかもしれない。
「はい。今日も暑い中、先に来て待っていてくれたから、一ポイント」
そう言って、鞄の中から朱肉と太鼓判を出す。学長などが使いそうな、とても大きなものである。器用に手の平の上で折りたたみのカードを開いて、ドンと押す。
玲奈カードには、二十個ほど升目があるが、その判子の大きさから、一度押せば問答無用で貯まる。最初見たときは、度肝を抜かれた。てっきり、一ポイントずつ小さな判子で貯めていくのだと思っていたのだ。そんな固定観念を粉々に打ち砕くこの人は、本当にバカ可愛いな、という気持ちになった。
「貯まったよ」
「うん。ありがとう」
貯まったそれと、新しいそれの二枚を受け取って、財布にしまう。
これでポイント完了済みの玲奈カードは僕の手に八枚ある。八回押印されたということである。
さて、ポイント満了の暁には、この玲奈カード一枚につき、一度だけ彼女が何でも僕のお願いを聞いてくれるという制度になっているのだが……
「使う?」
僕が黙り込んでいるので、お願いを考えていると勘違いしたのか、小さな体を丸めて、玲奈が顔を覗き込んでくる。
「えっと……」
エッチなお願いでもいいの? この一言が聞けない僕は、完全なるへたれなのだと、毎度実感する。
「じゃあ、暑いから何処か入ろうよ」
逃げるように、駅前から伸びる商店街を遠望する。ハンバーガー屋さんがあった。あそこに入ろうと指をさす。
「えー。でもガスマスク持って入ったら、怒られるでしょう?」
「うん」
「じゃあヤダよ」
「玲奈カードを一枚使っているんだよ」
「ぐう」
ぐうの音が出たところで、僕たちは店内に涼を求めた。
マクド・アナル・ドは、全国展開のファストフード店で、デフレスパイラルを生き残る、外食業界の巨人である。安い、早い、健康に悪い、の三拍子で、人気を博している。
玲奈に席を確保してもらって、僕は二つセットメニューを買って戻る。注文を受けてくれた可愛らしい女の子が勧めるものだから、断りきれずついついナゲッツまで頼んでしまったのはご愛嬌。
「お待たせ」
「……」
トレーを渡すが、黙って受け取られる。ああ、と僕は悟る。彼女は機嫌が悪くなると、口数が少なくなる。何故なのかが心当たりない場合、とても面倒である。即ち、今である。
「どうしたの? ガスマスクつけたいの?」
彼女の鞄の中には黒の無骨なガスマスクが入っている。ドブネズミの肉を加工しているから、出来たらつけて入りたい。店内に入るまえ、とても店員に聞かせられないような営業妨害まがいのことを言っていたから、そのことだろうか。ちなみに、懇々と諭して、牛肉であると信じてもらえたので今に至っている。
「……」
だんまり。違うということらしい。
「じゃあどうしたの?」
「……ナゲッツ」
「え?」
「あの店員が可愛いから、頼んだんだ」
ギクリとした。見られていたらしい。
「ち、違うよ。美味しそうだったから頼んだんだよ」
「嘘だ。美味しそうなのは店員の方でしょう?」
「まあそれもある…… じゃなくて、本当に、ただ食べたくなったからだよ。ほら、半分こしよう?」
思わず猫なで声で、彼女の取り易い位置までパックを押し出す。
「要らない」
「……」
「言ったでしょう? 浮気したら、手足を切断した後、止血して、傷口から細菌と寄生虫を流し込むって。その後、いよいよ死にそうになったら、野犬の群れに生きたまま食べさせるって」
「……どうして、玲奈は次から次そんなに残忍な方法を思いつくの?」
前は蟲毒よろしく、密閉空間で肉食獣と戦わせて、生きて戻ったら首を刎ねる。死んだら死んだで、転生できないように呪詛で塗り固めるとか言っていたような。
「っていうか、浮気ってそんな大袈裟な」
確かにちょっとは、可愛いなと思ったけど、そんな大それたことを考えていたわけでもないし。
思わず、振り返ってレジの方を見てしまう。それがいけなかった。
その横顔にぺちりと何かが当たる感触。ナゲッツをなげっつけられたらしい。
「見ちゃ駄目!」
「わ、わかった。わかったから、勿体無いマネしないで」
次弾装填といった形で、彼女がまた一つ摘んだところで、その手首を掴んで制止。
「むうううう。健二郎はわたしの彼氏なんだ! だから他の女の子を見たら駄目!」
大声で喚き始めた。何事かと、周囲の耳目がビンビンである。こうなると、彼女は手がつけられない。
何とかハンバーガーだけ持って、こんな時にも損得を考えてしまう僕は本当に小市民である、玲奈を立たせ、店を後にする。あのまま放っておいたら、警察が来るまで駄々をこねていただろう。




