ゴーグル17:ゴーグル君あんまり関係ない
天体観測の日から、二日経った。
未だに例の物体が何なのか、きっちりとした説明をつけることが出来ないが、少なくとも意識の底の方へ追いやることには成功していた。あの時言ったように、実際まじめに考察してもわかる筈もなく、忘れることに専念したことが功を奏したという形。とりあえず、おっか山には一生近づかないようにしようと思う。
今日も今日とて、特にやることもなく、気が向いたら宿題でもするか、なんて思っていたとき。
「けんじー。お客さんよー。激マブな女の子よー」
母さんが間延びした、しかしよく通る声で階下から呼びかけてくる。
客? チャイムの音などは聞こえなかったが、もしかしたら母さんが玄関先で水撒きしているところへ、その来客と鉢合わせたのかもしれない。母さんは最近暇さえあれば水撒きをしている。何でも例の新興宗教の人に、風水がどうのこうのということで、勧められた開運法なのだとか。今のところ怪しげな物は買わされていないので、放置しているが…… 激マブ?
居間には会長さんが居た。相変わらず小さいが、制服でも迷彩服でもなく、ちゃんとそれなりにオシャレしている様子は確かに可愛らしかった。激マブかどうかは知らないが。ソファーに腰掛けてじっとして、借りてきた猫のように大人しい。
「こんにちは」
意外な来客に面食らいながらも、挨拶をしてみる。
会長さんは、声をかけられて、はっとしたように立ち上がった。表情には硬さがある。いつもの不敵な様子とはまるで違って、そのことにも少し驚いた。
「こ、こんにちは。健二郎君」
ミサキオスはやめたのだろうか。
「母さんは、どこへ?」
テーブルの方を見ると、お客様にお出ししたらしい麦茶の入ったグラスが一つあるだけ。肝心のおもてなしするホストが居ない。
「うん。打ち水の途中だったみたいで、すぐに戻っちゃった。目がマジだった」
「そうなんですか。それはスイマセンでした」
会話が途切れた。だが、話題が尽きたわけではない。聞きたいことは沢山あったが、どれから聞くのが適切か、頭の中で考えていた。今日はどういった用向きですか。いつもの喋り方はどうしたんですか。ウチの母さんは大丈夫なんですか。
決めあぐねていると、会長さんがぱっと頭を下げた。
「この間のお礼をちゃんと言いに来たの。本当にありがとう」
「あ、いえ。別に、そんな」
これまた予想外の行動に、しどろもどろになったのは僕の方だった。
「いや。本当に、危ない所だったよ。健二郎君が身を挺して助けてくれなかったら……」
「いえ、本当に。気にしないでください」
「でも、あの時の健二郎君カッコ良かったなあ」
「聞いてます?」
「あ、うん」
「とにかく、あんまり気負わないでください。僕もよくわからないまま、勝手に体が動いたってだけですから」
「そうなんだ? 雨乞いのときと言い、健二郎君は実は、熱血漢なんだね。アツメンなんだね」
初めて聞いたな、その分類。というか、今更パーティーのことはぶり返さないで欲しい。
「まあ、僕はフツメンですけど。それはそうと、そういう訳ですから、あの時のことはお互い変な夢を見ていたとでも思って忘れることにしましょう」
「えー。もう脳裏に焼き付いちゃってるよ」
「……っていうか、そろそろ突っ込ませてもらうと」
「突っ込むなんて! まだお昼だよ? それに心の準備とかも要るし」
「お尋ねすると、一体その妙な喋り方はどうしたことなんですか? 変な物でも食べたんですか? それとも何か病気なんですか?」
「病気…… ふふふ。そうだね。お医者様でも治せない、な・ん・びょ・う! 即ち、恋の病!」
「それで、どうしてそんな喋り方なんですか? いつもの、人を食ったような感じでやってくれないと、こっちが調子狂うんですけど」
「ひどいなあ。そんな風に思ってたの? っていうかこっちが素なんだよ、わたし。あの喋り方は、なめられないようにしていただけ。あ、でも、健二郎君になら、その、舐められてもいいかな、色々」
「へえ、じゃあお姉さんと二人きりの時とかは、そっちなんですね」
未だ慣れないけど、納得はできた。疑問の方も解消されて、すっきりだ。
さて、と。用件も終えたようだし、そろそろお帰り願った方がいいだろうか。庭先から奇声も聞こえることだし。
「ああ、打ち水ハンパないわー。心が洗われすぎて、色々大事なことまで忘れそう。解脱の日もだいぶ近いね、これは。うん。ベリースーン」
ウチの母さんは、もう駄目、と。疑問は全て解けたことになる。
「それじゃあ会長さん、そういうことですから」
「あ、健二郎君。お土産があったの忘れてた」
お土産。そういえば、会長さんが座る足元に、紙袋があった。何かの荷物かと思っていたが、どうやら僕に渡すつもりだったらしい。
会長さんに手渡される。
「開けてみて!」
中を覗き込んでみる。ガスマスクがあった。あと、茶封筒。ガスマスクはスルーして、封筒の方を取り出してみた。蛍光灯にかざして、中を透いて見ようと掲げるが、よくわからない。
「開けてみても良いですか?」
「うん。ちょっと恥ずかしいけど」
失礼して、開封口の辺りを、慎重に破る。中から紙切れを引っ張り出すと、それを広げる。
ああ、この人、バカなんだ。一目見て、そう思った。
「わたしの欄には署名と捺印を済ませてるから、いつでも提出できるよ」
僕も実物は初めて見たが、本当にこんな紙切れ一つで、人と人との間柄が決まってしまうものなんだなあ、と何故か逃避気味なことを考えた。
「本気なんですか?」
「うん。当たり前じゃない。わたしをそこいらの尻軽と同じに見られたら困るよ」
なんと答えていいのかわからない。
「ずっとさりげなくスルーされていたけど、本当は結構、傷ついてたんだよ? わたし、本気なんだから」
なんと答えていいのかわからない。謝るべきかと思ったが、多分彼女が欲しいのはそんな言葉ではない。
「さっき、君は勝手に体が動いたって言ったけど、あんな場面で普通は、他人のことなんて助けられないよ。それは君が口ではなんと言っても、わたしのこと少しは好いてくれていたってことだと思うんだ。それがわかったとき、凄く嬉しかった」
なんと答えていいのかわからない。
ただ、確かに彼女の言うとおり、口では面倒くさそうにしていながらも、僕はこの人のことが嫌いではなかった。例えば。一つ多く頼んだ肉まんは実は僕の分で、そっと手渡してくれた時、微笑ましい気持ちになった。元々僕のお金だというのに、なんでか憎めなかった。例えば。星見の帰り道、僕の賢しい真似事は看破されていて、ほどほどにな、と優しく笑いかけられた時、僕は恥ずかしいような、それでいて嬉しいような気持ちになった。面倒な相手と一緒に歩くことになった、なんて一瞬でも思っていた自分が酷く醜く感じた。
その後、野人に襲われた時、咄嗟にああいった行動に移ったのは、確かに彼女のことが嫌いではなくて、罪滅ぼしと言ったら大袈裟だけど、罪悪感もあった。そういった悲喜こもごもの感情が、無意識下に、僕の体を突き動かしていた。
「わたしは、普段はこんなだろう? どうしても、知らない人間に対して、壁を作ってしまう。わたしは美咲君に言わせれば変な女なんだそうだ。それは自覚していて、素で話していいのなんて、限られた人間だけになってしまった。だけど、君にだけは何故か、最初から打ち解けられた。きっと最初から、印象は良かったんだろう。得体の知れない存在に対しても寛容で、あまつさえ世話まで焼いている、そんな君だから」
「……」
「そして、その勘は間違っていなかった」
にやりと笑う。いつもの会長さんらしい笑い方。だけど、これは彼女の仮面なのだろう。いや、こんな風に笑いかけるのですら、彼女の言葉を信じるなら、限られた人間に対してだけなのかもしれない。




