領地と甥を守るため、冒険者と契約結婚したら
硝子窓の外では、鉛色の雲が王都ロシュフォール侯爵邸の庭園を這うように低く垂れ込めている。執務室の澱んだ空気のなか、積まれた書類の山から目を離すまいと、エルザは浅く短い呼吸を繰り返していた。乱れた青みがかった銀髪をそのままに、疲れの滲む瑠璃色の瞳でようやく帳簿から顔を上げる。手のひらは氷のように冷たく、彼女は細い指を幾度も強く握りしめて血流を呼び戻した。
半年前の事故。当主である父親と、優秀だった後継ぎの兄が同時に命を落としてから、彼女を取り巻く世界は急変した。残されたのは、わずか三歳の甥であるアルチュールと、学者として生きるはずだったエルザだけ。当主不在の隙を突くように、侯爵家の莫大な財産と権力を狙う者たちが動き出す。連日届く封筒の中身は、露骨な縁談と脅迫状ばかりだった。彼女は表情を削ぎ落としてすべてを突っぱねてきたが、幼子と巨大な領地の行政を一人で背負う日々に、二十五歳の精神は音を立ててすり減っていた。
(……また、これなの)
届いたばかりの封筒から引き抜いた書状には、とある伯爵家からの身売りを迫る条件が無遠慮に並べ立てられている。拒絶すれば、明日にでも社交界で根も葉もない噂を流されるだろう。張り詰めた糸がちぎれそうになったその時、執事が静かな足音とともに、一枚の薄い資料を机の上に落とした。
「失礼します、エルザ様。……本日の報告と、他領の動向についてです」
エルザは震える指先でそれを引き寄せ、活字を追った。そこに記されていたのは、東方で大規模な水害に見舞われたアメルス子爵家の窮状と、その実家の救済のために奔走する一つの影だった。アメルス子爵家の三男、ジュリアス・アメルス。かつて身分の違いから理不尽な泥をかぶせられ、婚約者に裏切られた男。家を飛び出して冒険者として生きてきた彼は、領地が水害で壊滅的な打撃を受け、復興資金に頭を悩ませる実家を救うため、いまも金になる依頼を探し求めているという。
(……この男に会わなくてはならない)
震えていた唇を引き締め、エルザは乾いた声を絞り出した。
「アメルス子爵家の三男、ジュリアスに連絡を。――私からの依頼を打診しなさい」
黒鉛を溶かしたような泥水が、アメルス子爵領の平野を呑み込んだまま淀んでいる。河川の氾濫は田畑を壊滅させ、多くの農家や倉庫を押し流していた。アメルス子爵家の屋敷の執務室で、父親は顔に深い皺を刻み、机の上に積まれた天文学的な見積書を見つめて頭を抱えている。
「まただ……。どこの商人からも、これ以上の融資は断られた」
長男である兄も血走った目で帳簿を見つめながら歯噛みする。
「父上、こうなれば隣領の伯爵家に頭を下げるしか……しかし、あそこの条件は領地の割譲を呑めというものです。そんな真似をすれば、代々守ってきたアメルス家の誇りがすり潰されてしまいます」
その時、扉が無造作に開け放たれた。
「――なんだ、そんな暗い顔して。天井でも落っこちてきたのかよ」
泥のついた頑丈なブーツの音を響かせ、部屋に入ってきたのは三男のジュリアスだった。ざっくりと刈り揃えられた髪に使い込まれた革のジャケットという姿で、腕利きの荒くれ者のような佇まいをしている。
「ジュリアス……お前、なぜここに」
「ギルドでこの領の惨状を聞いてな。まさか実家がここまで干からびてるとは思わなかったから、ちょっと顔を出してやったのさ」
ジュリアスは机の上の借用書の一枚を摘み上げ、数字をひと目見て鼻を鳴らす。父親と兄は彼を見て複雑な表情を浮かべた。
「ジュリアス、お前には関係のないことだ。お前は自分の身一つで自由にしていろ。この家は……もうどうしようもないかもしれないが、お前まで巻き込むわけにはいかん」
父親が顔を背けたとき、ジュリアスは窓の外の泥濘んだ領地へと視線を向けた。
「おいおい、親父。俺をなんだと思ってやがる。……けどな、俺をここまで育てたこの土地や、文句言いつつも笑って送り出してくれた家族が泥まみれになってるのは、見てて気分が悪いんだわ」
ジュリアスは一歩前に出た。
「ちょうどいい。俺、少し前に厄介なワイバーンを一人で片付けて、ギルドからたんまりと報酬をせしめたところだ。それに、あちこちの依頼主から高額な引き合いもある。……で、いくら足りねえんだ、親父」
父親と兄は目を見開いたが、すぐに首を横に振る。
「馬鹿を言うな、ジュリアス!お前の個人的な貯えや稼ぎを全部つぎ込んだところで、この堤防の修復と全領民の冬支度には到底足りない。この規模の負債を帳消しにするには、国を挙げての援助か、あるいは……」
ジュリアスは父親の意図を察した。
「……権力者の懐に飛び込んで、銭と権限を引っ張ってこいってか。しかたねぇなぁ」
北方のロシュフォール侯爵家代理であるエルザが縁談の嵐に頭を悩ませているという噂は、ジュリアスの耳にも届いていた。彼は懐から一枚のしわくちゃの羊皮紙を取り出した。それはロシュフォール侯爵邸からの使者による極秘裏の打診だった。
『我が侯爵家の利権と甥アルチュールを守るため、野心を抱かない盾となってくれる男を探している。条件を呑むならば、アメルス領の負債の肩代わりと、徹底的な復興支援を約束しよう』
「ロシュフォール侯爵代理からの、お迎えってやつだ」
「ばっ、お前……!あそこは今、貴族どもが群がっている泥沼の権力闘争の場だぞ!そんなところに飛び込んで、お前がタダで済むわけが――」
兄が制止しようとするが、ジュリアスは肩をすくめた。
「タダで済む気なんてハナから思ってねぇよ。けどよ、あの堅物の綺麗どころを一人で矢面に立たせておくのも、男として趣味が悪い。報酬で実家が救えて、盾になってちょっとガキの相手をしてやるだけでいいなら、安いもんだろ?」
ジュリアスは振り返ることもなく屋敷の扉を開け放たせ、外の雨粒の中へ歩き出した。
王都のロシュフォール侯爵邸の応接室で、エルザは背筋をまっすぐに伸ばし、ソファの端に腰を下ろしていた。手元の羊皮紙には野心家たちを牽制するための条文が並んでいる。無遠慮に開け放たれた扉の音に、エルザの肩がわずかに跳ねた。
「お邪魔しまーすっと。いやぁ、広い家だな。迷子になりかけたぜ」
ジュリアスは泥のついたブーツのまま絨毯を踏みしめ、エルザを一瞥した。
「あなたが噂の、侯爵代理ってやつか。冷ややかな目をしてるじゃねえか。そんなに警戒すんなって、俺は噛みついたりしねえよ」
「……座りなさい」
エルザの低い声が響く。ジュリアスは向かいのソファに腰を下ろした。エルザは視線を向けながら本題へ切り込む。
「話は聞いているわね。我が家があなたに求める条件は三つ。一つ、甥のアルチュールの遊び相手を務めること。二つ、私に群がる野心的な貴族どもを威圧し、世間向けの夫として振る舞うこと。そして三つ――プライベートには一切干渉しないこと。お互いの私生活に立ち入らず、期間が過ぎればこの婚姻関係は速やかに解消する。……以上よ」
ジュリアスはテーブルに肘をついた。
「上等じゃねえか。めんどくせえ愛想笑いを浮かべる必要もねえし、お互いのプライベートに首を突っ込まねえなら、こんなに気楽な仕事はねえよ。親父の借金肩代わりと領地の復興支援、それだけやってやれば、そっちは貴族どもを追い払えて一石二鳥ってわけだ。……なあ、侯爵代理。お互い利害は一致してんだから、そんなに全身トゲだらけにしなくてもいいんじゃねえの?」
「っ……!」
エルザは喉をかすめ、仮面を締め直す。
「……口の減らない男ね。いいわ、その条件で契約を結ぶ。明日からあなたは、我が家の見せかけの夫としてここに住んでもらう」
「あいよ。じゃあ、さっそくそのガキとやらに顔を貸してやるとするか」
ジュリアスが立ち上がり、椅子の軋む音が静かな部屋の空気をわずかに揺らした。
広大な裏庭のテラスで、特製コートを着た三歳のアルトが庭を眺めて座っている。その背後で窓が重い音を立てて開いた。
「よう、アルト。部屋の中に籠ってちゃ、体が錆びちまうぜ。ちょっと表に出てこいよ」
シャツの袖を乱暴にまくったジュリアスが姿を現し、強引にアルトの手を引く。
「なっ、なに……?」
ジュリアスはテラスから芝生へ身を躍らせ、両手を地面につけて生垣の縁石を飛び越え、そのまま青草のなかを無様に転がった。
「ほらよ、どうだ!」
起き上がったジュリアスは服についた泥を乱暴に払い、歯を剥き出して笑う。
「なっ……なに、して……」
「決まってるだろ、お前と遊ぶのさ。さあ、次はオニごっこだ!捕まえてみろよ、アルト!」
ジュリアスが低い姿勢で駆け出す。
「あ……待て……!」
アルトの小さな足がもつれながらも芝生を蹴った。
「まてーっ!」
ジュリアスが庭の障害物を縫うように抜け、生垣の影に身を潜める。アルトは背中を必死に追いかけ、転んで膝から生ぐさい血を滲ませながらも走り続けた。
「――捕まえたっ!」
ジュリアスがわざとらしくバランスを崩して倒れ込むと、アルトはその背中に飛びつき、冷えた両手で必死にしがみついた。
「ぐはっ、まいった降参だ!」
アルトはジュリアスの背中にしがみついたまま、喉の奥から小さな歓声を上げて笑った。
その光景を二階の執務室の窓から見下ろしていたエルザは、指先に力を失い、持っていた資料を床へと滑り落とした。アルトの弾むような笑い声が耳に届き、エルザは衝動的に窓を力任せに押し開ける。
「ジュリアス・アメルス!何をしているのっ!」
身を乗り出したエルザの声が庭の空気を切り裂く。
「アルトに何をさせているの!?服は泥だらけ、膝からは血が出ているじゃない。貴族としての品位が――」
ジュリアスは芝生に大の字で寝転がったまま、面倒臭そうに片手をヒラヒラと振った。
「おっと、綺麗どころがお怒りだぜ。おいアルト、お前の怖ーいお姉様がご立腹だ。続きはまた今度だな」
「やだ!もっと遊ぶ!」
「はは、勝負は預けだ!」
エルザは喉のつかえを吐き出すように、小さく息を漏らした。
室内の隅、ジュリアスは床に直接腰を下ろし、片膝を立てたラフな姿勢でアルトに向き合っている。
「はい、そこ足首の力を抜かない。お上品にお茶を飲む前に、まずは自分の足で地面をしっかり掴めねえと、すぐに足元をすくわれるぜ」
アルトはジュリアスの動きを真似て足をもたつかせている。
「いいか、貴族の連中が気取ってやってる歩き方ってのはな、本番の修羅場じゃ何の役にも立たねえ。重心は常に低く、いつ敵が飛び込んできても瞬時に躱せる身のこなしをしておくこと。それが、この屋敷の次期当主になるお前が身につけるべき、本当の作法だ」
「うん!次はどうするの、おにいちゃん!」
アルトは潤んだ瞳でジュリアスを見上げて頷いた。
部屋の扉のわずかな隙間から、エルザはそのやり取りを凝視していた。
(……また、あんな無茶を……)
隙間から見えるアルトの背中は、指示をただ待つのではなく、自分で考えながら微かに体を動かしている。エルザは奥歯を強く噛み締め、誰にも見られない廊下の片隅で、熱を帯びた頬をそっと両手で覆った。
「……まったく、調子の狂う男」
エルザは掠れた声で誰にも聞こえない呟きを落とした。
午後の静まり返ったサロンで、エルザは冷めかけたティーカップの縁を指先でなぞっていた。
「ねえ、エルザ。本当にただの契約?」
対面の席に腰掛けるクロエが、探るような視線を投げかけてくる。エルザは手元の銀のスプーンをソーサーに鋭く当てた。
「な、何を言うの……私たちはあくまで利害の一致に基づく契約よ。あ方の目的は領地の復興支援、私はあの野暮ったい連中を追い払う盾を――それだけよ」
「へえ?じゃあ、その盾が庭で泥だらけになって子供と走り回って、夜な夜なあなたをからかったりしてるのは、契約の範疇なんだ?」
クロエは顔を覗き込み、面白がるような笑みを浮かべる。
「聞いてるわよ、使用人たちから。最近なんだか表情がほころびっぱなしで、おまけにあの元冒険者の前では、まるで……」
「っ……!そんなわけないでしょう!私はただ、アルトが日常を取り戻したことに……!」
エルザは言葉を飲み込み、カップから目を背けた。彼女の脳裏に、あの日のジュリアスの声が鮮烈に蘇る。
『あ?妻に用か?残念だな、俺の可愛い嫁をいじめる暇があったら、自分の甲斐性のなさを何とかしたらどうだ?』
ジュリアスは怯むことなくエルザの前に立ち、執拗な使者たちを冷ややかに追い返してくれたのだ。
「――ねえ」
クロエはふと声音を落とし、まっすぐにエルザを見つめた。
「人間はね、本当に追い詰められているときには、誰かを頼る余裕すらないものよ。あなたが今、その人のことでこんなに言葉を濁して、耳の先まで赤くしているのはさ……もう、頭ではなく身体が答えを出している証拠なんじゃない?」
「クロエ……」
「大切なのはね、その男の隣にいるときのあなたが、どれだけ深く呼吸をしやすそうかってことよ。……さて、これ以上いじめたら、噂の旦那様に後ろから首根っこを掴まれそうだから、このへんにしといてあげる」
クロエは軽やかな足音を残してサロンを去っていった。
エルザはカップのなかに揺れる液体をじっと見つめる。窓の外に目をやれば、シャツの裾を汚したジュリアスが無造作に歩いていた。彼は窓のなかのエルザに気づくと、悪戯っぽく片手を軽く上げて笑ってみせる。エルザは息を呑み、わずかに震える瞳でその背中を見つめ返した。
王都の片隅に佇む古びた洋館の一室で、ダンバー侯爵は青筋を浮かべた拳を机に叩きつけた。
「ふざけるな!あの若造め、どこの馬の骨とも知れぬ冒険者風情のくせに、我々の送り込んだ使者を片っ端から追い返し、あまつさえ利権工作まで牛耳るとは……!」
周囲の貴族たちは顔面を蒼白にさせ、冷汗を拭うことすら忘れている。両親と兄を一度に失ったエルザを孤立させ、手駒に収めるはずの計画は、ジュリアスという予測不能な異物によって完全に狂い始めていた。
「もはや表立った政治工作など時間の無駄だ。実力行使で血の決着をつけるしかない」
彼らはロシュフォール家へと続く街道や物資の搬入ルートに、容赦のない刺客を放つことを決定した。
その頃、ロシュフォール侯爵邸の書斎。ジュリアスは届いたばかりの粗末な手紙を片手に持ち、微かに眉をひそめていた。テーブルの上には、冒険者時代のコネを総動員して集められた生々しい情報が散らばっている。敵対派閥が物理的な襲撃へと舵を切り、その刃がエルザにも確実に向き始めていることが記されていた。
手紙を机に放り投げ、ジュリアスは椅子を引いて立ち上がる。
(連中が狙っているのは、俺という目の上のたんこぶを消すことだ。だったら、わざわざ屋敷のなかで待ち構えてやる必要もねえな。親父も使うか)
ジュリアスは誰にも告げることなく、夜の闇に溶けるように身を隠した。
二日後、王都外れの古びた洋館にジュリアスが現れる。冷たい石畳の回廊を歩くジュリアスに向かって、殺気を孕んだ剣が飛来する。彼は素早く上体を反らしてそれを寸前で躱し、背後の壁深く突き刺さった刃を一瞥した。
「おいおい、最初から隠れる気すらないってか?」
闇のなかから次々と飛び出してくる黒装束の男たちを相手に、ジュリアスは容赦のない体術と実戦の動きで次々と無力化していく。
その頃、ロシュフォール侯爵邸の執務室では、エルザが部屋に主がいない事に気づき捜索の指示を出していた。重厚なテーブルの上には、乱雑な文字で書かれた一枚の置き手紙が無造作に残されている。
『ちょっと掃除に行ってくる。二、三日ですぐ戻るから、アルトの面倒でも見ててくれ』
「バカな……っ!」
エルザは手紙を握りしめ、紙が破れるほどの強い力を込めた。敵対派閥がジュリアスの排除を狙い、殺し屋を放っていることを彼女は知っている。
(私を、家族をこれ以上巻き込まないために、あいつは一人でそこへ……!)
エルザは血の気引いた顔で執務室を飛び出した。広間に響いたのは、凛とした、しかし幼さの残る強い声だった。
「ボクもいく!おにいちゃんをいじめるわるいヤツら、ぜんぶやっつけるんだもん!」
涙を乱暴に拭い、小さな両手を拳に握りしめて立ち上がったのはアルトだった。そのまっすぐな瞳を見た瞬間、エルザは迷いを断ち切り、控えていた騎士団の隊長へと鋭い号令を飛ばした。
「ロシュフォール侯爵代理の名において命じます。直ちに精強なる私兵および騎士団を総動員しなさい。あの男に指一本でも触れた者は、我が家のすべてをかけて地獄の底まで追い詰めます!」
「はっ!」
ほぼ同時刻、王都へと続く舗装されていない街道を、アメルス子爵家の泥にまみれた紋章旗を掲げた一団が猛烈な勢いで疾走していた。馬上で血走り狂った目を剥いていたのは、他ならぬ父親と長男の兄だった。
『単独で突っ込む。ゴミ共を片付けるから手を貸せ、侯爵家への礼儀にもなるから動け』
三男からのそっけない手紙を受け取った二人は、一言の相談もなく馬腹を血まみれになるまで蹴りつけていた。
「我がアメルス家に泥を塗る愚か者どもは、我が家の全戦力をもって根絶やしにしてやる!」
アメルス領の精鋭たちが大地を蹴り鳴らす。ロシュフォール家の騎士団とアメルス子爵家の兵たちが、ひとつの血塗られた目的地へと激しく収束していく。
石畳の冷たい回廊で、ジュリアスはひれ伏す男たちを静かに見下ろしていた。
「で、お前らの協力者と金の流れの書かれた帳簿と謀略を仕掛けた証拠はどこだ。さっさと吐け」
ダンバー侯爵の側近が恐怖に青ざめた唇を震わせる。その瞬間、地下牢の分厚い外壁が爆ぜ、すさまじい冷気が地下通路へと吹き込んだ。土煙の向こう側から地響きのような蹄の音と怒号が響き渡り、頑丈な鉄の扉が内側へと無様にひしゃげ、視界が開けた。
「ジュリアス――――っ!!!」
地下牢へ狂気的な勢いで飛び込んできたエルザの双眸には、剥き出しの恐怖と焦燥が焼き付いていた。その後ろに続くロシュフォール家の精強な騎士団と、通路の壁を削りながら雪崩れ込んできたアメルス家の兵たちが、暗い地下空間を一気に満たしていく。
ジュリアスは目の前で荒く息を吸い込むエルザをただ呆然と見つめた。
「おいおい……なんだこの大所帯は。俺一人と親父たちで片付くって――」
「よくも……!よくも私を置いて、勝手に一人でこんな真似をしてくれたわね……ッ!」
エルザの両手がジュリアスの硬い胸元を激しく叩く。細い指先の震えが、痛いほどダイレクトに伝わってきた。瞳の端から、耐えきれなかった涙が止めどなく零れ落ちる。
「バカ……!本当にバカね、あなたという人は……ッ!もしあなたが本当に帰ってこなかったら、私は、私はどうすればよかったのよ……!」
ジュリアスは彼女の震える背中を両腕で強く抱き寄せ、その頭を自分の胸元へ引き込んだ。
「……心配かけたな」
二人の重なる心臓の鼓動が、地下牢の冷たい空気をわずかに温めていく。
すべての喧騒が去り、夜の冷たい風がロシュフォール侯爵邸の広大なテラスの石造りの手すりを撫でていた。夜気に震える手すりに凭れるエルザの背後から、よく知る低い声が降ってくる。
「……こんな夜更けに、冷え込むぞ」
振り返ると、ラフなシャツ姿のジュリアスがいつもの足取りで立っていた。
「……あなたこそ、勝手に外に出歩かないでよ。まだ傷の確認が……」
「これくらいの掠り傷ですぐにくたばるかよ。それより、せっかくの祝杯だというのに、我が妻は一人で何を黄昏れてやがるんだ」
「つ、妻なんて言わないで……ッ!私たちはあくまで、契約上の――」
「嘘つけ」
ジュリアスは一歩踏み込み、逃げ場のない距離まで一気に詰めた。
「あの地下で、お前が俺の名前を叫んで泣きながら飛び込んできたとき……正直驚いたぜ。あのトゲだらけだった侯爵代理様が、あんな顔をして俺のために怒ってくれるなんて思ってもみなかったからな」「っ……!あれは、その……状況が状況だったし、その、領主としての責任感から……!」
エルザはバツが悪そうに顔を背けた。耳たぶの先まで紅潮に染まっている。ジュリアスは小さく息を吐き出した。
「最初はさ、実家の借金をチャラにしてもらうための仮勤めのつもりだった。契約期間が過ぎたら、さっさとまた気ままな冒険者に戻るつもりでいたんだよ」
「……そうよ。だから、いつまでもここに縛り付けるわけには――」
「だけどよ」
ジュリアスはさらに踏み込み、背後の手すりとのあいだを完全に塞いだ。
「庭で泥だらけになって笑うアルトの顔を見たときも、夜遅くまで執務室で一人灯りをともして戦い続けるお前の背中を見たときも……いつの間にか、俺のなかでここが一番居心地のいい場所になってたんだ。見せかけの夫役なんて、もう止めだ」
ジュリアスは力強く両腕を回し、エルザの体をしっかりと包み込んだ。
「本物の俺の隣にいてくれ、エルザ。お前の孤独も、これからの未来も、全部俺に背負わせろ……いや、半分こしようぜ。俺は、お前をどこにも行かせねえし、俺ももうここ以外に行く気はねえよ」
エルザはジュリアスの熱を帯びた胸元へ顔をうずめ、シワが寄るほどに衣服の布地を両手で強く掴んだ。
「……ばか……ッ」
「本当に、あなたはいつも調子が狂うんだから……ッ」
「おう、覚悟しな。一生、その調子を狂わせてやるよ」
数か月後の穏やかな朝、眩しい朝日がロシュフォール侯爵邸の広大な庭園の芝生を濡らしていた。青草の上を、アルトが無邪気に駆け回っている。生垣の縁石を軽やかに飛び越えるアルトの姿を見て、ジュリアスはテラスの特等席でコーヒーの湯気を眺めていた。隣で香り高い紅茶を口に含んでいたエルザは、やれやれといった視線を庭に向ける。
「おにいちゃーん!見てて!ボク、もっとすごいところ見せるから!」
アルトが突然、庭の太い木に足をかけ、登り始めた。
「あっ、おい、アルト!そこはちょっと――」
「高いぞー!世界が一望できるぜ!」
ジュリアスが面白そうに声を張り上げた瞬間、エルザはテラスの階段を物凄い勢いで駆け下りた。
「アルチュールっ。すぐにそこから降りなさい」
「貴族の嫡男が木登りなど……。もし怪我でもしたらどうするのです。ジュリアス、あなたはなぜ止めるのです」
「いやぁ、男なら一度くらい木から落っこちて痛い思いをしねえと、強くならねえって」
「そういう問題ではありません」
アルトは木から軽やかに着地し、二人のもとへと誇らしげに駆け寄ってきた。
「ねえ、エルザ姉様!ボク、見てた!?すっごくかっこよかったでしょ!」
「かっこよくありません。服はボロボロではありませんか」
アルトはエルザの小言を無視するように、ジュリアスを見て胸を張った。
「ボクね、大きくなったら――おにいちゃんみたいな『かっこいい冒険者』になるんだ。剣を持って、魔物を倒して、いろんなところを旅するの!」
エルザは言葉を失い、その場で絶句した。
「……っえ?」
アルトは力強くうなずき、ジュリアスは面倒臭そうにしながらもその頭を乱暴に撫でる。
「お、いい筋してるじゃねえか、男なら一度は夢見るよな」
「ジュリアス……っ。あなたね!?うちの可愛いアルトに、また余計なコトを吹き込んだのは」
「いやいや、俺はただ冒険者の作法を教えただけで、将来の夢まで強制してねえよ」
「この子を立派な当主にするために、私がどれほど苦労して教育方法を模索していると思っているの」
こめかみを押さえて頭痛をこらえるエルザの横で、ジュリアスは悪びれもせずにケラケラと笑っている。その微笑ましい光景を離れた場所から眺めながら、クロエはティーカップを傾けて優雅に微笑んでいた。
さらに半年が過ぎ、活気を取り戻した食堂のテーブルの端には、相変わらず忙しそうなエルザが座っている。隣でジュリアスは焼きたてのトーストにバターを丁寧に塗っていた。
「おいアルト、皿の上の野菜を残さず食い切れ。冒険者になるなら、まず好き嫌いしてちゃ話にならねえぞ」
「むー!ボク、もうニンジンだってちゃんと食べられるもん!」
アルトが小さなフォークでニンジンを突き刺し、不満そうにほおを膨らませる。
「コラ、ジュリアス。朝から変な唆し方をしないで。アルト、この人に似ちゃダメよ。あなたはしっかりお勉強をして、立派な――」
「立派な、次代のロシュフォールを引っ張る大冒険者さ!」
「誰がそんな進路を認めた覚えがあるの」
エルザがジロリと冷たい視線を飛ばす。その時、食堂の重厚な扉が上品にノックされ、クロエがヒールを鳴らして入ってきた。
「お邪魔するわよ、我が親愛なる侯爵代理様、そして……すっかり居座った旦那様?」
「クロエ。またアポなしで……」
「いいじゃない。で?今週末の社交界の茶会だけど、あなたの『契約上の夫』も同伴するのよね?」
「やれやれ、堅苦しいお茶会なんて真っ平ごめんだぜ」
「ダメよ、ジュリアス。今やあなたはロシュフォール侯爵邸を支える配偶者なんだから」
ジュリアスがわざとらしく大袈裟に肩をすくめると、食堂は温かい笑い声に包まれた。
「おにいちゃん、今日も庭で特訓ね!」
「おう、行くぞ」
アルトが跳ねるように走り出し、エルザが呆れたようにその後を追う。
「待て待て、転ぶなよ」
ジュリアスがカップを置き、二人を追いかけてゆっくりと歩き出した。眩しい朝の光のなかを、三つの影が並んで進んでいく。




