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星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


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聞かない扉

黒麦亭の入口に、新しい札が掛けられました。


 名前を言えない日も、入っていい。

 話せる日まで、スープあります。


 それは、誰かを問い詰めるための扉ではありません。


 聞かないための扉。


 このページでは、その扉をくぐって、一人の旅人がルグナへやって来ます。

黒麦亭の扉に掛けられた札は、朝の光を受けて少し揺れていた。


 ――名前を言えない日も、入っていい。

 ――話せる日まで、スープあります。


 ミアが描いた小さな灯りの絵が、文字の横で丸く光って見える。


 黒麦亭の女将は、その札を見上げて満足そうに頷いた。


「いいね。これなら、腹を空かせた秘密持ちも入りやすいだろ」


 カイが椅子を運びながら言った。


「秘密持ちって言い方、強いな」


「じゃあ、言えないもの持ち」


「そっちの方が優しい」


「なら、それで」


 女将は笑いながら、大鍋の中をかき混ぜた。


 今日のスープは、黒麦と根菜のスープ。


 湯気の中に、やわらかな甘さが混ざっている。


 ユノは窓際の小さな席を整えていた。


 名前を聞かない席。


 白い布。

 空の椀。

 待ち灯り。

 帰り道の灯りを写した小石。


 誰かが座るかもしれない席。


 誰も座らなくても、そこにあるだけで意味のある席。


 ミアがそっと椀を置き直した。


「今日もここにあるね」


 ユノは頷いた。


「うん」


 エルネはその席を見て、静かに言った。


「アイリシアの塔にも、昨日、似た灯り台を作りました」


「星の席?」


 カイが聞く。


 エルネは少し笑った。


「はい。星の席です。名前を言えない星が、少し休めるように」


 リゼが記録帳を閉じながら頷いた。


「空にも聞かない扉ができたわけね」


 セレノは黒麦亭の隅で、守名筆の使用記録を整理していた。


 黒麦亭で記録をするのは少し不思議だったが、最近では珍しくなくなっていた。


 名前は、星灯坑だけでなく、食卓にも関わる。


 だから、記録帳も時々スープの匂いを吸うようになった。


 昼前、黒麦亭の扉が小さく開いた。


 入ってきたのは、見慣れない旅人だった。


 背は高くない。


 外套は海風にさらされたように色が抜けている。


 髪には潮の白い跡が残り、靴には黒い砂がついていた。


 顔は深いフードで隠れている。


 旅人は入口で足を止め、札を見上げた。


 名前を言えない日も、入っていい。


 その文字を、何度も読んでいるようだった。


 女将は何も聞かなかった。


 ただ、いつも通りの声で言った。


「寒いだろ。座りな」


 旅人は少し肩を震わせた。


 それから、小さく頷いた。


 名前を聞かない席ではなく、少し離れた普通の席に座る。


 女将は何も言わず、スープを置いた。


「食べな」


 旅人は椀を見つめた。


 長い間、手をつけなかった。


 ユノたちは、遠くから様子を見ていた。


 カイが小声で言う。


「海の匂い、する」


 ミアが頷いた。


「黒い砂も」


 忘れ潮の浜。


 ユノの胸がざわついた。


 けれど、聞かない。


 ここは聞かない扉のある場所だ。


 旅人はやがて、震える手でスープを口に運んだ。


 その瞬間、肩の力が少し抜けた。


 湯気がフードの中へ吸い込まれていく。


 女将は厨房から声をかけた。


「おかわりいるなら言いな。名前はいらない。椀を出せば分かる」


 旅人の手が止まった。


 そして、ほんの少しだけ頷いた。


 ユノは胸が熱くなった。


 名前を聞かないおかえりは、こうして扉になる。


 誰かが入ってこられる場所になる。


 それからしばらく、旅人は毎日黒麦亭に来た。


 朝ではなく、昼の少し過ぎ。


 人が少ない時間。


 同じ席に座り、スープを一杯飲む。


 名前は言わない。


 顔も見せない。


 誰も聞かない。


 ただ、三日目に女将が言った。


「いつもの席、空けとくよ」


 旅人は小さく頭を下げた。


 それが、最初の返事だった。


 四日目には、椀を自分で返した。


 五日目には、黒麦パンを一切れ追加した。


 六日目には、入口の札に触れてから店に入った。


 七日目、旅人は名前を聞かない席の近くへ移った。


 まだそこには座らない。


 でも、近づいた。


 ミアが小声で言った。


「少しずつ、帰ってきてるみたい」


 リゼは頷いた。


「帰り道の灯りに反応しているのかもしれない」


 エルネは青白い糸を指先で撫でた。


「海の気配があります。でも、名前はまだ奥に伏せられている」


 セレノが静かに言った。


「追わない」


 ユノも頷いた。


「追わない」


 八日目の夕方、事件が起きた。


 黒麦亭に、王国風の紋章をつけた旅商人が入ってきた。


 誓約官残党ではない。


 けれど、旧王国の名簿を扱っていた商会に関わる者らしい。


 彼は店内を見回し、フードの旅人を見た瞬間、目を細めた。


「おや」


 旅人の肩が強く震えた。


 商人が一歩近づく。


「あなた、どこかで――」


 その瞬間、女将が大鍋の蓋を大きな音で閉めた。


 店内がびくりとする。


 女将は低い声で言った。


「うちでは、客の名前を勝手に聞かない」


 商人は眉を上げる。


「私はただ、知り合いかと」


「知り合いなら、向こうから言うだろ」


 カイが立ち上がった。


 木剣は持っていない。


 けれど、守る者の顔をしていた。


「ここ、聞かない扉の店だから」


 商人は少し笑った。


「面白い決まりですね」


 リゼが静かに言った。


「決まりではなく、誓いです」


 セレノも立った。


 商人はセレノを見て、顔色を変えた。


「あなたは……」


 セレノは冷たく言った。


「ここでは名を暴かない」


 その声には、黒翼騎士団長だった頃の鋭さと、今の守る誓いが混ざっていた。


 商人はそれ以上言わなかった。


 席へ案内され、黙ってスープを食べた。


 フードの旅人は、両手で椀を握りしめていた。


 震えが止まらない。


 ミアがゆっくり近づき、少し離れた席に待ち灯りを置いた。


 直接声をかけない。


 ただ、灯りを置く。


 旅人の震えが少し収まった。


 ユノは入口の札を見た。


 名前を言えない日も、入っていい。


 この札は、ただ優しい言葉ではない。


 守るための盾でもある。


 聞かない扉は、誰かが勝手に開けようとした時、閉じる力を持たなければならない。


 商人が帰った後、店内には長い沈黙が残った。


 女将は旅人の前に温かいお茶を置いた。


「怖かったね」


 旅人は何も言わなかった。


 でも、お茶の湯気を見ながら、少しだけ頷いた。


 女将は続けた。


「ここでは、言いたくなるまで言わなくていい」


 旅人の肩が震えた。


 そして、初めて声が出た。


「……本当に?」


 とても小さな声だった。


 女将は当然のように答えた。


「本当だよ」


 旅人は泣いた。


 フードを深くかぶったまま、声を殺すように泣いた。


 誰も近づかなかった。


 誰も背中を叩かなかった。


 ただ、待ち灯りがそばに置かれ、スープの湯気がそこにあった。


 その夜、旅人は黒麦亭を出る前に、名前を聞かない席の前で立ち止まった。


 そして、椀の横に小さなものを置いた。


 白い貝殻だった。


 ユノたちは息を呑んだ。


 忘れ潮の浜の貝殻よりずっと小さい。


 けれど、同じ白い光を持っている。


 旅人は声を震わせて言った。


「預けても、いいですか」


 女将は頷いた。


「名前はいらないよ」


 旅人は貝殻を置いた。


「帰る練習を、ここでしたい」


 ユノの胸が熱くなった。


 帰る練習。


 それは、とても正しい言葉に思えた。


 黒麦亭の扉をくぐること。

 スープを飲むこと。

 椀を返すこと。

 札を見ること。

 誰にも名前を聞かれないこと。

 少しずつ、自分が戻ってくること。


 それは、帰る練習なのだ。


 リゼは短く記録した。


 ――黒麦亭。聞かない扉。

 ――海の貝殻を預託。

 ――帰る練習の場として使用。

 ――名は未開示。


 セレノはその記録に頷いた。


「良い記録だ」


 リゼが少し驚く。


「あなたに褒められるのは珍しいわ」


「短く、守っている」


 リゼは微かに笑った。


 翌日から、黒麦亭の聞かない席には白い貝殻も置かれるようになった。


 旅人は毎日来た。


 少しずつ変わっていった。


 十日目には、入口で「こんにちは」と言った。


 十一日目には、スープのおかわりを頼んだ。


 十二日目には、カイに少しだけ笑った。


 十三日目には、ミアの記憶灯を見て「きれい」と言った。


 十四日目には、名前を書かない壁の前に立った。


 そして、白い札を一枚掛けた。


 そこにはもちろん、何も書かなかった。


 ただ、灯りの印と、小さな貝殻の印だけ。


 ユノは少し離れて見守った。


 旅人は札へ向かって、小さく言った。


「まだ、ここまで」


 それで十分だった。


 夜、ユノは黒麦亭の入口に立ち、札を見上げた。


 名前を言えない日も、入っていい。


 その言葉の下に、女将が新しく一文を書き足していた。


 ――帰る練習、できます。


 ユノは笑った。


 とても女将らしい。


 でも、とても大切な言葉だった。


 ミアが隣に来る。


「いいね」


「うん」


 カイも来る。


「練習なら失敗してもいいしな」


 リゼが頷く。


「帰ることにも練習が必要な人がいる。記録しておくべき言葉ね」


 エルネが言った。


「アイリシアの塔にも書きます」


 セレノは静かに付け加えた。


「星灯坑にも」


 聞かない扉。


 それは、ただ質問をしない扉ではない。


 誰かが自分の速度で戻れるように、余白を作る扉だった。


 その扉の向こうには、スープがあり、椀があり、灯りがあり、誰かの「おかえり」がある。


 名前を言う前に、いていい場所がある。


 その夜、黒麦亭の窓際の席で、白い貝殻が静かに光っていた。


 海の音は、もう怖いほどではなかった。


 波は遠くで、ゆっくり引いている。


 その代わりに、黒麦亭の中では鍋の湯気が立ち、誰かの小さな笑い声があった。


 旅人はまだ名乗らない。


 それでいい。


 聞かない扉は、今日も開いている。


 名前を言えない誰かが、帰る練習をするために。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 黒麦亭の“聞かない扉”をくぐって、海の気配を持つ旅人がやって来ました。


 名前を言わなくても、帰る練習はできる。

 その場所が、ルグナに生まれました。


 次のページは『帰る練習』です。

 旅人が少しずつ自分の居場所を取り戻していきます。

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