表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星喰いの王と、忘れられた魔女  作者: あーちゃん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
116/128

名前を書かない壁

ルグナには、名前を書く壁がありました。


 戻った名。

 探している名。

 忘れたくない名。


 そして今、もう一つの壁が生まれます。


 名前を書かない壁。


 そこには、まだ呼べない名、伏せて守りたい名、誰にも知られたくないけれど忘れたくない名が預けられていきます。

名前を書かない壁は、広場の隅に作られた。


 名前を書く壁の、すぐ隣ではない。


 けれど、遠すぎもしない。


 少し歩けば行ける距離。


 声を出したい人は名前を書く壁へ。

 まだ声にできない人は名前を書かない壁へ。


 どちらも星灯坑へ続く道の途中にあった。


 壁は白い木でできていた。


 ガルドが削り、炭鉱夫たちが立て、ミアが小さな待ち灯りを取り付けた。


 そこに掛けられる札は、すべて白い。


 文字は書かない。


 ただ、小さな灯りの印だけを刻む。


 ユノはその壁を見て、不思議な気持ちになった。


 何も書かれていないのに、空っぽに見えない。


 そこには、言えない名前がある。


 言えないまま、それでも忘れたくない思いがある。


 ミアが隣で言った。


「白紙の野とは違うね」


「うん」


「白紙の野は、名前が見えなくなってた。でもこの壁は、見せないって決めてる」


 リゼが頷いた。


「大切な違いね。消えた白紙ではなく、守るための余白」


 セレノはその言葉を記録した。


 ――名前を書かない壁。

 ――消えた名の壁ではない。

 ――守るための余白。


 最初に札を掛けたのは、開かない封筒を預けた女性だった。


 彼女は白い札を両手で持ち、長い間壁の前に立っていた。


 名前は書かない。


 でも、何もせずにはいられない。


 ミアが小さな灯りを渡した。


 女性は札に灯りの印だけを刻んだ。


 そして壁に掛ける。


「ここに、いる」


 女性は名前を呼ばなかった。


 けれど、その言葉だけで十分だった。


 札の灯りが、淡く揺れた。


 次に来たのは、弟ルカの名を待ち灯りに預けた女性だった。


 彼女は迷っていた。


「ルカの名前は、もう星灯坑にあります。でも、私が言えなかった時間も、ここに置いていいですか」


 ユノは頷いた。


「もちろん」


 彼女は白い札に、何も書かずに灯りの印を刻んだ。


「言えなかった、ごめんね」


 札が壁に掛けられる。


 名前を書く壁には、ルカの名がある。

 名前を書かない壁には、言えなかった時間がある。


 どちらも、本当だった。


 カイはそれを見て、小さく言った。


「名前が戻っても、言えなかった時間は消えないんだな」


 リゼが答える。


「ええ。だから、そこにも灯りが必要なのよ」


 その日のうちに、白い札は少しずつ増えた。


 昔、家を出たまま戻らない父の名を、まだ呼べない子。

 亡くなった友人の名を、笑って話せる日まで伏せたい老人。

 自分の昔の名前を捨てたいわけではないけれど、今は誰にも呼ばれたくない旅人。

 誰かを愛していたことを、今は胸の中だけにしまっておきたい人。


 名前を書かない壁は、静かに札を受け入れた。


 誰も、そこに何の名があるのか聞かなかった。


 子どもたちは最初、不思議そうにしていた。


「何も書いてないのに、どうやって分かるの?」


 カイが答えた。


「分からなくていいんだ」


「分からないのに、守れるの?」


「守れる」


 カイは少し考えてから言った。


「名前を知らなくても、その人が大事にしてるってことは分かるから」


 子どもは白い札を見つめた。


「じゃあ、触っちゃ駄目?」


「駄目。見るだけ」


「読むものないのに?」


「読むものがないから、勝手に読もうとしない」


 子どもは真剣に頷いた。


 そのやり取りを聞いて、ミアは笑った。


「カイ、本当に先生みたい」


「守る者だから」


 いつもの返事。


 でも、その声には少し誇りがあった。


 夕方、名前を書かない壁の前で、小さな揉め事が起きた。


 一人の男が、白い札をじっと見つめていた。


 そして、近くにいた女性へ言った。


「それ、もしかして俺の兄の名前か」


 女性は顔を強張らせた。


「違います」


「じゃあ誰だ」


「言えません」


「言えないってことは、やっぱり――」


 その時、ユノが間に入った。


「ここでは聞かない決まりです」


 男は苛立った顔で言った。


「家族の名前かもしれないんだ。知る権利があるだろ」


 リゼも近づいてきた。


「知る権利より、伏せる意思が優先される場合があります」


「隠し事を守るのか」


 男の声が荒くなる。


 セレノが静かに言った。


「暴くことは、真実を得ることとは違う」


 男はセレノを睨んだ。


「またそれか」


 ユノは男を見つめた。


「もし、その札があなたの知りたい名前だったとしても、ここで無理に聞き出したら、その名前は傷つきます」


「じゃあ、俺はずっと知らないままか」


 リゼが答える。


「いいえ。知りたいなら、自分の名前で待ち灯りを置くこともできます。問いかけることはできる。でも、相手の札を開くことはできません」


 男は言葉に詰まった。


 しばらくして、拳を握りしめたまま言った。


「……俺も、置けるのか」


 ミアが待ち灯りを差し出した。


「置けます」


 男は少し離れた場所に白い札を掛けた。


 そこにも名前は書かない。


 ただ、灯りの印だけ。


 彼は小さく言った。


「知りたい。でも、無理には聞かない」


 二つの白い札が、壁で並んだ。


 答えを伏せる札。

 答えを待つ札。


 名前を書かない壁は、両方を受け止めた。


 夜、星灯坑では、名前を書かない壁についての新しい誓いが読まれた。


 町長が言う。


 ――白い札には、勝手に意味を決めつけない。

 ――誰の名かを問い詰めない。

 ――知りたい時は、自分の灯りを置く。

 ――伏せる人も、待つ人も、同じ壁の前に立てる。

 ――名前を書かないことは、存在しないことではない。


 町の人々が続けた。


 その声は、いつもの読み上げより静かだった。


 大声で言う誓いではない。


 誰かの胸の中を守るための誓いだから。


 エルネは白い札の並ぶ壁を見て言った。


「星約守りの家にも、同じ壁を作りたいです」


 ミアが頷く。


「作ろう。アイリシアの塔にも、空白の額のそばに」


 アイリシアから、空と地の星灯りを通して返事が届いた。


 ――空にも、名前を書かない場所が必要。

 ――まだ呼ばれたくない星がある。


 ユノは空を見上げた。


 星にも、呼ばれたくない時がある。


 アイリシアが名前を求めていたように、すべての星がすぐ呼ばれたいわけではないのだ。


 名前を守る仕事は、また一つ広がった。


 呼ぶだけではなく、呼ばない場所を作ること。


 夜更け、ユノは一人で名前を書かない壁の前に立った。


 白い札が、待ち灯りのように淡く揺れている。


 その中に、自分のための札を掛けるべきか、少し考えた。


 ユノにも、まだ言葉にしていない恐れがある。


 いつか自分が、名を呼ぶ力で誰かを傷つけるかもしれないという恐れ。


 星灯りの剣を持つ自分自身への怖さ。


 名前を書かない壁は、そんなものも置いていいように見えた。


 ユノは白い札を一枚取った。


 何も書かない。


 ただ、灯りの印を刻む。


 壁の端に掛けた。


 ミアが後ろから声をかけた。


「ユノ?」


「いる」


「それ、ユノの?」


 ユノは少し迷って、頷いた。


「うん。でも、何かはまだ言わない」


 ミアは静かに頷いた。


「分かった。聞かない」


 その返事に、ユノは救われた気がした。


 聞かないでいてくれる人がいる。


 それも、守られているということなのだ。


 ミアも白い札を一枚取った。


 ユノが驚く。


「ミアも?」


「うん」


「聞かない方がいい?」


 ミアは笑った。


「うん。今は」


「分かった」


 二人の白い札が、壁の端に並んだ。


 名前ではなく、まだ言えないものを守る札。


 しばらくして、カイも来た。


「何してるんだ?」


 ミアが言った。


「白い札、置いた」


「じゃあ俺も置く」


 早かった。


 ユノが笑う。


「理由、聞かないぞ」


「聞くな。守る者にも秘密はある」


 カイは白い札を掛けた。


 少し斜めだったので、ミアが直した。


 その後、リゼも来た。


 彼女は三人の札を見て、何も聞かずに、自分も白い札を掛けた。


 エルネも。


 最後に、少し離れて見ていたセレノも、一枚掛けた。


 六つの白い札が並んだ。


 ユノ。

 ミア。

 カイ。

 リゼ。

 エルネ。

 セレノ。


 名前は書かれていない。


 けれど、そこにはそれぞれの言えないものがある。


 ユノは仲間たちを見た。


 みんな、言えることばかりではない。


 でも、言えないまま一緒に立てる。


 それは、とても大切なことのように思えた。


 セレノが小さく言った。


「名前を書かない壁は、弱さを置く場所にもなるのだな」


 リゼが答える。


「弱さというより、まだ言葉にならないものかもしれないわ」


 エルネが頷く。


「約束になる前の気持ちみたいです」


 カイが言う。


「名前になる前の名前?」


 ミアが微笑む。


「そうかも」


 ユノは白い札を見つめた。


 名前を書く壁は、戻ったものを祝う場所。


 名前を書かない壁は、まだ守りたいものを置く場所。


 どちらも必要だった。


 翌朝、町の人々は六つの新しい札に気づいた。


 けれど誰も聞かなかった。


 ただ、子どもの一人が小さく言った。


「みんなにも、書かない名前あるんだね」


 カイが頷いた。


「ある」


「先生にも?」


「守る者にもある」


 子どもは納得したように頷いた。


 名前を書かない壁は、その日からルグナの景色の一部になった。


 名前を書く壁のように賑やかではない。


 でも、いつも誰かが立ち止まる。


 声にできない思いを持った人。

 聞かないでいる優しさを学ぶ人。

 いつか話せる日を待つ人。


 白い札は少しずつ増えていく。


 そのたびに、ルグナは静かな余白を覚えていった。


 呼ぶ町であり、待つ町であり、伏せる町。


 そして、名前を書かないことで、名前を守る町になっていった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


 名前を書かない壁は、言えない名や、まだ言葉にならない思いを守る場所になりました。


 聞かない優しさ。

 書かない誠実さ。

 それも名前を守る方法です。


 次のページは『白い札の夜』です。

 名前を書かない壁に掛けられた白い札たちが、夜に静かな反応を見せ始めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ