最後のやり直し(100回目)ですが、後悔はありません
真っ白な宮殿。
入り口に備え付けられた鐘が、荘厳な音を立てて響き渡った。
「エレオノーラ様! アストリッドが!」
「ええ、来るようね」
「はい。そして、とうとう! とうとう100回目ですっ!」
「100回目……こんな日が来るなんて」
エレオノーラは腰まで届く銀髪をさらりと揺らし、胸の前で手を組んで空を仰いだ。
その瞳と同じ水色の空はどこまでも平坦で、雲も風も、奥行きさえ感じられない。
彼女の傍らでは、金のサークレットをつけた少女たちが、全く同じ仕草で祈りを捧げている。
「では。わたしは、お茶とお菓子の用意をしてまいります」
「じゃあわたしは、彼女が好きなアネモネを用意するね」
「わたしは、新鮮なチェリーを摘みとってくるわ」
少女たちは、まるでお芝居の退場シーンのように、軽やかな足取りで散らばっていく。
その直後、広間の中央にある祭壇が過剰なまでの光に包まれた。
そこには、透けるような金色の髪と、深く青い瞳を持つ一人の少女が立っていた。
✧✧✧
アストリッドは、目の前に広がる光景に、自分の置かれた状況を整理しようとしていた。
ここはどこなの?
さっきまで、私は間違いなくパーティー会場にいたはず。
そこで婚約者のマティアスから、あまりにも唐突で、古典的な婚約破棄を告げられた……。
ショックを受ける間もなかった。
マティアスを罵る友人たちが、一斉に二人を飲み込むように押し寄せ、会場は一瞬で大騒ぎになった。
彼らの激しい罵倒をどこか遠くに聞きながら、私は人波に押され足を取られる。
次の瞬間、床に倒れ込み、気づけば意識が遠のいていた。
最後に、誰かが私の手を握った気がする……。
でも、身体はまったく動かなかった。
アストリッドは、胸が潰されるような感触を思い出し、自分の身体を強く抱きしめる。
しかし、今自分の目に移っているのは、生活感の欠片もない純白の室内。
雲のような絨毯に、透き通ったクリスタルの食器。
長いテーブルには菓子と果物が並び、ティーポットからは華やかな香りが立ちのぼっている。
「これは夢……?」
「夢じゃないわアストリッド。ここは、『夜明けの宮殿』よ」
背後から、聞き覚えのある声がした。
自分の声に似た、不思議な響き。
振り返ると、そこには銀色に輝く髪と、空のような水色の瞳を持つ女性が立っていた。
眩しいほどに彼女は美しいが、どうにも自分に似ている気がしてならない。
「私……なの?」
「ええ、私はあな……」
「エレオノーラ様っ! 100回目です!」
言いかけた女性の横から、髪を一つにまとめた少女が割り込んできた。
繊細な細工の金のサークレットが揺れている。
100回目?
その数字の意味が、アストリッドには理解できない。
エレオノーラと呼ばれた女性は、わずかに気まずそうな表情を浮かべ、アストリッドの手をそっと取った。
「いえ、違います。私はこの宮殿を守る者エレオノーラ。一応女神です」
「宮殿? 女神!?」
「はい」
驚いて周囲を見渡すと、さらに二人の少女がいることに気づいた。
目の前にいる少女と顔立ちは全く同じ、違うのは髪型だけ。
彼女たちは、仲の良い友人を見るような表情でこちらを見つめていた。
アストリッドの視界が、微かに揺れる。
助かったと思いたいが、この場所はあまりに現実離れしすぎている。
広すぎて遠くの壁が見えない部屋というのも、やはり夢のよう。
困惑するアストリッドに対し、エレオノーラはすべてを察したようにゆっくり頷いた。三人の少女たちも頷いている。
「アストリッド。今は混乱していると思うけれど、まずは席に着きましょう。この子たちが、あなたの好きなものを用意してくれたの」
「私の好きなもの……」
確かに、さっきから漂うこの香りは、どれも大好きな甘い匂いばかり。
空腹は限界だし、ここで立ち尽くしていても事態は好転しない。
何より、自分に似た女神も少女たちも、自分を騙そうとしているようには見えなかった。
「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
「よかった! アスティの好きなチェリーをたくさん摘んできたの。わたし、ルシアよ」
「そのチェリーを使ったクラフティもあるのよ! わたしはシエル。もう一人はミルカよ」
「ルシア、シエル、ミルカね。ありがとう。クラフティは大好きよ」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて歓迎してくれる三人の少女に促されるまま、アストリッドは席に着いた。
銀色の髪の女性は『女神』と名乗り、私の名を呼んだ。
この可愛い少女たちは、私のことを愛称で呼んでいる。
やっぱり……ううん、間違いなく私死んでるんだ。
そしてここは天国なんだ。
正面で微笑む女神は、見れば見るほど自分に似ていた。
テーブルの上には、ダークチェリーのクラフティがほんのり湯気を立てている。
甘いカスタードの香りに、濃いミルクティーの華やかな香りが重なる。
「どうぞ召し上がれ」
「あの、エレオノーラ様」
「なあに?」
「私は死んでいて、ここは天国なんでしょうか?」
✧✧✧
一瞬の静寂のあと、少女たちが一斉に顔を見合わせた。
女神は少しだけ目を細め、僅かにに頷く。
「ええ。あなたはマティアスに婚約破棄を告げられた後、詰め寄った知人たちの人波に押し倒されて、その……一番下敷きになってしまったの」
「ああ、やっぱり」
意識が途切れる寸前の、あの最悪な圧迫感が蘇る。
最後に見えたのは、マティアスとデリア・クランツ伯爵令嬢の小さな足。
誰かが私の手を取る感触のあとからは記憶がない。
「周囲の人に悪意はなかったの。皆あなたのことが好きだからマティアスに詰め寄ったのね。悲しい事故だわ」
「そうだったんですね……」
婚約破棄が真実だったことをあらためて実感し、今度は胸に嫌な感じが走った。
それにしても、周囲の善意で死んでしまうなんて。
そんなおかしな話があるかしら――いえ、あるわね。現に私がここにいるんだもの。
アストリッドは、差し出されたミルクティーに口をつける。
濃厚な紅茶に、たっぷりのお砂糖。
完璧に自分好みの味に驚き、それと同時に、強張っていた肩の力がふっと抜けた。
「あと、ここは天国ではないわよ」
「えっ?」
「天国の門は、ここからもっと遠い場所にあるの。わたくしたちのこの宮殿は、特別な人しか来ることができない場所なのよ」
「特別、ですか?」
「ええ。道に迷った者や、あなたのように人生をやり直す者」
アストリッドは自分の耳を疑った。
人生をやり直せる?
「そうよ」
女神は事も無げに答える。
さっきから気になっていたが、彼女は私の心を読んでいるのだろうか。
「そうよ」
今度は、いたずらっぽくにっこりと笑った。
えっ、本当にそうなんだ。
女神だもんね……あっこれも聞こえて……。
アストリッドはどうすればいいかわからず唇をぎゅっと結ぶ。
「エレオノーラ様、アスティが怖がってますよ!」
「そうですよ!」
シエルとルシアが、窘めるように女神に駆け寄る。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりはなかったのだけれど」
「いえ、大丈夫ですエレオノーラ様。今の状況がすでに普通ではないので、それくらいでは驚きません、はい」
「ありがとう。聞きたいことはたくさんあるでしょう。でも、その前に……」
「その前に?」
「あなたが今までやり直してきた、99回について話しましょう」
✧✧✧
「99回っ!」
アストリッドの声が、広間に響いた。
シエルがさっき口にしていた「100回目」という言葉の意味が、いまわかった。
私は今までに99回もここに来ている?
ということは……99回死んでいて、いまこの時点で100回目!?
「そうなのよ。しかも、きっかけはすべてマティアスとの婚約破棄」
「えっ、嘘」
「残念ながら本当よ。そして、相手がほぼデリア・クランツなのもね」
デリア・クランツ。
二年ほど前、静養のために領地へ越してきた令嬢。
刺繍が趣味の大人しい性格で、少なくとも私とはまったく似ていない。
マティアスが、すぐに彼女と親しくなったのは覚えている。
それが、99回もの婚約破棄に繋がるなんて……いや、待って。
今、ほぼって?
アストリッドは女神を見た。
「そう、ほぼデリア。4回だけ、違う人だったわ」
「!!」
「聞きたい? って、聞きたいわよね」
アストリッドが頷くと、ミルカがノートを開き始めた。
三人の少女の中でも、髪をひとつにまとめた彼女は、少し大人びて見える。
表紙には『アストリッドの記録』と、流麗な文字が記されていた。
中は文字でびっしりと埋まり、インデックスまで丁寧に貼られている。
あれに、私の99回の失敗が詰め込まれているのね……
じっとミルカを見つめていると、ぱちんと目が合った。
薄いブロンドの髪に、女神と同じ水色の瞳。
睫毛は真っ白でくるんとしている。
まるで絵画の中に出てくる天使みたいだとアストリッドは思った。
「ふふふ、可愛いでしょこの子たち。でも天使じゃないのよ。本物の天使は天国にいるわ」
「まあ、そうなんですね」
「そうなの。ミルカが調べている間に、あなたが最初にどうしてここに来たか、そしてなぜ100回もやり直すことになったのか、説明するわね」
たしかにそれが一番気になる。
自分の死を悲しむ段階は、もうとっくに通り過ぎていた。
アストリッドが深く頷くと、女神は銀髪をさらりとはらい、満足そうに微笑んだ。
「長いお話になるから、せっかくだからクラフティでも食べながら聞いてちょうだい。とっておきに美味しいのよ」
そう言われテーブルの上の皿へ視線を落とした。
溢れそうなカスタードの上に、大きなダークチェリーが整然と並び、表面には薄く粉砂糖が振られている。
こんな状況で食事なんて! と思ったけど、この見た目はさすがに食欲をそそられる。
白い皿に大きなスプーンを入れ、一掬いして口に運んだ。
甘さと酸味が絶妙に混ざり合い、あまりの美味しさにほっぺたがきゅっとなる。
その様子を見た女神は、また優しく微笑んだ。
✧✧✧
「今から話すこと、きっとあなたは驚くし信じられないと思う。でも、今回が100回目で、これが最後なの。だからどうしても聞いてほしくて」
濃厚なカスタードの余韻に浸っていると、なにやら女神が不穏なことを言っている……。
ここで質問攻めにするよりは、まずは全部聞いてしまった方がきっと効率的なはず。
アストリッドは黙ったままで頷いた。
「ありがとう。今のあなたは、理解が早くて助かるわ。少し長くなるけど、最初にここに来るきっかけになった、マティアスとの一回目の婚約破棄から話させてもらうわね」
「……はい」
「あなたのわがままに耐えられず、デリアに惹かれてしまった彼は、大勢の人がいる前で婚約破棄を告げたの」
ん、わがまま?
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。
女神と視線が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
自分ではわがままを言っていたつもりはないけど、過去の私は違ったのかしら。
たしかに、デリアに比べればお喋りかもしれない。
それがわがままだと思われていたの?
「今回と同じパーティの日。ダンスが始まる前に婚約破棄を告げられたあなたは、そのまま会場を飛び出して、教会に向かって走ったの」
「教会に?」
「それはもう、凄い……ええ、走ったの」
なにか様子がおかしい、とアストリッドは思った。
さっきまでこちらを見ていた女神は、目を合わせてくれない。
ノートを捲っているミルカも、正面にいるシエルとルシアも違う方向を見ている。
小さな咳払いが聞こえた。
「あのね、アストリッド。今から言うことに驚かないでちょうだい」
「……はい」
「あなたは『聖女の涙』を知っているわね?」
「はい。教会にある聖女像。その頬に埋め込まれた宝石です。触れれば願いが叶うと言われている。でも、あの像は高い台座の上に飾られていて、到底触れることなん……」
アストリッドは、嫌な予感がした。
女神は大きく頷く。
「教会に着いたあなたは、靴とパニエを脱ぎ捨てて、台座の細い溝に指をかけて登り始めたの」
「えっ!!」
アストリッドの心臓が、どくんっと跳ねる。
裸足で!! パニエを脱ぎ捨て!?
聞き間違いであってほしかった。
背中に氷の棒を差し込まれたような感覚が走る。
指先が冷たく震えるのに、顔だけが熱くてたまらない。
「聖女像の足を掴んだあなたは、バランスを崩して聖女像と一緒に地面に落ちた……そしてここへやってきたの。これが一回目の出来事よ」
「……なんてこと」
恐る恐る女神を見ると、その目には紛れもなく憐れみが浮かんでいた。
シエルたちも、いたわるような顔でこちらを見ている。
聖女像に登って、しかも一緒に倒れて死ぬ。
それはもう、単なる不慮の事故では片付けられない。
全てに迷惑を撒き散らした、とんでもない大惨事だ。
誰かが教会に来た時、そこには無惨に割れた女神像と、裸足で転がる侯爵令嬢の遺体……。
最悪だ! 想像しただけで、最悪の最悪だわ!
そんな私を見つけてしまった人に、今すぐ謝りにいきたい。
うー恥ずかしすぎて消えてしまいたい。
もう死んでいるけど、それでも消えたい……。
両手で顔を覆っていると、机の上のグラスに炭酸水が注がれた。
頭の中みたいに、シュワシュワと弾ける音が聞こえる。
「ありがとう……」
かろうじてお礼は言えたけど、気持ちは一向に落ち着かない。
とにかく、自分の奇行が受け入れられない。
こんな最期を、私は99回も繰り返してきたの?
そもそも、なぜそんな回数死んでいるの?
「回数は気になるわよね、それも今から話すわ」
エレオノーラの優しい声が聞こえた。
心を読まれているのは奇妙な感覚だけれど、今の私にはむしろありがたかった。
『お願いします』 と声に出さず、心の中で呟いて頭を下げる。
「この聖女像の件があったからこそ、やり直す回数が100回になったのよ。本来なら、たった一回だけだもの」
これもまた、嫌な予感しかしない話だ。
アストリッドはごくりと唾を呑み込んだ。
✧✧✧
「あなたがはじめてここに来たときね。その右手に、しっかりと『聖女の涙』を握りしめていたの」
「ひっ」
素早く顔をあげ、アストリッドは自分の手を見つめた。
取ってたんだ私。
あんな高いところまで登って、私は執念で宝石を毟り取っていた。
自分のこととはいえ、怖すぎる。
「ええ。あの頃のあなたは、非常に……その、意志が強く、ええっと攻撃……」
「エレオノーラ様」
横にいたミルカが、静かに声をあげた。
「わかっているわミルカ。でも、どう表現すればいいのかしらねえ」
「執着の塊!」
「自分の欲望に真っ直ぐ!」
シエルとルシアが容赦なく追い打ちをかける。
女神も「駄目でしょ」と言いつつ、否定しない。
さっきから感じていたこの違和感。
私はきっと、この女神や少女たちに、相当な迷惑をかけてきたに違いない。
アストリッドがそうっと女神の表情を伺うと、彼女はただ静かに深く頷いた。
ああ、やっぱり。
今度は全身に嫌な汗が滲んでくる。
「エレオノーラ様。私、どんなことでも覚悟はできています。続きを……続きをお願いします!」
「わかったわ。でも、今から話すことは、あなたを責めているわけではないの。それは理解してね」
「そうだよ! だってわたしたち、今はアスティのこと大好きだもんね!」
「うん、大好き!」
シエルとルシアが無邪気に声をあげる。
「……今は」
「もうこの子たちったら!」
「いえ、大丈夫です」
女神に気を遣わせている今の状況が、何より耐えがたい。
早くすべてを聞いて、この羞恥を終わらせたい。
アストリッドは紅茶を一気に飲み干し、勢いよくカップを置いた。
その音を合図にするように、女神は話を続けた。
✧✧✧
『ねえ、ここはどこなの? まあいいわ、とにかく今すぐマティアスをここに呼んで! あの女も一緒によ!』
「えっ?」
「あなたが初めてここに来た時の第一声が、これだったわ」
「うわぁ」
思わず間抜けな声が漏れた。
かつての自分の態度の悪さと、品性のなさに目眩がする。
「あなたはわたくしたちの制止も聞かず、この絨毯の上をどんどん歩き始めた。ここがどこか説明しても、全く耳に入っていない様子で……」
「ぶちギレだったよね」
「うん、ぶちギレっ」
シエルとルシアがぴょんっと飛び跳ねる。
「死んだことより婚約破棄への怒りが勝っていたのね。でも、周囲を見渡してようやく状況を理解した。同時に、右手に何かを持っていることに気付いた……」
「それが『聖女の涙』だったんですか?」
女神は頷き、シエルたちも大きく頷く。
「わたくしたちが驚くのを見て、あなたは宝石を見つめてにやりと笑ったの。そして、いきなり交渉を持ちかけてきた」
「うわあ最低……」
ため息が漏れる。
絶望から立ち直る早さも凄いが、その感情を「脅し」に転換する判断力が恐ろしい。
アストリッドが呆然としていると、シエルとルシアが椅子から立ち上がり、唐突に寸劇を始めた。
「ねえ、これって『聖女の涙』よね? あなたたちの様子を見るに、すごく大事なものなんじゃないの?」
「ええ、とても大切なものです」
「じゃあさ、私を生き返らせてよ! そうしたらこれ、返してあげてもいいわよ」
髪型が外はねのシエルが私を演じ、内巻きのルシアが女神を演じているようだ。
客観的に見るシエルの態度は、実に憎たらしい。
「もちろん。やり直すことは可能よ、だって、ここはそういう人が来る場所だもの」
「ふーん……って、ちょっと待って。やり直しは、ここに来た時点で決まってたことなの?」
「ええ、その通りよ」
「ふぅん……」
駄目だ、これは良からぬことが起きてしまう。
シエルの表情が、まるで悪役にしか見えない。
そう思っていると、私が、凄い勢いで女神に詰め寄った。
「じゃあ、その回数を10回……ううん、100回にしてちょうだいっ!」
私を演じるシエルが、テーブルを激しく叩いた。
乾いた音に、全員の肩がびくりと跳ねる。
やだ、乱暴すぎる。
これはもう、謝罪以前の問題だ。
「アストリッド、100回は無理だわ。そんなの前例がないもの」
「だってここはそういう場所なんでしょ! なら、それを“100回にして”って言ってるの! 一回なんてケチくさいわね。私が100回も振られると思う?」
シエルが胸を張り、鼻が付きそうなほど女神のルシアに顔を近づける。
「今回はマティアスが騙されただけ。次は問題ないわ!」
「それなら、一回で十分ではなくて?」
「ケチなこと言わないで!」
シエルが右手をあげた。
宝石を持っているつもりなのだろうか。
そして続けて大きな口を開けて――放り込んだ!?
「ほうふひふぉふぉ(ようく聞くのよ)! ひはなふぁふぁ、ふぉのふぁほふふを(聞かなきゃ、この宝石を)――っ」
シエルは自分を指さしたあと、今度は窓の外を指さした。
「飲み込んで、ここから飛び降りてやるわ! どうせもう死んでるんだし!」
「‼」
これは、ひどい……。
信じられないくらいに、清々しい脅迫。
傲慢なうえに図々しくて、絶対に誰とも仲良くなれないタイプだわ。
アストリッドは無意識に自分の身体を抱きしめていた。
これが『本来の私』だというなら、婚約破棄も、聖女像から落ちたことも、すべて腑に落ちてしまう。
マティアスどころか、他の人にも嫌われていたんじゃ……。
「本当にすごかったんだから!」
「びっくりしちゃったよね!」
寸劇を終えた二人は、さっと女神の背後に隠れた。
「『聖女の涙』は、ふたつの世界を繋ぐ大切なもの。飲み込まれたら何が起きるか分からなくて」
「……本当に申し訳ございません」
アストリッドが深く頭を下げると、エレオノーラは首を振った。
「本来ここは、一度きりのやり直しと、一つだけの願いを与える場所なの。でも、あなたが『1回も100回も同じでしょ!』と強く願ったことで、それが『100回やり直す』という願いとして通ってしまった……これは、わたくしたちも想定していないことだったわ」
100回なんて、本来ならあり得ないことなんだ。
アストリッドは、自分の幸運――というより、自分の執念に小さく息を吐いた。
「ただ、元に戻る時はここでの記憶は失ってしまう。あなたは何も知らないまま、一年前から人生をやり直すことになるの」
「それは……嫌な予感しかしませんね」
「ええ。あなたは『心配しなくていいわ、二度とここへは来ないから! 100回分のありがとうを言っておくわね!』と、元の世界へ戻っていったのだけれど……」
「すぐに戻ってきたもんね!」
シエルが追い打ちをかけた。
なんと二回目の私は、全く同じ婚約破棄を食らった挙げ句、二人が乗り込んだ馬車の前に飛び出したらしい。
最悪だ、救いようのない馬鹿である。
性格が変わらない以上、同じ結末を辿るのは目に見えていた。
「そのとおりよアストリッド。最初の10回、ほぼ同じ内容であなたはここにやってきたわ」
女神の横で、シエルとルシアが一緒に頷く。
「でもね。ここに来るたびに、あなたの願いを一つ叶えている。だから、一番最初のあなたとは少しずつ違っていくの」
「あ……」
ここで願いを叶えてもらい、元の世界でやり直す。
それを繰り返せば、同じ人生でも、同じ自分ではいられない。
二回、三回と積み重なれば、ズレは確実に生まれる。
話を聞いていて、どうにも自分の話と思えないのはそのせいだ。
でも、いつから考え方が変わったんだろう?
私はいったい、何をお願いしていたのかしら?
「あなたとことは、全てミルカが記録しているわよ」
女神の言葉に応えるように、ミルカが手元のノートをパラパラと捲り始めた。
思ったより多いページ数に、胸の奥が少しざわつく。
「これ、見せてもいいのでしょうか、エレオノーラ様」
「ええ、100回目なんだもの。全部知ってもらいましょう」
「わかりました。どうぞ、アスティ」
「ありがとうミルカ」
差し出されたページの一番上には、『 『聖女の涙』を持ったとんでもない人が来てしまった。アストリッドは100回やり直すのか?』というメモが書かれていた。
「……」
一瞬手が止まるが、事実なのだから仕方がない。
しかし、その下に書かれていた『私のお願い』は、さらに酷いものだった。
瞳の色、顏型、鼻先、手足の長さと、容姿に関することばかり。
回数を追うごとに、うんざりした気持ちになっていく。
今の私は、自分の容姿を嫌いではない。
それが、この積み重ねの結果だというのが、皮肉すぎて笑えなかった。
婚約破棄の原因が、容姿だと思っている時点でどうしようもない馬鹿だ。
これが本当の私……
・21回目。
デリアと同じ髪の色(焦げ茶)にして! という願い。
婚約者がデリアの髪色を褒めていたらしい。
さすがにいい加減にしてほしい。
添えられたミルカのメモ書きに、くすりと笑う。
しかし、次の22回目は『金髪にしてほしい』という願いになっていた。
婚約者を奪った女と同じ髪色だなんて! と、当時の私は息巻いたらしい。
「はぁ、本当に馬鹿ね……」
ため息と一緒に、愚痴がこぼれる。
しかし、続きはこんなものではなかった。
23回目。
あろうことか、ここで私は『女神と同じ顔にしてほしい』と願っていた。
初めて女神と対面したとき、自分に似ていると思ったのはそのせいだったんだ。
自分の柔らかい頬に触れ、背中がぞわりと粟立つ。
30回を過ぎるころには、睫毛の本数や爪の形、指の長さや歯の形と、願いは細かくなっていく。
あまりに虚しすぎる。願うことがないなら容姿から離れればいいのに。
一体、元の私はどんな顔をしていたんだろう……。
「あなたは十分可愛くて素敵なお嬢さんだったわよ」
自分とよく似た、いやそれよりもちろん美しい顔の女神が気を遣ってくれている。
アストリッドは苦笑いを返し、再びノートへと視線を落とした。
☆49回目
・『誰にも笑われない常識がほしい』という願い!
やったーやっと気づいてくれた♡
100回までこのままだと、どうしようかと思ってた。
『常識知らずなところが苦手だ』とマティアスに言われたみたい。周囲は笑っていたそう。
ミルカのメモに、ハートマークが飛んでいる。
48回連続で婚約破棄をされ、ようやく自分の内面に目が向いたらしい。
しかし、この頃の私って、そんなにマティアスのことが好きだったのかしら……。
ふと、まだメモ書きが続いてることに気付いた。
*今回のお相手は、タチアナ・ロラン。
はじめてデリア以外の名前が登場。
しかもアストリッドの親友らしい。びっくり。
「えっ、タチアナ!?」
✧✧✧
驚きで椅子から立ち上がってしまった。
「ごめんなさい。親友の名前が出てきたから」
「ええ、私たちも驚いたわ。マティアスが、あなたの自分勝手な振る舞いをタチアナに相談しているうちに、仲良くなってしまったのね」
「……タチアナは幼い頃からずっと仲良しで、頭が良くて優しいんです。そっか……」
親友に婚約者を奪われたという悲しさはなく、きっとあの優しいタチアナにも、私はたくさん嫌な思いをさせていたと思うと胸が痛くなった。
この時の私がそう思ったがわからないけど、ようやく、「常識」という人間らしい性能を手に入れることにしたようだ。
ほっとしていると、ミルカが新しい紅茶を注いでくれた。
「ありがとうミルカ」
「気にしないでアスティ。ねえ、ここからが凄いのよ」
白い睫毛を揺らし、彼女はまるでお気に入りの小説の続きを勧めるような顔で微笑んだ。
私は急いでノートを捲る。
どうやら常識を得た私は、急に学問の重要性に目覚めたらしい。
うん、えらい。
婚約者のマティアスは、古語だけは詳しい。
私も古語は大好きだけれど、それも50回目の『古語を完璧に理解したい』という願いのおかげだったと判明した。
それから先は、哲学、歴史、算術、文学、領地経営、法律、軍事学……。
凄まじい勢いで「知識」の項目が並んでいる。
確かに、今の私はそのすべてを完璧に理解できる。
それもこれも、自分で幼い頃から勉強をして身についたものだと思っていたけど、とんでもない! ただのズルじゃない、これ!
興奮して顔を上げると、楽しそうな女神と目が合った。
アストリッドは紅茶を一口飲み、再びノートに集中する。
ひととおりの知識を身につけた私は、次に剣術を願っていた。
騎士団に入隊できるほどの腕前と言われていたけど、もちろんここで付与されたものだ。
剣術の下にまた、メモ書きがあった。
*今回のお相手は、メアリー。
カールフェルト家の侍女。
パーティに現れず駆け落ち。
「メアリーと駆け落ち?」
「アスティが剣術大会に出たのが嫌だったんですって」
「まあ……」
「でもね、その頃のアスティ、マティアスに怒ってなかったよ。『これで良かったのかも』って言ってた」
シエルの言葉にどきりとした。
今の私が感じているのも、彼への愛憎というよりは、やり方に対する不満だ。
婚約破棄をしたいなら、正式な手順を踏んでほしかった。
小さい頃に決められた、家同士のための婚約。
それを、大々的に人前で恥をかかせて終わらせる必要はなかったはずだわ。
胸の奥に、澱のようなものが溜まっていく。
その後も、乗馬、射撃、狩りと、私のスペックはどんどん上がっていく。
マティアスは、私に対する態度を隠さなくなり、相変わらずデリアに夢中だったようだ。
「えーっと、侍女との駆け落ちはその後にもう一度ありますね。お相手はたしかアン。……あ、これだ。78回目」
ミルカが指さす。
78回目
・狩りで恥をかかされた。あんな女とは添い遂げられない。アンと出て行く! と置手紙。
ずーっと見てきたけど、マティアスってほんっと苦手。
人のせいばかりにするんだもの。
婚約破棄理由と、小さく書かれたミルカのメモ。
美しい字で書かれた悪態に、僅かに息が漏れる。
確かに、マティアスはそういう人だ。
努力は嫌いなくせに、自分が二番手になるのは我慢ならない。
幼いころからの婚約。家同士の取り決めなのだから仕方がないと、そう思ってきた。
でも私は彼のことを……。
アストリッドは息を呑み、唇に手を当てた。
いま、マティアスのことを「好きじゃない」と口にしかけた。
胸の奥で、ずっと見ないふりをしてきた気持ちが溢れそうになる。
マティアスは剣術どころか勉強もまともにしない。
隣国の領主の名前すら怪しい彼を見て、父親のカールフェルト侯爵から「婚約者が君で本当に良かった」と言われたことがある。
その期待に応えるのが、自分のやるべきことだったはず。
だから違う。おかしいのは私だ。
何度もやり直して賢くなったからといって、彼を好きでいられなくなるなんて。
最初の私は婚約破棄されたくなくて、必死だったじゃない。
だからこそ、50回も容姿を変えるなんて馬鹿げたことをしていたのよ……。
「くぅーー」
アストリッドは机にノートを伏せ、両手で顔を覆った。
私ってなんて酷い人間なんだろう。
どれだけ願いを叶えてもらっても、傲慢さはちっとも変わっていないんだ。
そもそも始まりからして馬鹿すぎる。
だって、聖女像に裸足で登ったのよ?
そんな私がマティアスを見下すなんて……最低すぎる。
顔を覆う手に力がこもる。
恥ずかしさで息が詰まり、耳が燃えるように熱い。
こんな支離滅裂な女に99回も付き合わされた女神様たちへの申し訳なさで、やっぱり消えてしまいたい。
でも、今のこれもエレオノーラ様には丸聞こえ。
あぁ、本当に、本当にごめんなさい……。
「ねえこれ、アスティの好きなアーモンドプードルとバターたっぷりの焼菓子。あと胡桃のクッキーだよ」
指の隙間から、甘い香りと可愛い声が聞こえてきた。
顔をあげると、シエルが籠いっぱいのフィナンシェを、ルシアは胡桃がたっぷり乗ったクッキーをテーブルに並べていた。
その正面で、女神はただ静かに微笑んでいる。
「……ありがとう」
「今日のは特別に美味しいって!」
シエルたちは無邪気に笑う。
その瞳は空のように、青く澄んでいた。
アストリッドは、深く頭を下げた。
「99回の間に、私はあなたたちにたくさん迷惑をかけたよね。本当に何て言っていいか……」
「全然大丈夫。わたし達、途中からはずっとアスティのこと応援してたよ」
「うんうん。50回過ぎてから、全然怖くなくなったもんね!」
「もうシエルったら」
「あっ! ふふふ、とにかく食べて!」
重なる笑い声に、張りつめていたものがほどけていく。
シエルはルシアに袖を引っ張られながら、女神の元へと戻っていった。
いつの間にか、ミルカの手によってまた温かいお茶が注がれている。
この不思議で穏やかな空間は、きっと99回も叶えてもらったお願いのおかげ。
そうでなければ、彼女たちが私を受け入れてくれるはずもなかった。
「……」
それにしても、どうして私は99回も死んでいるんだろう……。
ううん、今さら考えてもどうにもならない。
今回が最後の100回目。
皆の優しさに応えるためにも、絶対に、絶対に間違えないようにしなきゃ。
アストリッドは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そして、目の前の籠から、フィナンシェをひとつ手に取る。
小さめなのにずっしりとした重みがあり、芳醇なバターの香りが鼻腔をくすぐる。
クッキーには、つやつやにキャラメリゼされた胡桃がたっぷりのっていた。
これを一人で食べるなんて、もったいない。
「あのよかったら、最後なので……皆さんで一緒に食べませんか?」
アストリッドの言葉に、シエルはぴょんっと飛び跳ね、ルシアは両手を合わせ、ミルカは「まあ」と声をあげた。
正面に座っている女神は、美しい瞳を大きく見開き「そうね、皆で頂きましょう」と、笑顔を見せた。
あっという間にミルカ達の椅子とお茶が用意される。
初めてで、最後の女子会が始まった。
✧✧✧
「私はあなたよ」 ここへ来た当初、女神はそう言いかけた。
23回目の願いで顔を似せてもらって以降、私はここを訪れるたびに「私? どうして?」と尋ねていたという。
説明するのが面倒で、『女神には実体がないから、あなたの姿を借りているの』と嘘をついていたらしい。
「それでもね、『ふーん、変なの』って、いつも軽く流されていたわ」と、女神は楽しそうに笑う。
容姿に執着していた頃の私は、強気で怖く、無邪気なシエルでさえ話しかけられなかった。
それが、50回を過ぎた頃から挨拶を交わすようになり、やがて愛称で呼ぶまでになっていたそうだ。
「三人とも、あなたのことを気に入ってしまって、マティアスに婚約破棄されるたびに怒ってたのよ」
「だってーマティアスってわがままで自分勝手なんだもん!」
「んっ……」
アストリッドはフィナンシェをのどに詰まらせかけた。
ここに来た頃の自分の話を聞いた後なので、シエルの言葉が胸に刺さる。
「ユリウスでいいのにねー」
「ほんと! ユリウスがいいのにねー」
「えっ、ユリウスのことまで話してたの?」
驚いて早口になるアストリッドを、シエルとルシアはもちろん、ミルカとエレオノーラ様までが頬杖をつき、にやにやと見つめている。
「わたし達が知ってるのは、親友のタチアナのお兄さんだってことだけだよー」
「そうそう、地学を勉強してるとかねー」
「素敵な人と結婚してほしいって言ってたよー」
「そんなことまで……」
アストリッドは紅茶に口をつけ、小さく頭を振った。
ユリウスはタチアナの四つ上の兄で、国にも認められた自然学者だ。
彼と空や雲の話をする時間が、私は何よりも好きだった……。
あれ、もしかして?
ハッとして顔をあげると、女神は長い睫毛を一つ瞬かせて頷いた。
「ここ最近のあなたの願いはね、気象学に地質学、海洋学。どれも、普通の暮らしには必要のない専門知識ばかりだったわ」
「……」
「婚約破棄され、そのうえ不慮の事故で命を落としたというのに。やり直せるとなればそんなお願いばかりするんだもの。不思議よね」
優しい口調で話す女神の横で、少女たちがクッキーを頬張りながら、にこにことしている。
アストリッドは視線を落とした。
ユリウスへの想いは、ただの憧れだと思っていた。
それでも、彼と過ごす時間は、日々の中でとても大切なものだった。
私は婚約破棄を回避するのではなく、彼と対等に話せる自分でいたかった……。
突然、胸の中がいっぱいになり、息が出来なくなる。
アストリッドはカップに残った紅茶を飲み干し、唇をきゅっと結んだ。
「ねえアスティ。100回目のお願い、どうするの?」
フィナンシェを両手に持ったシエルが訊ねてきた。
そうだ、100回目の願い。
少し前までは、その判断を間違わないようにと考えていたけど、もう十分。
私に願いなんて残っていない。
今までたくさん我が儘を言って、99個もかなえてもらっていた。
数々の知識や、この容姿を与えてもらったおかげで今の私がある。
それがなければ、私はきっと、とんでもない人間のままで死んでいた。
だからもう……。
「アストリッド!」
「はいっ!」
不意に、エレオノーラが声を荒らげた。
「正直に言うわね。ここに来たばかりのあなたは最悪だった。でも、毎回とんでもないことを言うけど、自分の意志を曲げない潔さは見事だったわ」
「褒められるところじゃありません。ただ傲慢でわがままなだけです」
「ええ。確かに気が強くて、頑固な性格ではあったわね」
「お恥ずかしいです」
アストリッドの額に力が入る。
やっぱり100回目のお願いなんてしなくてもかまわない。
これで自分の人生が、終わってしまっても……。
「そんなこと思わないでアストリッド。あなたが本当に自分勝手な人間なら、知識を得たところで変わりはしない。むしろ、人を見下すような人間になっていたはずよ。あなたの心はいつも素直だった」
「でも! いまの私があるのは、自分の力ではありません。こんなにしてもらっていたなんて……もう十分すぎる人生です」
「駄目よ! あなたとの約束だもの。100回目のお願いはちゃんとしてもらわなきゃ!」
「「「そうだよ!」」」
シエルとルシアが声を上げた、いつもは静かなミルカまでも。
女神は椅子から立ちあがり、ゆっくりとアストリッドに近づいた。
冷たく震えているその手を、両手で包み込む。
アストリッドの視界がじわりと歪んだ。
そして、ただ深く、深く頭を下げた。
「エレオノーラ様、ありがとうございます。ミルカ、シエル、ルシア。本当に……」
「んもーしつこいー! そういうとこは変わってなーい」
「えっ」
顔をあげたアストリッドに、全員が笑顔を向ける。
その真ん中から、シエルが身を乗り出した。
「いまのアスティが好きだって、みんな言ってるでしょ!」
「うん、ありがとう」
私はこれまで99回もこの場所に来ている。
本当の私を知っているのは、目の前にいる自分に似た女神と、可愛い三人の少女だ。
「あっ」
アストリッドは、両手を口にあてて、目を大きく見開いた。
100回目のお願い、思いついてしまった。
でも、こんなこと可能なのかしら……
「まあ素敵! いいじゃないアストリッド!」
女神は顔を輝かせると、アストリッドの肩を抱き寄せ、そのまま強く抱きしめた。
事情が飲み込めないシエルたちは、慌てたように二人の元へ集まってくる。
「こんな願い、いいのでしょうか?」
「あなたが本当にそれがいいと思ったんでしょ、叶えられるわ」
「えーアスティ決めちゃったの? もっとおしゃべりしたかったー」
シエルが泣きそうな顔でこちらを見ている。
どういうこと? と思ったとき、アストリッドは足元が地面から浮いているような、奇妙な感覚に襲われていた。
「あれ、私?」
「あなたは戻るのよ、アストリッド」
「こんな急にですか?」
戸惑うアストリッドに、女神は目を細めて頷いた。
「本当の願いが決まると、元居た世界でのやり直しが決まるの」
「そんな……」
「このことを先に教えれば、人は迷い、決断を恐れ、無意識に制限をかけてしまう。あなたの本心を揺らしたくなかったの。黙っていてごめんなさいね」
「アスティさみしいよー、これ持っていってー」
シエルたちが小さな籠にクッキーとフィナンシェを詰め込んだものをアストリッドに手渡す。
アストリッドは、その中から胡桃のクッキーを一つ摘まんだ。
「ありがとうございます。私、絶対に今までの自分のことは忘れません。ミルカ、シエル、ルシア! エレオノーラ様!」
アストリッドは精一杯の声を出したが、もう自分の声が聞こえなくなっていた。
手を振る女神たちの姿は、広がり続ける光の中に溶けていった。
✧✧✧
「アスティ、行っちゃいましたねー、エレオノーラ様」
「そうね。あの子、とても素敵なお願いをしたわ」
女神は、残された余韻の中で静かに答えた。
「そういえば、99回目の最後に握った手がユリウスだってこと、言いそびれちゃいました」
ルシアが言うと、ミルカが静かにノートをめくる。
「婚約破棄で『四回あった例外』 その最後の一人が誰だったかも、伝えられませんでしたね」
「んーかまわないわ。これからのアストリッドには、もう必要のない話だもの」
「……そうですね」
ミルカは、アストリッドが消えた光を見つめ、わずかに眉根を寄せた。
「ねえ、そんなことより! アスティの最後のお願い、なんだったんですか?」
ドレスの袖を引くシエルとルシアに、エレオノーラはにっこりと微笑んだ。
✦✦✦
アストリッドは教会の中庭に立っていた。
ふと自分の手元を見ると、艶やかにキャラメリゼされた胡桃のクッキーを持っていることに気付く。
周囲に誰もいないことを確かめて、クッキーを頬張った。
ほろ苦くて甘く、そしてほどけるような食感が口の中に広がっていく。
「んー美味しいわ」
そのまま教会内へと足を進める。
午前の礼拝はすでに終わっていたが、まだ何人かが残り、あちこちから談笑が聞こえてくる。
挨拶を交わしながら、アストリッドはパイプオルガンへ向かって歩いた。
荘厳なパイプオルガンの横には、石造りの高台に飾られた聖女像があった。
窓に嵌められたガラスから光が射しこみ、頬の宝石を輝かせている。
アストリッドはその姿を見てわずかに微笑み、美しい瞳をそっと閉じた。
「アスティ、今頃来たのか? 遅いぞ」
「こんにちは、ブローム侯爵令嬢」
聞きなれた声と、どこかぎこちない挨拶。
パイプオルガンの前に居たのは、婚約者のマティアスと、最近この領地にやってきたデリア・クランツ伯爵令嬢だった。
「あら、ごきげんよう。クランツ伯爵令嬢、マティアス」
「のんきに挨拶してる場合か。礼拝はもう終わってるぞ……ん? アスティ、それは何だ?」
マティアスの視線が、アストリッドの右手を見ている。
さっき食べたクッキーの半分が、まだそこにあった。
「ええ。友達から貰ったの」
「友達?」
マティアスは一瞬、怪訝そうに眉をひそめた。
✦✦✦
「ねえエレオノーラ様。アスティの『最後のお願い』教えてー」
薄い金髪に水色の瞳。
同じ顔をした三人の少女が、女神へ身を乗り出す。
「最後のお願いはね……」
女神は窓の外へ視線を落とした。
少女たちもつられて同じ方向へ目を向ける。
あのとき聞こえてきた、アストリッドの真実の願い。
『私、ここで過ごしたすべての記憶を忘れたくない! すべてを知ったままで、本当の人生をやり直したい』
女神はふっと微笑み、少女たちの頭を一人ひとり愛おしげに撫でた。
✦✦✦
アストリッドは婚約者へと歩み寄った。
凛とした姿勢、その足取りに迷いはない。
たじろぐマティアスを真っ直ぐに見つめると、優雅に微笑む。
「ねえ、マティアス。私と婚約破棄してくださらない?」
その瞬間、どこまでも高く真っ青な空の彼方から、少女たちの歓声と拍手が光とともに降り注いだ。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました♡
アストリッドは新しい人生で、幸せになれるでしょうか。
婚約破棄を告げられたマティアスの今後は?
伯爵令嬢デリア、親友タチアナと兄ユリウス。
そして、99回繰り返した婚約破棄の「四人目」は誰だったのか。
いくつかの謎と、願いを残したまま、物語は一旦これで終わりです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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次作への励みになります(*ˊᗜˋ*)
どうぞよろしくお願いいたします。
ではでは、次回作でお会いできるのを楽しみにしております。




