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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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8/12

記憶の欠片:雛森美玖(1)

 ここは中学校の教室だ。


 受験を控えた三年はほとんどの授業が自習になっていた。真っ昼間の教室は、シャープペンシルを走らせる音とテキストをめくる音で埋め尽くされている。たまに、隣の席の生徒に解法を確認する小さな声も聞こえてくる。


 夏休み前までは余裕ぶってみんなの勉強の邪魔をしていたあいつも、夏頃までは部活の最後の大会があるとか言って練習に全力を尽くしていた彼女も、今は揃って机にかじりついている。彼らを動かしている原動力は、危機感の伝播からくるものだった。推薦を利用して既に受験を終えている同級生が出始め、夏の暖かい空気が一気に冷えこむのと同時に、彼らは自分の現実を冷静に直視せざるを得なくなったのだ。


 中には同調圧力に押しつぶされる形で、未だに憮然とした態度でテキストに向き合っている人もいる。だが彼らが態度を翻すのも時間の問題だろう。もうすぐ受験前最後のテストがある。そこで自分の実力を痛感させられることになるのだ。


 そんな中で桐馬は、一足先に合格を決めていた。成績が優秀だった桐馬は、かなり余裕を持って、工業系の高校に用意された推薦枠に滑り込んだのだ。


 教師からは実力に見合った、より高いレベルの高校を一般受験することを勧められていたが、桐馬は頑として首を縦に振らなかった。


 理由は単純で、偏差値の高い高校に合格できたとしても未来がないからだ。あくまで大学への通過点としての意味が大きい進学校に入学できたとしても、金澤家の財布事情では大学に入る金がなかった。四年間勉強を続けるよりも、何らかの技術を身に着けて高卒技術職として社会に出ること。それが桐馬に求められていた役割だった。


 そんなわけで、今この時間は桐馬にとってはなんの意味もない。彼らほど切羽詰まってはいないのだ。先生によれば静かにしていればいいとの事だったので、図書室から何冊か本を借りてきて読み漁っている。


 教室のざわめきが増した。一人で問題を解くことを諦めた生徒たちが増え、周囲の人間に教えを請うている。


 桐馬の成績が優秀なことは周知の事実だったが、桐馬が暇そうに頬杖をついていても質問してくる生徒はいない。その理由は単純明快で、桐馬はクラスの中では地味なキャラクターとして浮いていたからだ。


 元々あまり明るい性格ではなかった桐馬は、小学生の頃から周りと関わるのがあまり得意ではなかった。周囲も身なりの汚い桐馬とは距離を置いており、学区の関係上、エスカレーター式で進学した中学校でもその扱いは変わらなかった。


 中学校に入って、一律で同じ制服を身につけることになった。制服が採用されている理由の一つに、服装で貧富の差が明確にならないようにする配慮が挙げられるらしいが、当事者の立ち場から言わせてもらえばその配慮は欠けすぎていると言わざるを得ない。


 一枚しか持っていない桐馬のワイシャツは、他の生徒に比べて目に見えてくたびれるのが早かった。成長期を過ぎてすっかりサイズが合わなくなってしまったズボンも買い替えられず、裾からくるぶしが見えている。ジャケットのほつれ、袖口の汚れ、ネクタイのシワ──同じ制服を着ているからこその残酷さを、桐馬は痛いほどに実感させられていた。


 そんな教室ではあったが、桐馬の味方がまったくいないわけではなかった。


 席を立って隣の人のノートを覗き込んだり、勝手にトイレに行ったりと、自由に動き回る生徒が増えてきた。先生の注意が飛ぶ。そんな中でも机に張り付いていた一人の女子生徒が、ふと振り返って一瞬だけ視線を合わせ、微笑みかけてくる。


 雛森美玖とは、そんな関係だった。




 再び世界が作り変えられる。できあがる前から、凍えるほどの寒さが桐馬を襲っていた。直近の記憶でなくとも五感が生きているのは変わらないようで、乾燥した鼻の粘膜を冷たい空気が通り抜け、手で押さえることもできない鼻の奥にずきりと痛みが走る。


 桐馬が暮らす地域では例年、11月後半には雪が降り始める。積もり始めの綿のように軽い雪が、夜空からふわりと舞い落ち、アスファルトをうっすらと覆っていた。


 桐馬は誰かと手を繋いで歩いていた。小さくもちもちとした、シワのない子供みたいな手だ。少なくとも男のものではない。隣を見てみると、眼鏡をかけた大人しそうな女の子が、白い息を吐きながら頬を赤くしていた。


「桐馬くんってさ、エレベーターのワイヤーが突然切れた時、一番生存率が高い行動を知ってる?」


「いきなりなんの話?」


 桐馬が首を傾げれば、美玖はくしゃりと苦笑いをする。


「いや、昨日見たテレビでやっててさ。その結論があまりにも直感的じゃなかったから気になって」


「……確か、床に大の字になって寝転ぶのが正解なんだっけ。衝撃を分散してダメージを最小化できるとか」


「おー、よく知ってるね。でもさ、これって直感とは真逆だよね。流石に地面と衝突する直前にジャンプする、とかはタイミング的にも無理だとして、普通に立ってたほうがまだマシに思える。あと思いっきり後頭部打ちそう」


「まあ、言いたいことはわからないでもない」


「それに、寝転ぶのが最適解だと分かってる人が複数人いたらスペースの奪い合いになるよね? エレベーターの中に二人以上が寝転がれる面積があるとは思えないし。揉み合って両方助かりませんでした、が一番最悪だと思うの」


「ぶっちゃけ複数人いるなら、床に寝転がるよりも他の人をクッションみたいにした人が助かりそうじゃない? 逆に床を陣取った人は、転んで体勢崩した他の人に潰されて普通に死にそう」


「そう言われるとそうかも。発想はサイコパスすぎるけど」


「彼氏をサイコパスとか言わないでよ、美玖」


 桐馬が美玖と呼んだ女の子。その顔を見ていて、記憶をみている立ち場の桐馬は思い出した。雛森美玖は、桐馬が中学時代に付き合っていた彼女だ。


 桐馬と同じく、美玖もクラスにあまり馴染めていないタイプだった。とは言っても、その理由は桐馬とは真逆だ。


 容姿端麗にして文武両道。音楽や絵画にも一定の素養がある。おまけに親が上場会社の社長を務めており、同学年の生徒からしてみれば、まるで世界の全てを手にしているように思われたのだ。


 目に見えて危害を加えられているわけではない桐馬とは違い、美玖は積極的に存在を否定されていた。


 元々口数の多い方ではなかったが、クラス内では特にそれが顕著になる。授業で指名されて発言するだけで、答えの正誤に関わらず失笑が巻き起こる。なくした持ち物がごみ箱から見つかるのは日常茶飯事だ。修学旅行の班決めでは最後まで押し付け合いの当事者にさせられた挙句、実際の自由行動では別行動を強制されていた。まあ、そのおかげで二人で自由行動ができたのだが。


 その程度は氷山の一角でしかなく、桐馬や他の人間が目にできないような場所で、それ以上の攻撃を受けていたことは間違いない。


 そんなわけで、二人が付き合っていることは二人だけの秘密にしていた。公にすればいじりの対象にされるのは明白だった。クラスでも目立つ方の男女が付き合いはじめた、と判明したときですら、公然の場で抱き合えだのキスをしろだの、散々ないじり方をされていたのだ。結果として周囲のやかましさに嫌気が差し、二人は一ヶ月と経たずに別れたらしい。腫れ物同士が付き合っていることが知れれば、それ以上にひどいことになることは明らかだった。


 ほどなくして、二人は足を止めた。五階建てで全部で二十部屋あるマンションの前だった。築年数の浅さを感じさせる現代的なデザインの玄関口とゲートは、鮮やかなオレンジ色をしている。いくつかの窓からは光が漏れ始めており、魚を焼くような香ばしい匂いが漂ってきている。


 二人が別れるのは、いつもこの場所だった。


「もうついちゃったかあ。ねえねえ、今週末は出かけられる? 一緒にカラオケでも行こうよ。そのあとはカフェでおしゃべりとか」


「あー、ごめん、今週も用事があって」


「えー、また? 桐馬くん、いつもそう言ってデート付き合ってくれないよね。これで何回目だっけ?」


「仕方ないだろ、どうしても外せない用事なんだよ。遊べる日があったらこっちから言うから、っていつも言ってるじゃん」


「最初の頃のこと、覚えてる? あの頃は私、素直に桐馬くんのお誘いを待ってたけど、そうしたら初デートまで二か月もかかったんだよ? 一ヶ月記念日とかすっ飛ばしちゃったじゃん! そういうのって大事らしいよ、女の子的には」


 桐馬の煮えきらない言い訳に、美玖はぷくっと頬を膨らませた。


「桐馬くんっていつ暇なの? 付き合って半年くらい経つのに、私たちまだ二回しかデートできてないんだよ! お祭りなんかのイベントにも全然タイミング合わないし! せっかく浴衣とか用意してたのにさ」


「下校デートならこうして毎日してるでしょ」


「それだって、みんなと下校時間ずらして、裏道で待ち合わせしてからこっそりじゃん。おうちに上げてくれるわけでもないし」


「いや、家はちょっと……気恥ずかしいと言うか」


「えー、別に恥ずかしくないくらい立派なお部屋だと思うけど。中が少しくらい散らかってたって、私は気にしないけどなあ」


 マンションを見上げながら美玖が呟く。


「そういう問題じゃなくてさ……まあ、家デートは考えておくよ、一応は」


 桐馬の実質的な拒絶に、美玖は大きくため息をつく。一転、その一度で抱えていた不満は全て吐きだした、というように笑顔になった。


「ま、いっか。私のお誘いを断った時間で浮気してるとかじゃなさそうだし。てか、桐馬くんに浮気するような女の子の友達いないし」


「うるさいな。余計なお世話だよ」


「ま、それはわたしも同じだけど。──ありゃ、もうこんな時間か。じゃね、また明日学校で」


「ん。また明日」


 美玖が曲がり角を曲がって少ししてから、桐馬は歩き始めた。美玖が立派だと言った目の前にあるマンションへ──ではなく、区画をぐるりと回るように、その裏手へ。


 桐馬の部屋は、表通りにあるマンションの影でぽつんと佇んでいる、ボロアパートの一室だった。


 日照権を侵害されていそうな立地だ。金属製の柱は手の施しようがないほどにサビつき、手入れの行き届いていない塀にはクモの巣がいくつも張っている。一応は二階建てなのだが、今にも自らの重さに押しつぶされてしまいそうな不安を感じさせた。人が住んでいるかどうかも怪しいようなお化け屋敷ぶりで、周辺住民からの評判はすこぶる悪い。金澤家が借りている部屋の真下、一階にはここの大家が住んでいるのだが、ことあるごとにスーツの人間がやってきては「土地を買いたいが建物はいつ取り壊す予定なのか」という案件で交渉を持ちかけられている。なぜそんなことを知っているのかというと、部屋同士を仕切る壁が薄すぎて会話の内容が漏れてくるからだ。


 初めての下校デートで見栄を張って以来、美玖には本当のことを言えずにいる。


 実家が太い美玖にこんなボロアパートに住んでいることを知られれば、幻滅されるのは目に見えていた。クラスで唯一関係を保っている相手であることを考えれば、こんなみすぼらしい姿を知られるわけにはいかなかった。


 立地の割に家賃が極端に安いということもあり、ワケアリな住人も多い。桐馬はできるだけ音を立てないようにしながら、軋む階段を上った。

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