記憶の欠片:高校生活(4)
「なあ……ボクたちどうしたらドレイから解放されると思う?」
「そ、そんな話したらまた殴られるよ……桐馬さん、そこで本読んでるんだから。聞こえてたらどうするんだよ」
「いや、多分大丈夫だよ。あいつ本に集中してる時は、周りの音聞こえなくなってるから。ほら、全然反応しない」
桐馬の背後では、風に乗るとぎりぎり聞こえてくるくらいの小さな声で、そんな会話が繰り広げられていた。
舞台はまたしても屋上。日付を跨いでいるのだろう、空では日が傾き始めており、下を見れば下校する生徒の姿がよく見える。日陰スペースは涼しいを通り越して肌寒くなってきたので、桐馬は定位置である校舎裏側の縁から足を投げ出し、整然と並ぶ活字を無言で追っていた。
口の中に妙な苦みが広がっている。今日の読書は煙草がお供だった。普段は灰が飛んだり匂いが移ったり、物語に夢中になっているうちにフィルターまで燃え尽きてしまったりと相性の悪い組み合わせなのだが、今日の桐馬はどういうわけか、二つを同時に摂取していた。
活字で埋め尽くされた視界の端、本の外の世界では、既に生徒が下校を始めていた。一学期の終わりということで、今日の時間割は終業式と通知表の受け渡しくらいのものだったらしい。
つまり、明日からは夏休みである。おにぎりとモヤシによるデリバリーは、今日を最後にしばらくおあずけだ。だが桐馬の管理下でないからといって、休み中に浪費することは許さない。この前のように金を切らすことがないよう、きっちりプールしておけと命令しておいた。
しかし、肌に感じていた通り教師はつくづくやる気がない。桐馬が屋上でだらけていることなど把握しているくせに、ついにここに現れて説教するなどという熱血指導イベントは一度も発生しなかった。向こうも今更どんな講釈を垂れようとも、桐馬が今更補習を受けるために現れるなどとは予想していないのだろう。退学するなら早くしろとでも考えているはずだ。夏休み明けには、いよいよ退学届を手渡されるかもしれない。
だが、それでもよかった。自分を取り巻くいろいろがどうでもよくなり始めていた。
そんな投げやりな考えに陥っているのは、どうやら桐馬だけではなかったらしい。
「ボク……最近もうバカらしくなってきちゃって。前まではお小遣いでなんとか凌げてたけど、自由にお金使ったらボコボコにされるし、万引きしてこいとか言われるし、もう限界だ。いっそここから飛び降りたら楽になれるのかなあ」
「だ、ダメだよそんなこと考えちゃ! そんなのなんの解決にもならないじゃないか!」
「でもさあ、生きてたってしょうがなくない? 結局アニメグッズも取り上げられたし、もう生きていく希望がないよ……」
「だからって死んじゃったら、それこそ終わりじゃないか! 卒業まで耐えれば絶対解放される! それに誰かが気付いて助けてくれるかも知れない。希望を捨てちゃダメだ!」
「自殺するときには遺書を用意しておくんだ。あいつにされた仕打ちを全部暴露してやる。身体に残ってる痣だって立派な証拠になるはずだ。ただでは死なない、あいつを社会的に抹殺するために、徹底的にやって死んでやる」
「頼むから落ち着いてよ、悲観的になりすぎだと思うよ」
「じゃあ万引きでもなんでも、お前はこのまま命令通りにこなすってのか!?」
「そうは言ってないけど……」
おにぎりが必死になってモヤシを説得している。肩でも掴んでぶんぶんと揺すっていそうな勢いだ。おにぎりとモヤシの体格差からして、力任せに振り回されたモヤシは、脳が揺れて具合でも悪くしていそうだ。
──この記憶は覚えがないな。
モヤシが小さく口にしていたが、おそらくこの場面の間、桐馬は本に集中していて、後ろで繰り広げられている飛び降り談義には全く意識が向いていなかったのだ。普通なら一生思い出すこともないような記憶だったのだろうが、ここが走馬灯の世界ということに加え、飛び降りという今の自分に関連するワードが飛び出したことで、僅かな記憶までもが呼び起こされているのだろうか。
理屈はともかく、飛び降り自殺をしようとするような人間からは、転落死の未来を変えられるような情報は得られそうにない。薄い期待に肩を落としたい気分になりながらも、記憶の中の桐馬は淡々と、それ以外の全ての五感情報をシャットアウトしているかのように、ページを捲る。
……いや、何かがおかしい。ページに印刷されている文字は、文字のようで文字ではない。よく見ればところどころに塗り物されたような跡があるし、ページを捲るペースもまばらだ。たまに風が勝手にページを進めたり戻したりしているが、それを気にしている様子すらない。
活字は一つ一つが歪な形をしており判読できない。この時読んでいた本の内容を曖昧にしか覚えていないのだろうか。だが、それなら本に集中していてろくに聞いていなかった食べ物コンビの飛び降り談義は、より支離滅裂になっていなければおかしいのではないか。
やがて時間は進み、夜が気配を見せ始めた。桐馬は同じ本を表紙から裏表紙までめくるだけの行為をずっと、何度もひたすらに繰り返していた。隣には吸い殻の山が灰皿にまとめられるでもなく、無秩序に積み上がっていた。ページの隙間には灰が落ち、いくつもの黒ずみができてしまっている。ようやくその繰り返しに飽きたのか、本は内ポケットにしまい、新たな煙草に火をつけた。
七時が完全下校時刻なので、そろそろ普段なら下校する時刻だ。これ以上残っていると部活を終えた生徒と帰宅時間がかぶるか、見回りの教師が屋上の施錠をしにやって来る。
だが、今日の桐馬はなかなか腰を上げようとはしない。
この日の桐馬はなにかがおかしい。普段に比べて明らかに精彩を欠いている。記憶を閲覧している立ち場の桐馬は、強烈な違和感に襲われていた。
そんな桐馬の困惑などつゆ知らず、二人の会話が耳に流れ込んでくる。
「どうせ、命令どおりに万引きしなきゃまた殴られるんだ。もう痛いのは嫌だ、なにも悪いことをしていないのに殴られるなんておかしいじゃないか。それならまだ、悪いことをして折檻されるほうが理屈があるから、頭がおかしくならずに済む」
「だ、だからって万引きはまずいよ。今はぼくたちが完全に被害者だけれど、万引きしたら捕まるのはぼくらなんだよ」
「やらされた、って証言すればいい。どうせ黙って従ってたって惨めなだけなんだ。……最近は成績も落ちてきたんだ。期末テストの点数が全体で三十点は下がった。あいつに殴られた痛みで勉強に身が入らなくてね。あいつに一矢報いるには、なにかを犠牲にして道連れにするしかないんだ」
モヤシは投げやりに吐き捨て、どさりと音を立てて座りこんだ。
そんなモヤシの様子を見て、おにぎりはなにかを決心したように、低い声で呟いた。
「……一つだけあるよ。きみが自殺も万引きもせずに、この状況から抜け出して楽になる方法が」
「はあ? この期に及んで冗談とか、まったく笑えないけど?」
おにぎりが纏う雰囲気が変わったことに気付いていないのか、モヤシは苛立ちを隠さない。
「先生にだって話したけれど、事実関係を調査中だ、の一言で誤魔化され続けてもう一ヶ月が経つ。どうせボクらは卒業までずっとあいつに奪われ続ける人生なんだよ。楽になんてなれるはずない」
「……そこまで言うならわかった。今からその方法を実行して、きみを桐馬さんの支配から解放してみせる」
「……お前、なんか目が据わってないか……?」
気配がする。おにぎりが足音を殺して近づいてきている気配だ。体重を乗せられたタイルがみしみしと軋むが、桐馬がそれに反応する兆しはない。やがておにぎりは、桐馬の背後で足を止めた。自分自身に言い聞かせるような口調で、ぶつぶつと繰り返しなにかを呟いている。
「……今ならいける。部活は終わり間際の時間でみんな片付けかミーティングをしていて、校舎裏に人の目はない。ぼくたちが犯人だとバレる心配はない──」
「おい、一体何を──」
モヤシが慌てて駆け寄ってくる足音。おにぎりが大きく息を吸い込んで、止めた。
背中に大きな衝撃があった。
「──え」
屋上の縁から足を投げ出していた桐馬。そこから背中を強く押されれば、何が起こるかなど目に見えていた。
強烈な浮遊感があった。突き落とされたのだ、と気づいたときには、もう屋上に手をかけることが出来ないところまで来ていた。背中を押され、屋上の縁に投げ出していた脚を支点にくるりと前のめりに回転したことで、桐馬の身体は上下が逆さまになって頭から地面に向かっている。上の空で読んでいた本は桐馬の手を離れ、宙を舞っている。咥えていた煙草もどこかへ飛んでいった。羽織っていただけのブレザーがはためくが、その程度の空気抵抗で落下が止まるはずもない。
ふわりと内臓が浮く浮遊感。この感触は、つい最近に味わったものとまったく同じだ。
記憶が地続きになる感覚があった。それでようやく気づいた。これは、桐馬が今の状況に陥る直前の出来事だ。
今までこき使ってきたおにぎりとモヤシ。そんな二人への要求はどんどんエスカレートしていき、桐馬はついに犯罪行為に手を染めることを命令した。日頃受けていた暴力によって疲弊していた二人の精神は、それをトリガーにして限界を迎えたのだ。そして感情が爆発し、分別を見失ったおにぎりが、桐馬がぼーっとしていた隙をついて屋上から突き落とした。
冷静に状況を見てみれば、我ながら自業自得である。桐馬を殺すという選択肢を与え、それを現実にしてしまうほどに二人を苛め抜き、追い詰めていた。その上間抜けなことに、突き落とされる可能性に思い至ることもなく、呑気に屋上から脚を投げ出して、煙草と読書に没頭していたのだ。
それ以前に、桐馬がいつも通りの時間に学校を後にする選択をしていれば、おにぎりが変な気を起こすことはなかったかもしれないのだ。
これから一ヶ月は夏休み、頭を冷やす時間はいくらでもある。人を屋上から突き落とすという行為がどういった事態を引き起こし、その後突き落した張本人がどんな運命をたどるのか。それほどのリスクを犯す価値があるのか。全てを天秤にかければ、こうはなっていなかったはずなのだ。
彼らにそのチャンスを与えたこと自体が、桐馬の犯した致命的なミスだった。
……いや、この際そんなことはどうでもいい。重要なのは、この記憶にあったのは今の状況に放り込まれた経緯であって、ここから脱することができる方法論ではなかったということだ。
これ以上見ていても現実に追いつくだけだ。有用な情報は手に入らないだろう。




