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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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記憶の欠片:高校生活(3)

 再び、場面は屋上に戻っていた。おそらく日付を何日かまたいでいる。空は雲の多さが目立ち、鼻腔にしっとりとした匂いが届く。雨が降り出すのは時間の問題に思えた。


 一学期の終わりが近い。学期末のテストも終わり、普通の学生ならば待ち望んでいた夏休みを目前にして心躍らせている時期なのだろうが、桐馬の心境は空模様に比例するようにどんよりと曇っていた。


 無論、補習に出る気はさらさらない。


 ただでさえ授業などという退屈な時間を毛嫌いしている桐馬が、他の生徒が休んでいる期間も毎日登校する、などという選択肢は初めから存在していない。単位や出席日数を人質にされた程度で、真面目に勉強に取り組むような意識の高さを持っているなら、初めから一年ダブるようなことにはなっていない。


 1ヶ月強という時間を持て余すことが確定していた。家に引きこもるにしては長すぎる期間だ。うちには近年の猛暑に対抗するためのエアコンもないし、食べ物や本のストックもまったく足りていない。それに補習をすっぽかされた教師が突撃してくることも考えられる。


 いっそ日が出ている間は、図書館にでも入り浸っているとしようか。快適な空調と、半永久的に時間を潰すことができる量の本が用意されている上、利用は無料というほとんど冗談みたいな公共施設である。唯一ネックなのは他にも利用者がいることだが、最悪知り合いに出出くわさなければそれでいい。桐馬はただ、心落ち着けて読書をする時間を邪魔されたくないだけだ。


 今日の昼食はチャーハンにした。あれだけ厳しく言ったせいか、今日の二人はホットスナックもきっちりと手に入れて来ている。温度が残っているあたり、どうにかして出来たてを買ってくることに成功したようだ。思春期男子としては肉類は欠かせない。桐馬は唐揚げを頬張り、肉汁に舌鼓をうっていた。その背後にはおにぎりとモヤシがいる。風の音だけが聞こえる中、おにぎりの腹の虫が鳴く音が響き渡った。


「桐馬さん……もう僕ら、お金がありません……」


 おにぎりが桐馬の足元にへたり込んでいた。ほとんど土下座のように、太ましい身体で屋上のタイルに座り込んでいる。いや、土下座をしようとしているが、単純に腹の肉が邪魔をしており、物理的に額が地面に届かないのだ。


 隣で立ち尽くしているモヤシ。こいつは狡いやつで、いつもおにぎりに言いづらいことを言わせ、自分はその隣で唇を噛み、ひたすらに沈黙を貫いている。その薄っぺらい胸板の内側に変なプライドか自尊心でも大事に抱え込んでいるのか、おにぎりのように全身で許しを請うでもなく、ただそこに突っ立っているだけだ。おにぎりはこいつが何もしない分の肩代わりをやらされて、モヤシに対して嫌気がさしたりしないのだろうか……?


 ──まあそれはいい。そんなことは俺には関係がないことだ。今問題なのはそこではない。


「金がないって? ないなら家にあるものでもなんでも売って作ってこい。お前らの財布事情なんか知らん。いつもそう言ってるだろうが」


「もう売れるようなものも残っていません……お願いします、次のお小遣いまで許してください、お願いします……」


「はあ……」


 呆れてものも言えない、とはこのことだった。


 確かに、桐馬はこの食べ物コンビを使い走りとして、毎日コンビニに向かわせている。だがそれはあくまで授業がある平日、それも昼食に限った話だ。彼らが昼休みの時間で往復できる距離にはコンビニが一件しかない。コンビニの商品がスーパーなどに比べて割高だという話は聞いたことがあるが、それでも2人分の小遣いを合わせれば十分賄えるはずだ。実際、桐馬が彼らに買いに行かせているのは惣菜パンやおにぎりといったものが大半で、少なくともここ最近、一日で千円を超えるような買い物をさせた覚えはない。


「なァんかおかしいよなあ?」


「ひっ」


 手はポケットに突っ込んだまま、ぽつんと突っ立っているだけのモヤシに歩み寄る。モヤシはいつものように哀れなくらい震えているが──その瞳の中に、桐馬は普段とは違う何かを見た気がした。


「お前だろ?」


「……っ」


「と、桐馬さん、違っ」


「お前は黙ってろデブ」


 こんな時まで顔を上げてモヤシを庇おうとするおにぎりの頭を、桐馬は遠慮のない強さで踏みつけた。マヨネーズかなにかのチューブを思い切り潰した時の音がした。


「お前が小遣いを何かに使っちまったんだろ? お前は初めっからやけに反抗的だったからなあ……それでいて謝罪役も何もかもこいつに押し付けやがって。見てて寒気がすんだよ、お前のふざけた根性がよ」


「クソっ、クソがっ」


 モヤシが吐き捨てるように、語彙の少ない罵倒を吐き捨てている。似合わない様子を嘲笑しながら、桐馬はひとつ提案をした。


「まあいいや、お前きっしょいオタクだもんなあ。俺は詳しくねえが、どうせアニメのグッズかフィギュアでも買ったんだろ? ──そうだ、これから売りに行くとしようぜ」


「……え?」


 悪態を付いていたモヤシが、魂の抜けたような声を出した。


 そんなことを言い出すとは夢にも思っていなかった。そんな表情だった。


「アニメのグッズって案外、それなりの値段で売れるんだろ? さすがに買った金額には満たないだろうが、多少の足しにはなるだろ。足りねえ分はお前を多めにボコるって条件でなかったことにしてやる」


 二人の小遣いは毎月中頃に支給される。あと数日は我慢しなくてはならないだろうが、そこを食いつなげれば問題はない。最悪貸し付けておいて、小遣いが入ったところで色を付けて返させるというのもありだ。


 というか、普通にこいつらが親に小遣いの前借りでもねだればいいだろう。完全にこいつらの努力不足だ。そのしわ寄せを桐馬が受ける筋合いはない。


「……にしてくれ」


 モヤシが唇を震わせながら、ぽつりと言った。


「あ? なにか言ったか?」


 桐馬が聞き返せば、モヤシは覚悟を決めたようにぐっと拳を握りしめ、うつむいていた顔を勢いよく上げた。


「……いい加減にしてくれって言ったんだ! いつもいつもボクらのお小遣いを巻き上げやがって、いい加減うんざりしていたんだ! 好きなものを買うはずだったお金で、毎日毎日昼休みに学校を抜け出してキサマの昼飯を買いに行く? こんな馬鹿な話があるかよ!」


「ね、ねえ、もうやめたほうが──」


「やめるもんか! 第一、ボクらが親からもらっているお小遣いは、ボクらの親が必死に働いて稼いだ大事なお金だ! それがお前みたいなクズの腹を満たすために消えてるなんてバカげてる! キサマとはこれっきりだプリン頭タカリ野郎! さっさとくたばれ!」


 モヤシはところどころで声を裏返らせながらも、喉を枯らして叫び散らしていた。おにぎりの静止もものともしない。緊張の中で慣れない大声を出したことで、息を切らして肩を上下させている。それでも、眼鏡の奥にある目に宿った光だけは消えていなかった。


 隣では、おにぎりが呆然と行く末を傍観している。


「──言いたいことはそれだけか?」


 桐馬はその目を真正面から睨み返した。


「いい度胸だ。その度胸に免じて、売りに行くのは勘弁してやる」


 すっと、モヤシの顔から力が抜けた。留めていた涙が目尻から滝のようにこぼれ始めた。初めからこうすればよかったのかと、呆気ない結末に拍子抜けしているみたいだった。よく分からないが丸く収まりそうだと、おにぎりも緊張を解き、胸を撫で下ろしていた。


 だが安心されては困る。モヤシの話は終わったかも知れないが、桐馬の話は終わっていない。


「だがどうしたって俺の腹は減る。──そうだお前ら、万引きしてこい」


「……え?」


 二人の顔から再び表情が消えた。


「どんな事情があろうが、お前らに課した義務は消えるわけじゃない。ドレイはドレイらしく、全身全霊を以て与えられた仕事をこなすべきだ。金がないなら別の手段を取るしかない。だから万引きだ。それともレジから金をくすねてくるほうがお好みか?」


「そ、そんなの……本当に犯罪じゃないか! 昼休みに学校を抜け出すくらいの校則違反とは訳が違う……ボクたち捕まっちゃうだろ!?」


「見つからなきゃ捕まらない。お前らが上手くやればいいだけだ」


 モヤシの汗腺バルブが全開だった。一秒の間に目が何度も左右を往復する。


「無理だ……無理だよお……」


「ならお前のコレクションを売るか?」


「それも無理ぃ……嫌だよぉ……」


 くずおれるモヤシの腹に、桐馬の膝蹴りが沈む。ぐえ、と情けない声を出して、モヤシは地面に伏した。


 代わりとばかりにおにぎりが足元にすり寄ってくる。


「あの……桐馬さん。さすがに万引きは勘弁してもらえませんか……? 犯罪以外なら僕たち、なんでもやりますから」


「ならお前らが散々校則違反だって渋っていたバイトでもしてみるか?」


「そ、それは……バレたら、下手したら退学に……」


「じゃあ何が出来んだお前らはよぉ」


 言い訳に次ぐ言い訳。無理無理出来ないあれもダメこれもダメ──桐馬の苛立ちは最高潮に達しつつあった。二人もそれを理解しているのか、目を見開いて桐馬を見上げ、わなわなと肩を震わせている。


 さて、どんな風に痛めつけてやるか。どこを落としどころにしてやろうか──考えを巡らせていた桐馬のポケットで、スマホが震えた。


 固定電話の番号が表示されていた。画面を見た桐馬はわずかに声を漏らすと、地べたに這いつくばるおにぎりとモヤシを無視し、すたすたと階段のある塔屋に向かって歩き始めた。


「あ、あの……」


 仮面がとれたかのような態度の変わりように違和感を持ったのだろう、おにぎりが歯切れの悪い声で桐馬を呼び止めようとした。


 だが、桐馬が足を止めることはなかった。早急に行かなくてはいけないところができたのだ。


「──興ざめだ。とにかく、明日も変わらず飯を持ってこないと承知しねえ。分かったな」


 急な態度の翻しようにわけもわからず呆然とする二人を残し、桐馬は足早に屋上を去った。


 桐馬が校舎に入るのとほぼ同時に、暗雲たちこめる空による雨粒の絨毯爆撃が始まった。

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