残り1メートル
「──もう走馬灯は終わりか。結局、役に立つ情報なんか何一つ手に入らなかったな」
桐馬が気怠げに呟くと、同じ顔をした悪魔はくすくすと笑った。
「そうだね。まあ、見る限りしょうもない人生だったようだし、この状況を覆すような一発逆転の一手なんか、見つかるはずもなかったかもね」
記憶をほじくり返される前なら、桐馬は口調を荒らげて言い返していたかもしれない。だが、回避不能な死を目前にした今、もうなにもかもがどうでも良くなり始めていた。この悪魔に何を言い返そうが、いくらこの止まった時間の中で騒ぎ立てようが、どうせ自分は死ぬのだ。今更何をしても無駄だということが、走馬灯を通して得た唯一の事実だった。
「もういいだろ。最後に答え合わせでもしてくれ」
「答え合わせ?」
「俺とお前は同じ存在だ。俺が死ねばお前も死ぬ。お前だって自分が助かるための方法を探していたはずだ。今更どうしようもないのは承知の上だが、もし答えがあったんなら、知っておきたいとおもってな」
「さあ……考えてもみなかったね」
悪魔はきょとんとして肩をすくめる。
「はあ? お前は死んでもよかったってのか?」
「まあ、どちらにしろ結果が変わらないことは分かっていたからね」
「お前もじーさんと同じかよ。何言ってるのかさっぱりわからねえ」
じーさん。そう口にするだけで、あの言葉が蘇ってくる。そしてそれは、記憶を共有する悪魔も同じだったらしい。
「『幸福に生きよ』か。結局君は幸福どころか、生きることすらできそうにないね」
「うるせえよ」
図星を突かれた桐馬が毒づく。
最も慕っていた存在である史郎。彼は桐馬のことを、彼がこの世に遺すことができるかもしれない唯一の美だと言った。彼にとっての希望だと言った。
史郎が天に昇って、まだたったの一日しか経過していない。桐馬はまだこの世に何も遺すことが出来ていない。
それでも、死は容赦なく、桐馬の目前にまで迫っていた。
「僕たちは人を裏切ってばかりだ。この世でただ一人、尊敬していた人すらも裏切ることになる。他にも美玖とか優馬とか、母親もそうかな」
「あ? 前二人はまだしも、母親はただのクズだろ。家にも帰らずに遊び呆けて、どこだかで優馬をこしらえてきやがった。その世話も全部、ガキの俺に押し付けやがった。そもそもの話、優馬がはじめからいなけりゃ俺の人格が生まれることもなかったし、俺を突き落とした連中から恨みを買うこともなかったろ」
「それは少し違うね。僕たちは見えていたものを見えていないふりをしていた。その方が都合が良かったんだろうね。母親を悪者にしておけば、僕たちは心の安定を保つことが出来た。とは言っても、僕も大事なことに気づいたのは、君と人格が入れ替わってしまってからのことだったんだけれど」
「……何が言いてえ?」
「優馬には、僕らと同じ血が流れていたよ。半分なんかじゃなく、まるっきり同じ血だ。だって母さんは、浮気なんてしてないんだから」
「はあ?」
乾いた笑いを浮かべながら、桐馬は食い下がった。
「んなわけねえだろうが。あれだけ遊び歩いてやがったんだぞ。それに養育費だって──」
「父親は僕らが小さい頃に浮気をして、その相手と一緒になって逃げたんだったよね。そんな人が養育費なんて振り込んでくれると思うかい? それは、仮に優馬が浮気相手との子だったとしても同じ事が言える。もし優馬に別の父親がいるのなら、一度くらいは金澤家に顔を出していてもおかしくない。でも僕たちはその義父の顔を知らない。優馬ができたことを知って逃げたか、そもそも義父なんか存在しないか。あとは同じ論法だよ。子供ができて逃げ出すような人は、養育費なんか払わない」
「だったらあの金は何だ? 毎月あった二件の振込の出処は?」
「そこが、君が見えてないふりをしたところだよ。振込人の名義にはちゃんと書いてあったんだ。母さんの勤め先の名前がね。二件あったのは、母さんがダブルワークで朝から晩まで、寝る間も惜しんで働いていたからだ。そうでもしないと生活していけなかったのは、僕たちが一番わかっていることだろう」
ぞわりと、全身を寒気が覆った。
「待て……それはおかしい。そんなはずは……」
「おかしいのは君の方だ。いつもいつも、毎月当たり前に増える金額ばかりに目を向けて、その出処には興味も示さなかった。母さんは一人きりでも、僕たちを育てようと必死に頑張っていた。それにきっと、父さんが逃げた一番の理由は、母さんのお腹に優馬がいることを知ったからだ。自分たちの稼ぎでは、とてもじゃないが子供二人なんて面倒を見きれない。その責任に押し潰されそうになったんじゃないかな」
「……」
「残された家族は協力し合って生きていかなくちゃならない。僕たちはまだ子供で、働いてお金を稼げる立ち場じゃない。母さんが働く以外に選択肢はなかったし、僕たちが優馬の面倒を見る以外に選択肢はなかった。僕たちの人生が犠牲になったのは事実だけれど、それだけは理解していなくちゃならない」
悪魔は今更になって、桐馬に対し恨みがましい目を向ける。
「一人残される母さんが一番かわいそうだ。必死に頑張っていたのに、父親に逃げられ、優馬に先立たれ、僕たちまでも失おうとしている。──でもね、桐馬。僕は、僕たちが死んだほうがいいんじゃないかと思ったんだ」
「……なんだと?」
「なにせ今僕の身体を使っている君は、あまりにも身勝手な生活を送っている。母さんが稼いでくれているお金も好き放題に使ってしまって、これでは母さんに申し訳が立たない。だが君から身体を取り戻そうとしても、君が眠っている間のほんの少しの時間しか上手くいかなかった。だから僕は考えたんだよ。いっそ僕たちなんかいないほうがいい。だから僕は、僕にとれる手段を以て、君を殺すことにした。まあ結果的には、そのおかげでこうして君と顔を合わせて、直接文句を言う機会が手に入ったようなんだけれども」
「黙れ、黙れ黙れ! お前の話は証拠も何もないでっちあげだ、デタラメだ! 今更確認する方法もねえ、お前が何を言いたいのかもまったくわからねえ! ……これは走馬灯から自分の生き残る方法を探し出すための猶予時間。そこから俺は生き残る方法を探し出せなかった。見つかったのは、ああしなきゃよかった、こうしてればよかったって後悔ばっかだ。お前の言うとおりかは知らねえが、俺の人生がクソまみれだったのは間違いねえ。それを死に際にありありと見せつけられた。以上だ。それ以外の何でもない。俺の頭はもうすぐぐちゃぐちゃになって、俺とお前は消えてなくなる。このクソみたいな記憶もろとも、な」
──結局俺は、だらだらと死を先延ばしにされ、胸糞悪い思いをしただけだった。最悪な最後の晩餐だった。
その時だった。桐馬の思考を読んだ悪魔の口角が、今までにない最大角度に釣り上がった。
「『だった』? 何を勘違いしている? 君が最悪な思いをするのはこれからだ」
心を読んだ悪魔が突然、口調を変えた。嘲笑うような、侮蔑するような、そんな口調。
「……なに?」
困惑するしかない桐馬に、悪魔はなおも語りかける。
「『アキレスと亀』という話を知っているかい? ……というのは愚問だね。僕たちはそれを知っている」
アキレスと亀。そう言われて桐馬の脳裏に思い当たるのは、いつか読んだ一冊の本だ。数学をテーマにした小説で、思考のパラドックスについて語る場面で扱われていた。史郎との話題にも上がったことがあったので、桐馬はよく覚えていた。
亀がアキレスの前を歩いている。アキレスは亀を追い抜こうと走り出す。アキレスは足が速いことで有名な英雄だ。対して甲羅を背負って進む亀は足が遅いので、アキレスに敵うわけもなく、その距離はどんどん縮まっていく。
だが、アキレスは一生亀に追いつくことはできない。そう主張する人物がいた。
理屈はこうだ。亀が現在いる場所まで、アキレスは走る。その間に、亀はほんの僅かだけ前に進んでいる。またアキレスは亀が進んだところまで走る。その間にも、亀はほんの数ミリだけ前進している。その操作を繰り返していくと、アキレスは永遠に亀に追いつくことができない。
だが実際のところ、これは単なる屁理屈でしかない。現実には、アキレスは簡単に亀を追い抜く事ができる。誰にでもわかる事実だ。
これは単に、アキレスが追いつけないと主張した人物は、アキレスが亀に追いつくまでの時間を限りなく小さく細分し、その一つ一つを観測しているに過ぎないからだ。実際のところ、時間は細分化されるのではなく、ただ一定に流れ続けている。亀に勝ち目はない。
高校ではそのうちこういう概念を扱うようになる──史郎は自慢げに語っていた。
知識はある。だが、悪魔がなにを言わんとしているのかが理解できない。桐馬は悪魔の顔を睨みつけた。
「これ以上くだらない話をするつもりか?」
「心配しなくても、君の言うくだらない話はこれで最後だ。僕もすぐにこの場から消える。誰も君の最後の時間を邪魔したりはしない」
悪魔は心底楽しそうに、空中をふわふわと舞う。
「さて、この状況において、アキレスは君だ、桐馬。君は今、硬いコンクリートの地面に向かって落下している。どれだけ時間を細分化しようとその事実は変わらない。君は時間が止まっていると言うが、実際のところ、君は確かに落下を続けている」
「はぁ……それで?」
「じゃあ君にとっての亀はなんだろうか? もちろん地面だ。地面に追いつく──つまり激突すれば、君は確実に死ぬ。重力には誰も逆らえない。亀に追いつくことは、君にとって死ぬことと同義だ」
桐馬にはまだ、悪魔が言わんとしていることが理解できず、眉をひそめて次の言葉を待った。
「そして今、アキレスと亀では屁理屈だとされている現象が起きている。君の時間を細分化しているものがあるはずだ。どうしてこの時間が生まれている? この時間は一体何だった? 僕と話して、君はなにを見たのか? 思い出せばわかるはずだ」
「……走馬灯だ」
「正解。君は生き残るために、自分の知りうる全ての知識を動員するために、走馬灯を見ることになった。そうだったよね。そして走馬灯というのは、脳における火事場の馬鹿力みたいなものだ、とも言ったはずだ。君の思考は今加速しているんだ。これは死を回避するための生物としての本能だ。ここまではいいかな」
加速した思考。それが、この止まった時間を作っている。初めに現れた時も、悪魔は似たようなことを言っていた。
「だが一つ、おかしなことがある。落下している時間が長いほど、落下の速度は上がっていく。それに、気付いていたかな。君が見た記憶は二つ目、三つ目と進むにつれ、少しずつ長くなっていたんだ。史郎さんとの記憶なんて、最初の記憶の二倍くらいの長さがあったんだよ」
悪魔の言う通り、それはおかしい。なぜなら、速度が上がって、その速度で移動する時間も長くなっているのなら、単純な掛け算で落下距離も長くなっていなければいけないからだ。だが桐馬の認識では、各記憶を見終えた時の落下幅には大した差がなかったように感じられた。
現実がこうなっている以上、計算式のどこかが間違っている。重力加速度は常に一定だ。ならば、間違っているのは時間の方──
「──俺の思考もまた、加速を続けている」
そうとしか思えない。記憶を認識する速度が上がり、ただでさえゆっくりになっていた体感時間がさらに引き伸ばされていたのだ。その理由はただ一つ。地面が、死が、近づいているからだ。脳は死が近づくごとに思考をより加速させ、生存の道を探しているのだ。
「さて、ここでアキレスと亀だ。時間が永遠に小さく細分化されたとき、アキレスはいつまで経っても亀に到達できないんだった。死が近づいてきたことによって、君の思考はさらなる加速を続け、どんどん時間を細分化している──じゃあ一体、君はいつ地面に激突するんだろうね?」
「……っ」
言葉が出ない。
もし仮に、仮にだが、アキレスと亀の話が今の自分に適用されるのなら。脳の本能が起こしている思考の加速に限界がないのなら──死を目前にしながら、永遠にその瞬間は訪れないことになる。
桐馬が目を見開くと、悪魔がこれみよがしにどんどん饒舌になった。言いたいことが舌の回りを超えて溢れ出てくるというように、喉から出てくるままに言葉を紡いでいた。
「いいかい、君は今から極上の臨死体験を味わうんだ。臨死といっても、死の間際から帰ってこられるわけじゃない。君の頭の中から死を回避する方法が見つからず、これほどまでに地面に接近してしまった以上、この未来を覆すことはもう誰にもできない。それでも脳は諦め悪く走馬灯を見せ続けるだろうね。──君の未来はこうだ。何度も何度も走馬灯で自分の惨めな過去を見せつけられながら、ほんの少しずつ、体感的には時速一ナノメートルもないくらいの速さで地面に落下していく。それも今度は母親に責任を押し付けることもできず、ひたすら独りよがりな人生を悔やみながら、一人きりで最期の時間を過ごすんだ。考えるのをやめようとしても無駄だ。これは生物としての本能で、僕たちにどうこうできるものじゃない」
「……待て」
悪魔の目が怪しく光る。夏とは思えないほどに空気が冷たく、身体が冷え切っている。空が明滅を繰り返す。
「落下速度というのは、普通、落下している時間が長くなるほどに加速していく。他の人から見れば君は普通に、速度を増して落下しているように見える。見ているのは屋上の二人くらいだと思うけれどね。でも君の場合は逆だ。落下するに従って死は近づく。それによって脳の思考もまたさらなる加速をし、死との距離はいつまで経ってもゼロにならないままだ。たとえ長い時間の末に地面に到達したとしても、そこから身体がバラバラに砕け散る体験を超スローモーションで味わうことになる。関節が砕け、筋肉が弾け、骨が破壊され、脳が飛び散る。そんな最悪の感触を体感しながら、いつになっても意識は途切れない。最期の瞬間だけが永遠に訪れないんだ。想像してみてよ、それはどんな感覚なんだろうか、って」
「……待ってくれ」
「君が死ぬことができるまでに、このたった一メートルを詰め切るまでに、一体どれくらいの時間を体感することになるんだろうね? 一週間? 一ヶ月? 一年? もしかすると、君がこれまで生きてきた時間よりも長い? ……一説によると人間の脳は、今存在しているどんなコンピューターよりも、優秀な処理能力を擁しているらしい。君が心から死を受け入れていても、脳が持つ本能はそうじゃない。出来うる限りの稼働をして、ありもしない生存の道を探す。君を永遠にこの時間に縛り付けて離さない」
「待て、助けてくれ、だってお前は──」
桐馬は悪魔に向かって必死に手を伸ばそうとする。だが、身体は動かない。加速した思考の世界で、加速していない身体ははるかにゆっくりとしか動かない。届いたとして、悪魔には触れられない。
「うん、僕は君だ、桐馬。君から分裂した『絶望』だ。だがそれは、君のことを殺したいと思わない理由にはならない」
目の前にいる悪魔は、二律背反を抱える桐馬が心の平衡を保つため、精神の奥深くに閉じ込めていた存在だ。
記憶を共有している。命を共有している。目の前の悪魔にだって、同じ体験が待っているはずだ。これほどまでに残酷な結末なのだ。悪魔だって、それだけは回避したいと考えているはず──
──いや、それは違う。悪魔は桐馬に死んでほしいと考えていた。その手段として何らかの行動を取っていて、どういう因果か、その行動を取ったことによって桐馬の眼前に現れることが出来たのだと。
その手段とは断じて、いじめていた相手に突き落とされる、などという偶発的なものではないはずだ。第一、屋上にやってきたのは桐馬の意志なのだ。
悪魔は言った。身体を取り戻せたのは、桐馬が眠っている間の僅かな時間だけだったと。
その時間を使って、悪魔は目的を達するための何かを為したのだ。
桐馬の視線の先では、悪魔の身体が少しずつ、色を失って透け始めている。
それが答え合わせだった。
「待て!」
「待てないよ。もう時間切れだ」
空気に溶けるように、悪魔は形を失っていく。手足の先から順々に、まるで煙草の煙のように世界と混ざり合い、消滅していく。
最後に残った三日月型の口が、桐馬の目にはっきりと焼き付いた。
「──一足先に逝かせてもらうよ。無間地獄の先で、また会おう」
桐馬が発した心からの絶叫は、もう誰にも届かなかった。




