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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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記憶の欠片:文倉史郎(8)

 史郎はその後、数日で体調を大きく崩した。


 原因は煙草で、どこから手に入れたのか分からないが、決定的なダメージになったことは否定のしようがない、ということだった。桐馬が看護婦に不審の目を向けられたのは、連日史郎の見舞いに来ていたのが桐馬ただ一人だったことで、煙草を渡したのではないかという疑いがかかっていることと、病室が完全禁煙であったことが理由だと思われた。後で気がついたことだが、桐馬が見舞いの際にベッドの脇に置いた鞄からは、煙草とライターがセットで消えていた。


 いよいよ、史郎と言葉を交わすことは叶わなくなった。全身に飛び火したガン細胞は脳にも影響を及ぼし、また投与された鎮静剤の効果も重なって、せん妄と呼ばれる意識障害を引き起こしていた。たまに寝返りを打ったりする様子は見られるものの、そこに史郎の意志があるわけではない。史郎が動くたびに吸入器が少しずつずれるのを、桐馬は逐一直してやった。


 桐馬は数日分の食料をコンビニでまとめ買いし、史郎に最期まで寄り添うことを決めていた。


 うつらうつらとしている間に、史郎の心拍や血圧が乱れ、常時モニタリングしている機械が大きな音を立てることもあった。少し経つと落ち着きを取り戻すのだが、その音が鳴る間隔は徐々に短くなっていった。誰に言われずとも、終わりが近いことは桐馬が一番理解していた。


 史郎の安らかとは言い難い寝顔を見ながら、あの日彼が言っていた言葉を思い出していた。


 幸福に生きよ。誰かと関わりを持て。世界に美を残せ。それが史郎にとって、この世に残した唯一の美になる。その真意を、桐馬はいまだに測りかねていた。


 桐馬が心に描いていた幸福な人生。それは他人を気にせず、自分の好きなように振る舞うという生き方であり、そこに他の人間との親密な交わりは不要だった。唯一胸を張って友人だったと言い切れる史郎だが、その命の灯火は失われようとしている。あと少しの時間が経てば、この世からは桐馬にとって重要な人間など一人もいなくなってしまう。そんな世界で、誰と関わりを持てというのか。


 思い至るとすれば、例えばかつて恋人関係だった美玖の存在。だが彼女とは高校が別になったことで疎遠になり、もう一年以上も連絡を取り合っていない。一方的に家や携帯番号を知っているだけだ。今更連絡したとして、美玖にとっては迷惑でしかないだろう。


 例えば、学校で唯一繋がりのある使い走り二人。だが桐馬は彼らに何の感情も抱いていない。それどころか暴行を繰り返し、彼らの持つ金銭を自分のもののように扱った。今更関係改善など、虫が良すぎる話だ。


 例えば、唯一手の届く範囲にいる肉親である母親。だが母は桐馬のことなど少しも気にかけていないようだった。優馬がこの世を去ったにも関わらず、なおも大人とも呼べない年齢の桐馬を放任し、家を空けて遊び呆けている。今更家族としてやり直そうという意志は、母にはない。


 今更、今更、今更。何もかもが手遅れだった。桐馬はいつの間にか、史郎と同じ孤独な存在に成り果てていた。それに気づいた途端、史郎との関係が、二人で過ごした時間が、まるで傷を舐め合っていただけの馴れ合いだったのではないか、という嫌な考えすら浮かび上がってきてしまい、桐馬はぶんぶんと頭を振った。こんな時にこそ煙草を吸えたらよかったのだが、喫煙所に行っている間に史郎に何かあったらと思うと、この場を片時でも離れる気にはなれない。いっそこの場で一服するという選択肢もよぎったが、それが原因で史郎の容態が悪化したらと思うと、さすがに手が伸びなかった。


 だが、桐馬がきっかけを作らずとも、史郎の限界はやってきた。


 心拍の数値が急速に減少していき、史郎に繋がる機械が音を立てる。駆け込んできた看護婦によって蘇生処置が行われたが、それが意味を為さないことは、史郎の半開きになった目がはっきりと証明していた。


 やがて聴診器を首にかけた老齢の医師がやってきて、桐馬に訊いた。


「他に、立ち会われる方はいらっしゃいますか」


 桐馬が首を横に振ると、医師は気難しそうな表情をして、もぬけの殻となった史郎の胸に聴診器を当てた。位置を少しずつ変え、何度かそれを繰り返す。まぶたをこじ開け、ライトを近づけて瞳孔の反応を確認する。


 最後に時計を見て、医師は静かに宣告した。


「午前十一時十五分。御臨終です」





 直葬、というものがあるらしい。


 桐馬は知らなかったのだが、葬式を主催する親族がいない場合、自治体によって病室から直接火葬場へと運ばれ、通夜や告別式を経ずに火葬される。無論その間に読経や焼香などが行われることもなく、遺骨は合同墓に納められることになるのだという。


 そう考えれば、優馬の時は一連の手順を踏んでの葬式が執り行われていたのだ。あの母親にしては珍しい、と考えたところで、優馬の葬式には祖父母も参列していたことを思い出す。恐らく母は肩書だけの喪主で、実際に式の内容を決めたり費用を工面したりしたのは祖父母なのだろう。


 もし本人の遺言や遺書が残っていれば、遺骨などの行く末を変えることが出来ていたらしい。ただ、もし受け取っていたとしても扱いに困っていたことは想像に難くない。見知らぬ老人の遺骨が優馬の骨壺と並んでいたとしたら、さすがにあの母親でも嫌な顔くらいはするだろう。


 それに、史郎は桐馬に対し「何も押し付けたくない」と語っていた。自分の遺骨すらそこに含まれていたのだとしたら、無理に受け取っても史郎は喜びはしないだろう。


 合同墓は火葬場に併設されていた。家族墓とは段違いの大きさをした合同墓だが、石碑の前で手を合わせても、桐馬の気持ちが史郎個人に届いている感覚はない。

 ふと思い立った桐馬は、一度帰宅することに決めた。

 史郎の付き添いをしていたために風呂に入れていなかったのが一番の理由だ。二日分の皮脂を洗い流すと、鬱屈としていた少しは気分も晴れやかになった。


 髪をわしわしと拭きながら部屋に戻ると、とたんに眠気が襲いかかってきた。シャワーによって温められたことで、身体が不眠不休だったことを思い出したのだろう。足元が覚束なくなるほどの衝動に抗いきれず、桐馬は畳に倒れ込んだ。最低限の肌着だけの状態だったが、気が済むまで眠ってやろうという勢いで、桐馬は布団もかけずに眠った。


 次に目を覚ました頃には、太陽が西から東に移動していた。乾かす暇もなかった髪を手ぐしで整えつつ、制服に袖を通す。自分勝手にやる、が信条の桐馬だが、余計な面倒を避けるため、学校に向かうときだけは制服を着るようにしていた。


 そう、向かうのは高校だ。桐馬が知る場所の中で、あそこが一番空に近い。


 持っていくのは、煙草と、ライターと、本が一冊。史郎と最後の感想会を繰り広げた下巻だ。ブレザーの内ポケットは財布で膨らんでいたので、本は手に持っていくことにした。


 家を出る時、玄関の近くに妙な段ボールが転がっていることに気づいた。封は切られており、中には何も入っていない。ネットで本を注文した時の箱はその日に片付けていたし、昨日帰ってきたときにはこんなものはなかったはずだ。大方、母親もなにか頼んでいたのだろう、と桐馬は気に留めなかった。


 会社に遅く出社することが社長出勤なら、学校に遅刻していくことは校長登校とでも言うのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、桐馬は校門の柵をよじ登った。


 校舎内には妙な雰囲気が漂っているように感じた。浮足立っているような、どこかそわそわとした雰囲気だ。携帯を取り出して確認してみると、日付は桐馬に対して行われる補習講義を明日に控えた十八日だった。つまり今日は終業式、一般生徒からすれば、明日からは待ちに待った夏休みなのだ。教室に生徒が残っていないところを見るに、今は終業式の最中らしい。


 携帯を起動したついでに、モヤシとおにぎりとのチャットグループを開き、いつも通り昼食をリクエストしておく。しばらく菓子パン生活が続いていたので、今日は米が食べたい気分だった。


 桐馬は屋上に上がった。他者との関わりを避けたい桐馬にとってはいつも通りの行動なのだが、今日は別の理由を抱えながら、桐馬は階段を一歩一歩昇っていった。


 屋上に出ると、そこには夏があった。四階建ての校舎の高さは約十四メートルだというが、たったそれだけ太陽との距離が縮まっただけで、地上とは別世界の熱線が降り注いでいる。


「……ま、空との距離が対して変わらねーって言うなら、わざわざここまで来た意味もなくなっちまうんだが」


 陽炎が立ち昇りそうなそこへ足を踏み入れることに一瞬だけ躊躇ったが、桐馬はそのまま屋上に進むと、足を投げ出すようにして縁に腰掛けた。


 歩いていたときから少し感じていたことだが、妙に頭がぼんやりとしていた。正直なところ、学校にたどり着けたのは習慣づいていたからで、どう歩いてきたのか記憶が曖昧だった。寝起きによるものだろうと高を括っていたのだが、ここに来て、もやもやとしたわだかまりが主張を強めてきた。自分の頭を殴って黙らせながら、桐馬は持参した煙草を取り出す。火を点けると、細い煙がふらふらと彷徨いがら、空へと昇っていく。


「どうだよじーさん……あんたは線香の煙なんかより、こっちのほうが好みだろ」


 煙草の先からの煙に加えて、桐馬の口から灰色の煙が吐き出される。それらは夏風にかき乱され、空に届く前に世界に混じって、消えた。


 雲は高く、空の果ては遠い。天国には届きそうもなかった。


「何も残らねーじゃねえかよ……クソが」


 煙が胸を満たす。吐き出す。満たす。吐き出す。


 繰り返すたび浮き彫りになるのは、煙が流れ込むそこに、史郎の形をした穴が空いているということ。


 どうしようもない寂寥感を抱えながら、本を開く。一度読み切ったはずの本だが、今はどうしてか、書いてある文字が上手く認識できない。


 目は機械的に文字を追いながら、頭の中では史郎と交わした会話が乱反射している。


 幸福に生きよ。その言葉が頭から離れない。


 ほどなくして、コンビニの袋を手にした二人が現れた。だが桐馬はそれにも気づかずに、煙草が燃え尽きるたびに新しいものを咥え、何度も本を開き直しては、ページを捲ることを繰り返していた。


 この後何が起こるかはよく知っていた。日が落ちる頃に桐馬は突き落され、屋上から真っ逆さまに転落するのだ。

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