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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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27/30

記憶の欠片:文倉史郎(7)

 翌日、看護師の言っていた通りに緩和ケア病棟へと移された史郎は、穏やかな表情で桐馬を待っていた。


 酸素マスクはいつでも使えるようにそばに置かれており、身体からはいくつも管を生やし、心拍や血圧を常時モニタリングされている。そんな深刻な状況でも、史郎は体を起こした状態で桐馬を迎え入れてくれた。桐馬は持参した鞄をベッドの脇にどさりと置いた。中には例の本の上巻と中巻も入っている。史郎は病室で暇を持て余しているだろうと思い、古書店から持ち出してきたのだ。


 思っていたよりもずっと狭い部屋だった。桐馬が暮らしているボロアパートと、床面積的には大差がない。ベッドが部屋の三分の一ほどを占め、小さな冷蔵庫とテレビ台だけが生活感を感じられる要素だった。窓は大きめのものが設置されているが、ベッドに寝た状態で見られるのは、移り変わる空模様くらいのもので、壁掛けの時計があるのと何ら変わらない。部屋の外とベッドにつけられている名札は、アクリルパネルのスリットに厚紙を差し込んだだけのもので、この部屋の住人の入れ替わりが激しいことを示唆しているように思えた。


 史郎はその限りではないが、基本的に緩和ケア病棟とは、苦しい治療の末に病気との戦いを諦めた患者が最後に行き着く、心の健康を保つための部屋だ。そんな場所がこのようなあっさりとした場所だとは、桐馬は想像だにしていなかった。史郎がここから外に出ることはもうない。こんな狭く寂しい部屋で、史郎は一生を終えるのだ。



 そんな桐馬の内心など気にも留めず、史郎は鼻息を荒くしていた。心なしか顔にも赤みが増している。


「読め!」


 力強く差し出しているのは、桐馬が昨日渡した下巻だ。


「もう読み切ったのか?」


「二周した」


 にやりと笑う史郎は、とてもではないが余命一週間という診断とは結びつかなかった。


 よく見れば、史郎の顔には涙の跡があった。いつもより目が赤くなっているようにも見える。


「一刻も早く誰かに感想を伝えたくてたまらんのじゃ。とにかく早く読め」


「わーったよ。今日帰ったらすぐ読んで、明日また来る」


「それでは遅い。今じゃ。今ここで読んでいけ」


「いや、それだとじーさんと話す時間がなくなるだろ」


「儂は今、その本についての話以外するつもりはないぞ」


 唾を飛ばす勢いの史郎に、桐馬は折れるしかなかった。仕方なく本を受け取り、見舞者用のパイプ椅子に腰掛けてページを開く。


 普通の見舞いではある程度の時間制限がかけられるものだが、担当看護婦からは、いつでも来ていい、何時間でもいていい、との言質を取ってあった。緩和ケア病棟においては心の健康がなによりも重要視されるため、家族や友人と関わることが優先されるのだ。特に病状が末期となると泊まりでの付き添いも解禁されるようで、奇しくも桐馬が本を読み、史郎との長々とした感想会を繰り広げることを邪魔する要素は全て排除されていた。


 本の内容は、一言でまとめてしまえば人間讃歌だ。上巻や中巻で語られていたのは、人間的に欠落の多い主人公が、それでも世界に立ち向かうのだという意志を示して何度でも決起する、という物語だ。桐馬は少し、この主人公にシンパシーを感じていた。順風満帆とは程遠い人生を送って来た桐馬にとって、主人公を取り巻く不幸は他人事ではなく、まるで自分の人生をなぞっているかのように感じられた。


 物語は、主人公を古くから知る旧友が、一世一代の儲け話に乗らないか、と持ちかけてくるところから話が始まる。単純な主人公は二つ返事で快諾してしまうのだが、そこから彼の人生は一気に奈落の底に落ちる。銀行から借りた資金を持ち逃げされてしまい、連帯保証人の欄に名前を書いた主人公が支払い責任を押し付けられることになった。


 返済のあてもなく、首が回らなくなった主人公のもとに、またしても聞こえのいい話が舞い込んだ。海外で数日働くだけの仕事で、現在の月給ほどの額がもらえるという、いかにもきな臭い匂いのする案件だったのだが、主人公はまたしても深く考えずに応募してしまう。案の定、主人公は犯罪に関与することになってしまうのだが、持ち前の楽観さで現地人との絆を育んだり、同じく日本からやってきた仲間と協力することで、どうにかひっそりと帰国することに成功する。


 相変わらず返済に困っていた主人公は、今度は投資話を真に受け、手元にあったわずかな金すらも騙し取られてしまう。だが、その詐欺を行っている母体がかつて海外で働かされていた場所だということがわかり、帰国後も連絡を取り合っていた現地人との連携もあって、警察に決定的な情報提供を行うことになった。結果として海外詐欺グループの大量逮捕に繋がったことで、警察からは多額の謝礼が支払われ、主人公が肩代わりさせられていた借金は、そのほぼ全てが精算されることになる。


 そして中巻では、この借金を押し付けられる原因となった旧友との偶発的な再会をエピローグとして、物語は一旦の終わりを迎えていた。


 旧友はというと、強引な手段で得た資金を転がしてさらに大きな財産を築いており、ようやく借金をどうにかできそうな主人公とは真逆の様子だった。再会したときの時の主人公の心情は、中巻には描かれていない。波乱万丈の人生へと自分を突き落としたことを恨んでいるのか、それとも持ち前の楽観的な性格で明るく挨拶をしてしまうのか。史郎との会話では、特に主人公の抱える思いや下巻の展開について、詳細に予想し合っていた。


 読み進めていくと、主人公は長年抱えてきた借金に対する複雑な感情を発露するでもなく、同窓会で十年ぶりに友人に会ったかのように、気さくな様子で声をかけていた。これは史郎と桐馬が語り合っていた予想と大方の方向性が一致していて、桐馬は思わずにやけてしまった。


 旧友はというと、主人公に対する後ろめたさから、早くその場を立ち去りたい、二度と関わりたくないという意志を露わにする。だが主人公がその意図を汲みきれずに距離を詰めようとすると、旧友はこらえきれずに手を出してしまった。そこが公共の場だったこと、多くの人がそれを目撃したことで問題は肥大化し、旧友は事業的にも社会的にも一気に追い詰められることになる。


 そこでも旧友を助けようとしてしまうのがこの主人公。元々二人で立ち上げようとしていた事業だったこともあり、主人公の名前が事業計画書に残っていた。世間的には事業を引き継ぐという体で、実務的な部分は変わらず旧友が担うという形をとり、あとは事件が風化し、批判の声がかき消えるのを待つだけになった。


 旧友は主人公に、どうして自分を騙した人間に対してそのようなことができるのか、と尋ねるのだが、その場面で主人公は初めて、己の行き当たりばったりとまで言えるような行動原理について明かすのだ。


 生きている間に何をどれだけ持っていようと、人間は結局のところ、死ぬ時になにも持っていくことは出来ない。それは財産も借金も友人も思い出も、なにもかもがそうだ。


 つまり人間は、この世界、地球上に、自分の持っていた全て、行動によって生み出したもの全てを残して、この世を去ることになる。


 では果たして、そんな世界に残すものが美しくなくていいはずがあるだろうか? 当然、主人公の答えは否だ。


 主人公にとっては、自分へと向けられる全てを肯定することこそが、その意志を体現する方法だった。


 たとえその先で、不本意な未来が訪れることになったとしても、それでも自分の世界においては誰も否定しない。それこそが、彼が心に決めていた唯一の信条だった。


 人間の一生というものを究極まで煮詰めていけば、結局は自己満足でしかないということを皮肉的に語りながらも、それでも人間の強さや弱さ、尊厳を称えるという筆者の意図が、主人公を通して強く桐馬の胸を打った。


 やがて世間のほとぼりが冷めると、主人公はあっさりと事業を旧友へと明け渡してしまう。かつて負うことになった借金額の弁済を申し入れられるも、今までイエスマンだった主人公はそこで初めて、ただ一度否定の言葉を口にし、彼にとっての日常に帰っていった。


 読み終える頃には、すっかり日は沈んでいた。


 桐馬が本に集中している間、史郎は少し船を漕いでいたようだった。桐馬がカーテンを閉じた時の音で目を覚ました史郎は、寝ぼけ眼を病院着の袖でしきりに擦った。


「……どうじゃったかのう?」


「一言で言えば……感動した。この筆者にとっての人間の理想みたいなものを見せられた気分だ」


 率直な本心が自然と口から出た。史郎のように涙こそ流さなかったものの、主人公に影響されているのは間違いなかった。


「そうじゃのう。確かに感動的な物語じゃった。物語の出来はさることながら、注目すべきはやはり、主人公に一貫していた行動原理かのう」


 同意見だ、と桐馬は頷く。


「あとがきによれば、主人公の着想はいわゆるミニマリストから得たものだということじゃ。宵越しの銭を持たず、最後に世界を去るときには、自分にとっての美だけを残していく。それこそが彼の美学であった。──この考え方は奇遇にも、今の儂に、そしてお主にも共通する部分があるのう」


「……俺に?」


 遠回しに史郎は、自身の死を悟っているようなことを言う。そこに噛みつきたくなる言葉を飲み込みながら、桐馬は聞き返した。


「儂は今までの人生で集めた本を手放そうと、それだけの理由で古書店を続けておった。初めは、ただ単に持ち物を処分しなくては、という思いだったのじゃが、死を意識せざるを得ない年になって、それ以外の思いも芽生えてきておった。儂にとっての遺産となるあの物語たちを、埋もれさせることなく、誰かに引き継いでほしいのだ、と」


「……」


「じゃが、それは単なる自己満足だとも気付いておった。だからこそ、お主にこの話をしたことはなかった。元々背負うものの多いお主に、これ以上何かを押し付ける気にはなれんかったからのう。……儂の言いたいことがわかるか?」


「俺には自由に、好きに生きてほしいってことだろ? だったらそいつは現在進行系で実行してるところだ」


「いいや、違う」


 史郎は言葉を切ると、今までにない真剣な瞳をした。


「お主には、儂のような孤独な人間にはなってほしくないのじゃよ」


「……どういう意味だ」


「儂には嫁も子供もなく、あの山のような本しか遺すことができんかった。今更後悔などしているつもりはないが、お主が彼女を連れてやってきた時、少しだけ羨ましく思ってしまってのう。それと同時に、お主は儂とは違う人生を歩む力があるとも感じた。じゃが今のお主は、その可能性を自ら否定してしまっておる」


 史郎の言葉はなぜか、桐馬の中にするりと入り込んでくる。


「弟の件で、お主は儂以外の全てに対して、その心を閉ざしてしまったように見える。儂がいなくなったあとで、お主が苦しみながら生きる姿が目に浮かぶようじゃ」


「うるせえよ。余計なお世話だ」


「そうかもしれんな。儂はこの本を読み終えてから、お主の中に一つでも何かを残したいと考えておった。それは余計な世話だと呼ばれるものなのかもしれんが、儂はお主が幸せに生きてほしいと本気で考えておる」


 長々とした話を、史郎は最後にこう締めくくった。


「幸福に生きよ。世界との関わりを持て。そして、美しいなにかを残せる人間になれ。──そうすることでお主という存在そのものが、儂にとってこの世に残すことができる唯一の美になる。お主は儂の希望じゃ」


「……じーさんの話は、長くて難解でよくわからん」


 その後は少しだけ言葉を交わし、史郎が眠気を訴えたので、桐馬は帰宅することにした。


 帰りの夜道で煙草をふかしたのだが、梅雨終わりの妙な湿気のせいか、普段よりも苦みが強く、桐馬は半ば辺りに達したあたりで道端に捨てた。

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