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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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記憶の欠片:文倉史郎(6)

 史郎が搬送されたのは、彼の古書店から程近い場所にある市立病院だった。


 文倉古書店ほどではないがそれなりに年季が入った大病院で、内科や外科、耳鼻科などを内包している総合病院だ。優馬の母子手帳を見る機会があったのだが、それによると、優馬もここの産婦人科で取り上げられているはずだ。


 入院棟へはエレベーターで移動するらしい。ベッドごと階を移動するためなのだろう、妙に広い箱に運ばれ、桐馬は七階に向かった。


「文倉史郎の面会をお願いします」


 担当の看護師に伝えると、名前を記入するボードを渡された。苗字が違っていることに一瞬怪訝そうな顔をされたが、看護師は桐馬を病室へと案内してくれた。


 通されたのは四人部屋だった。いわゆる相部屋というやつで、ベッドが互いにかなり距離を空けて備え付けられており、その中の右側、窓際のベッドによく知る顔があった。史郎は意識を取り戻しており、いつものように本を広げていた。集中しているようで、桐馬の訪問に気付いている様子はない。


 正直なところ、桐馬はかなり安堵していた。相部屋に入院させられるということは、直ちに命の危険があるレベルの患者ではない、と読んだことがあったからで、実際、史郎の顔色は普段と遜色ないように思えた。上体を起こし、手すりなどにももたれかからずに姿勢を維持しており、無理をしている様子でもない。


 ただ、病院着を着せられた史郎の腕には血管が浮いており、そこには点滴の針が刺さっていた。


「よお」


「……」


 近寄って声をかけるが、史郎からの反応はなく、手元のページがひとつめくられる。


「じーさん、おい」


 桐馬が肩を無造作に掴んで揺すってやると、史郎はようやく桐馬の存在に気が付き、小さな机から栞を取って挟みこんだ。


「おお、お主じゃったか。誰も見舞いになど来ないと思っておったからの、誰か来たことには気付いておったのだが、まさかお主だとは思わなんだ。そういえば、看護師に頼んで連絡を入れてもらったのじゃった」


「高校入ってバイトして、一番に買ったのが携帯だからな。こいつがなかったら連絡の取りようがなかった」


 型落ちのスマホを見せびらかす。最新モデルには程遠い機種で動作も重く、桐馬の過失でない傷がいくつも残ってはいるが、連絡をとる程度の用途に支障はない。


「高校に加えてバイトとは、忙しくしているのではないか?」


「別に。さっきだって、ちょっと同級生とじゃれてただけだ。それに、もうバイトはできなくなっちまってな。不良グループの連中がやらかしやがって、うちの学校のヤツは全員バイト禁止になったんだと。知ってるか? バイトテロってやつだ。コンビニのアイスケースに入った写真をSNSに投稿したのが炎上したらしい」


 史郎はくしゃりと苦い顔をした。


「若者文化はよくわからんが、せっかくバイトができる学校に入ったのに、他人のせいでそれができなくなるというのは不便じゃのう。特にお主のような家庭事情を抱えている場合は死活問題じゃろうて」


「そうでもない。最近は昼飯に金かかってねえし、そもそも養育費が未だに優馬の分まで振り込まれてきてんだ。バイトなしでも携帯代は払えてるし、前よりはよっぽどマシなもん食ってるよ」


「それなら良いのじゃが……ゲホッ、ゴホゴホッ」


 史郎が突然咳き込み始めた。一度始まった咳はなかなか止まらず、桐馬が背中をさするが、それでも腰を折って前かがみになるほどの勢いだ。


 ようやく落ち着くと、史郎が自ら口元を押さえていた手には、黄土色に色付いた痰が残っていた。すぐにティッシュを数枚取って拭っていたが、それは史郎が暮らす部屋の、天井にこびりついた色によく似ていた。


「やっぱ、原因は煙草か」


「有り体に言えばな」


 史郎はどうやら、店で血を吐いて倒れていたところを通行人にたまたま発見され、通報に至ったらしかった。当時は呼吸も止まっており、発見者の救命措置によってどうにか自発呼吸を取り戻したらしい。幸いだったのは、史郎は店頭での作業中で、それも外から見える位置で倒れていたことだ。少し遅れていただけでも生存率に関わっていたのだという。もし倒れていた場所が店先でなく奥の座敷だったとしたら、桐馬が訪れるまで誰にも気づかれずに、ひっそりと孤独死していたかもしれなかった。


 吐いていた血の正体は血反吐ではなく血痰で、二つの違いは血の出どころだ。要は咳のしすぎで喉の粘膜が破れ、その結果咳によって口から吐き出されたものだ。習慣づいていた煙によって弱っていたことは明らかで、呼吸ができなくなっていたのも、喉に痰が詰まってしまっていたからだ。


 ただ、入院が決まった理由はそれだけではなかった。


「肺にガンができているのじゃと。それも、なかなかに頑固なやつのようじゃ」


 史郎は、いつもの世間話をするような調子でそう言った。


「……だから、煙草はやめろって言っただろうが」


「長生きするつもりはないと言っておろう」


「俺は長生きしてもらわなきゃ困るんだよ」


 桐馬が噛みつくと、史郎は流し目に外を見た。


「まあ、ここに担ぎ込まれた時に、持っていた煙草は全て没収されてしまったのじゃがな。まったく、勝手なことをしおるわ。煙草をやめて僅かな時を生きながらえたところで、その僅かな時間を使って、今更何かやりたいことがあるわけでもない。むしろ煙草を吸いながらぽっくりと逝くのが本望じゃわい」


「──あるだろ、やり残したこと」


「む?」


 史郎はきょとんとして、視線を桐馬に戻した。桐馬は一冊の本を差し出していた。


「覚えてるか? まだ俺が小学生の頃、このシリーズの下巻を読みたいとじーさんは言った。──こいつがそうだ」


「なんと……覚えておったのか」


「そりゃあ、俺だってあの続きが気になってたからな」


 史郎は震える手で本を受け取ると、それを目の前で両手で持ち、おどろおどろしい印象画のような表紙をじっと見つめている。文倉古書店に蔵書として存在する上中巻に比べると、目立つ汚れや傷もなく、二十年以上前に刊行された本にしてはかなり保存状態がいい。


「……どこでこれを手に入れた?」


「現代には通販っつー便利なもんがあってな。電子書籍版でもいいかと思ったんだが、せっかくならあの本棚に三冊まとめて並んだほうが見栄えがいいだろうと思ってな。在庫が見つかったから注文しておいた。ちょうど昨日届いたんだ」


「そうじゃったのか。儂はインターネットには縁のない人生じゃったからのう……」


 しみじみと呟く史郎の視線は、本の表紙に釘付けになって離れない。なにせ二十年以上探し続けた本が目の前にあるのだ。一刻も早く手を付けたいと考えているはずだ。


 その思いを汲んで、桐馬は早々に病室から引き上げることにした。くるりと背を向けると、史郎が声をかけてきた。


「もうゆくのか?」


「本読んでる時は誰にも邪魔されたくないだろ」


 桐馬は足を止めない。首だけで振り返れば、史郎はベッドから身を乗り出していた。


「そいつを読み切るまではくたばるんじゃねえぞ。なんなら先に上巻と中巻を読み直すか? 今からなら店と往復しても面会時間に間に合う」


「いや……いい。内容は全て頭に入っておる。もう何度も読み返したからな」


「そうかよ。……んじゃ、またな。明日また顔を出す。俺もまだ読んじゃいねえんだから、読み終わったら寄越せよ。俺も読み終わったら、いつも通り感想会だ」


「ああ、もちろんだ」


 桐馬は斜陽が差し込む病室を出た。部屋の外に待機している看護婦がいたので、ドアがぴたりと閉まりきったのを確認してから、桐馬は低い声で尋ねた。


「病状は?」


「申しわけありませんが、親族の方の許可がない方にお教えするわけには……」


「あのじーさんに親族はいねえよ」


 看護婦は少しの間逡巡する様子を見せてから、小さな声で告げた。


「文倉さんのガンは、もう手のつけられないところまで進行していて、全身への転移も見られます。今はまだ落ち着いていますが、夜になると体調が悪化する傾向があり、酸素マスクが必要になる可能性が──」


「ちょっと待て、そんな状態なら普通、相部屋に入れたりしねえだろ」


「救急で運び込まれた当時は個室が空いていなくて……今朝検査結果が出たので、この後面会時間が終わったら、個人用の病室に移動する予定でした。進行状況から鑑みて根治は困難なことと、ご本人さまが積極的な治療を希望しておられないことを踏まえて、今後は緩和ケア病棟での面会となります。夜は体調が悪化しがちで、激しい咳や血痰も続いています。痰は適宜取り除きますが、肺機能自体も低下が見られていて、酸素吸入が必要になる可能性もあるでしょう」


「クソっ……あのヘビースモーカーが……」


 治療を希望していないというのは、史郎らしいようにも思えた。抗がん剤を使っての治療は苦痛を伴うと聞く。苦しみながら命を長らえるくらいなら、最後まで苦しみは最小限に、おだやかに眠りにつきたいのだろう。


「……それで、余命は?」


 看護婦はまたも視線を宙にさまよわせる。逃げ道を探していたようだったが、やがて諦めたように息をついた。


「……今すぐに命の危険があるというわけではありませんが……先生からは、短ければ一週間、と」


 思わず舌打ちする。史郎との時間は、想像以上に残されてはいない──


「……わかった。また明日来る。病室が決まったら連絡をくれ」


 気まずそうにうつむく看護婦を残し、桐馬はフロアマップを頼りに喫煙所へと向かった。

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