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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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記憶の欠片:文倉史郎(5)

 桐馬がガラガラと音を立てる古書店の引き戸を開けると、珍しく史郎が店に出ていた。本の整理をしているようで、本棚の一段がまとめて引き抜かれ、もぬけの殻になっている。


「む、お主か」


「よう、じーさん」


 桐馬の呼びかけにやや訝しげに顔を歪めながらも、史郎は本棚の間を半身になって進み、桐馬に近づいてくる。


「少し痩せたか?」


「バカを言え、煎餅は案外カロリーが高いんじゃぞ」


 軽口を返す史郎の頬は、数カ月ぶりに目にする桐馬には、少しばかり骨ばってきたように見えた。


「久しいのう。クリスマスイブに本を取りに来た時以来じゃから、三ヶ月ぶりといったところか。あまりに期間が空いたからもう来ないかと思っておったぞ……ははーん、なるほどのう?」


 史郎の表情が、にやにやとした笑みに変わる。


「さてはデートもプレゼントも大成功で、うちに顔を出す暇もないくらいに彼女と楽しんでおったのじゃろ。言うまでもないことじゃが、想い人は大切にせねばならんぞ、さもなくば儂のようにひとり寂しい老後を送ることになる。そうじゃ、そろそろ中学も卒業じゃったの。それは新しい学校の制服か? 祝いにどこか飯でも──」


「美玖とは自然消滅した。高校も別だし、もう連絡を取ることもないだろ。それより、ニュースや新聞は見てないか?」


「いいや、最近は本ばかりでの、それに世間の関心事など、儂にとっては大した問題ではないからのう。なにかめでたいことでもあったかの?」


「優馬が死んだ」


「──む?」


 久々の再会に、舌に脂が乗り始めていた史郎の言葉が、ぴたりと止まった。


 代わりに桐馬の口からは、言葉が堰を切ったように溢れ出し、胸の中に秘めていた思いを一気に吐き出した。


「優馬は俺のせいで死んだ。あの夜だよじーさん、ちょうどここで本をプレゼントしてから、俺と美玖がレストランで飯食ってた時間だ。通りかかった石焼き芋の屋台につられて、二階から落っこちて死んだ。俺が考えなしだった。もっといろんなもんを食わせてやってたら、優馬があんな死に方をすることはなかった。わかるかじーさん、俺は優馬がクソみたいな飯食ってる間に、彼女の金でコース料理だ。罰を当てるなら俺の方だろ。そもそも俺が目を離したのが悪い。優馬を過信して、自分がいい思いをするために都合よく考えた。優馬は大丈夫だと思い込もうとした。その結果がこれだ」


「お主のせいなどではない」


 頬に感触があった。次に背中、そして頭を撫でつけられる。史郎は柄にもなく、全身で桐馬の身体を包み込んでいた。タンクトップ越しに触れた胸から鼓動が聞こえる。史郎がいつもまとっている煙草の匂いがする。桐馬は反応こそしなかったが、史郎の手が震えているのを感じ取っていた。


 手だけでなく、史郎は喉も震わせていた。


「お主のような年頃の子供が、彼女と自由に出かけることも出来ない環境そのものが間違っておる。母親はなにをしておった。近所の住人に頼りにできるような者はおらんかったのか。子供など、まだ親や周りの大人に寄りかかり、もたれかかっていても許される存在じゃ。お主に課せられた責任は不当なものじゃ。責める者がいるのなら、儂が出向いて話をつけてやろうぞ」


「熱くなるなよ、血圧が上がるだろ。それに、そのあたりにはちゃんと整理をつけてきた。俺は大丈夫だ」


 桐馬が取り乱したのは一瞬のこと。吐き出すものを吐き出して、桐馬は落ち着きを取り戻していた。


「──だから、これからは好きにやることにした」


 史郎が羽織る半纏の匂いと感触を感じながら、桐馬は自分に言い聞かせるように呟く。


「優馬がいなくなった代わりに、俺には自由な時間が増えた。行けてなかった図書館も行き放題だし、ここにだって毎日来られる。春からは高校だが、まともに通う気はない。バイトで最低限の生活費だけ稼いで、あとは読書にあてようと思ってる。バイトが終わったらここに来て、遅くまでじーさんと本の話をする。最高だろ?」


「……お主、口調が変わっておらんか?」


 史郎の抱き寄せる力が弱まるのを感じた。桐馬はその腕からするりと抜け出し、あてもなく本の列を眺めた。


「家にいたって気が滅入るだけだからな。骨を置いとく仏壇もねえから、帰ったら毎日優馬の遺影や骨壺と鉢合わせすることになる。いっそどこか別のところで寝られるならその方がいいんだが、そういうわけにもいかねえしな」


「それなら、いっそうちで寝泊まりしていけばいい」


「じーさんにだけは、迷惑かけるわけにはいかねえよ」


 即答する。それだけが、今の桐馬にある本心だった。


 取り巻く人々から散々な扱いを受けてきた桐馬にとって、唯一諸手を上げて信用できる、尊敬できる、と断言できるのが史郎だった。桐馬に居場所と本を提供してくれるとともに、数少ない気の合う話し相手でもあった。美玖を相手にしているときのように変な気を使う必要もない。桐馬が悩んでいればいつだって助言をしてくれるし、そのどれもが桐馬の境遇を理解し、その上で傷つけまいとする気遣った優しい言葉だった。


「……改めて見てみれば、ひどい顔じゃな。お主こそ少し痩せたのではないか?」


「整理がつくまでは、なかなか飯が喉を通らなくてな」


「いいや、そういう意味ではない」


 史郎はいつものように煙草の箱を取り出すと、トントンと叩いて一本を飛び出させる。いつもなら自分の口に咥えているそれを、桐馬に差し出してきた。


「吸ってみるか?」


 少し考えて、桐馬はその一本を受け取った。すぐに火をつけるのかと思ったのだが、史郎が「ここでは本に灰が落ちるし、臭いがつく」と言って、店の奥へと桐馬を招き入れた。


「はじめはゆっくり、ストローで飲み物を飲むくらいの感覚で吸ってみろ。はじめは軽く、吸いすぎないようにのう。慣れていないうちに肺に入れると、すぐにクラクラしてしまうからな」


 火をつける前の煙草は、他の何とも違う香ばしい匂いがした。


 史郎の言葉に従い、煙草をストローのような筒に見立て、そこから息を吸い込むようにすると、史郎が先端に火をつけてくれた。


「っ!? げほ、げほっ!」


「はっはっは。どうした、肺でも悪いのか?」


 煙が入ってくるや否や、何よりも早く喉への異物感が感じられた。反射的に咳き込んでしまい、咥えていた煙草が落ちてしまいそうになったのだが、史郎が手を添えていてくれたおかげで畳に落ちることはなかった。そこからようやく口の中にコーヒーよりも強烈な苦みを感じ、桐馬は思わず舌を出した。とにかく口の中に舌があることに耐えられなかった。


「……これ、不味すぎるだろ。舌の上に一生苦みが残ってる。水で洗い流したい気分だ。こんなもん毎日スパスパ吸ってんのか、じーさんは」


「そこが癖になるポイントなのじゃがな。それに自分の口から出ていく煙を眺めていると、まるで嫌なことが煙と一緒にどこかへ消えてしまうような感覚になる。……まあ実際のところは、ニコチンが切れたことによる苛立ちが解消されるのを、儂が勝手に都合よく解釈しているだけなのだろうがな。まあ、煙草の楽しみ方など人それぞれじゃからのう」


「ふーん……」


 しみじみとしている史郎から煙草を受け取ると、桐馬は意を決し、さっきよりも静かに、ゆっくりと煙を吸い込む。


 慎重にしたのがよかったのか、今度は咳き込むことはなかった。肺のあたりに僅かな痛みが溜まっていくのを感じるが、まるでそれは桐馬の胸に刺さっている棘の数々とリンクし、溶け合っていくようにも思えた。少しの間、肺の中で煙を遊ばせてから吐き出すと、その痛みが身体の外に出ていって一気に胸が楽になる。そこに思い切り空気を取り込むと、まるで傷一つない、新しい自分にでもなった気分だった。


「……じーさんの言ってること、少しはわかるかもしれん」


「そうか? 気に入ったなら分けてやろう。今の時代は子供がおつかいで買うことも許されていないらしいからのう。まったく、世界には面倒なしがらみばかりが増えていく。カートンで買ってあるのがそこに転がっているから、好きなだけ持っていくと良い」


 史郎が指さしたのは部屋の隅で、そこには史郎がポケットから取り出したのと同じ銘柄の箱が、少なくとも三十は積み上げられていた。


 桐馬はその山から箱を二つと、そばに転がっていたライターを拝借することにした。そのうち一箱を開け、史郎のように箱を叩いて中身を出そうとしたが、なかなかうまくいかない。少しの間躍起になって格闘していた桐馬だが、あの何気ない技が実は地味に難易度の高い代物だったことを理解し、すごすごと諦めて懐にしまい込んだ。


「切らしたら好きに持って行け、いつも適当に買い溜めておるからな」


「……ああ。じーさんこそ、程々にしてくれよ。じーさんにまで死なれたら、いよいよ俺はおかしくなっちまいそうだ」


「それが先に逝くな、という相談なら、今のうちに断っておこう。できん約束はしない主義じゃ」


 冗談で笑い合っていた桐馬と史郎。


 その史郎が倒れ、病院に担ぎ込まれたのは、二人がこの会話のことなどすっかり忘れてしまった後の、約一年後の出来事だった。

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