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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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23/30

記憶の欠片:文倉史郎(3)

 学校、家事、優馬の世話。桐馬を取り巻く環境は、なかなか休む時間を与えてはくれない。それでも、忙しい日々の合間を縫うようにして、桐馬は古書店に通い続けた。


「この本の主人公、最初の方に言っている何気なさそうなセリフが全部、最後に自分に降り掛かってくるんですよね。そこが皮肉で面白いというか、ざまあみろ、というか。僕が選ぶ作品はハッピーエンドばかりで、主人公がこんな風に悲惨な最後を迎える話はあまり読んだことがなかったので、新鮮でした」


「うむ、そもそもの視点が悪人のそれじゃからな、主人公の嘘偽りない心情を見せつけ、読者をモヤモヤとさせた上で、最後にはそれをきっちりと断罪する。この物語の面白さはもちろんそこに集約されるのだが、もう少し深読みしてみるとしよう。例えば主人公を慕っていた女性に落ち度があるようには描写されていないが、きっと彼女は──」


 史郎との会話は本当に他愛のないものだった。いつも決まって、桐馬は借りていった本の感想から話を始めた。共通の話題であることが分かっていて切り出しやすかったというのもあるが、借りていく本がどれも面白く、読み終えるときにはいつも、すぐに感想を伝えたくなってしまうのだ。あの言葉の解釈がどうだとか、この行間で作者はなにを言いたかっただとか、自分が汲み取ったこと、伝えたいことがどんどん溢れ出してくる。だがクラスメイトや優馬とは話題を共有できないので、決まって史郎に話を聞いてもらうことになった。


 史郎はというと、桐馬が話した内容について、本を開きもせずに頷き、さらに深い解説をしてくれる。本当に内容が全て頭に入っているのだろう。小説の生き字引きのような老人だった。


 あらゆる方向からストレスを受け続けてきた桐馬にとって、史郎との時間はかけがえのないものだった。史郎は桐馬の言葉がひとしきり尽きるまで相槌を打ち、注釈を加えるようにして自身の解釈について語ってくれる。歳を重ねた老人特有の視点に、桐馬はしばしば舌を巻いた。


「そういえば、最近弟はどうしているのかの? たまには顔を合わせたいと思っているのだが」


「優馬は保育園です。あと一時間くらいで迎えに行くので、今日も話し相手になれるのはその時間までですね」


「弟も連れてこれば良いではないか」


「そういうわけには……保育園が終わったら、家で夕食にする予定なので」


「そうか。……菓子には手を付けていないようだが、好みではなかったかね」


「……いえ、そういうわけでは」


 桐馬は気まずくなり、既に空になっている湯呑を弄んだ。


 優馬はできるだけ連れてこないようにしていた。桐馬と史郎はそれぞれ、話と本の貸し出しという、お互いが求めているものをできるものを提供しあってている。その二つは無償提供できるもので、だからこそ二人の関係は釣り合っていた。だがそこに優馬を連れてくると、史郎が用意してくれるお菓子に際限なく手を付けてしまうのだ。史郎は問題にしないが、一方的に食べ物を受け取ってしまうことが桐馬には後ろめたく思えた。


 それに正直なことを言えば、桐馬にとっても史郎と話をすることは救いになっていた。誰にも憚らずに言葉を発することができることが、こんなにも気を晴らすことができる行為なのだと桐馬は知らなかった。だが、会話は桐馬が史郎に対して提供している、という体になっている。自分が楽しみすぎるのは、なにかが間違っているように思えた。そういった思いもあって、桐馬は古書店にいる間は史郎との会話に集中するようにしていた。もちろん、菓子盆には手を付けない。


 桐馬は一応、史郎に向けての言い訳を用意していた。


「……優馬は人一倍やんちゃな性格です。ここで騒いでいたら店の方にまで響いてしまいますし、迷惑をかけるわけにはいきません」


「どうせ誰も寄り付かないような店だ。儂は好きにさせておいても構わないのじゃが」


「あいつが騒ぎ出したら止まらないですよ。隣人から苦情が飛んでくるレベルなんですから。無視して話を続けていたら、癇癪がエスカレートしますし」


「この間は大人しくしていたように見えたがのう」


「それは、おやつをもらって気分が良かったからで……」


 そのおやつも、できれば食べさせたくないんです。その言葉を飲み込みながら、桐馬は視線を彷徨わせた。史郎は眉根を寄せたが、それ以上問い掛けてこようとはしなかった。


「一本、吸っても構わんかね?」


「断らなくても、好きに吸ってください。気にしませんから」


「子どもの前でそういうわけにもいくまい。──それとも、お主も吸ってみるか?」


「未成年ですよ」


「昔はそんなことを咎めるような大人もいなかったのだがな」


 は、は、と史郎はゆっくりとした笑い方をして、煙を一息に吸う。直後、背を曲げて激しく咳き込んだ。


「だ、大丈夫ですか?」


「ゴホッ、ゴホッ……あ、ああ、大丈夫。いつものことじゃ」


 史郎はどうにか息を整えると、凝りずに煙草に口をつけた。


「どこか悪いんですか?」


「フゥー……まあ、こいつとの付き合いも、本と同じくらいには長いからのう。肺はとっくに真っ黒じゃろうな」


「病院なんかで注意されるでしょう、身体に悪いから煙草はやめてください、とか」


「病院? あれは長生きしたい人間が通うための場所じゃろう」


「長生きは、みんなしたいものじゃないんですか?」


「あいにく、儂には生きていたいと思えるほどの理由も繋がりもない。それにいっそ死んでしまえば、この店や本たちの処遇に頭を悩ませずに済む」


 物憂げな表情で真剣に言う史郎に、桐馬は言い返す言葉を失っていた。


 子供の桐馬にとって、死とは恐怖の対象であり、物語の中にしかないと感じるほどに現実味がない。このままずっと、漠然と生き続けるというイメージしか抱くことできない。だが目の前にいる老人にとっては、死は決して無関係ではなく、どこか遠くに潜んでいるものと断じることはできないのだろう。


 その本質を理解できていない死というものに対して、桐馬は口を噤んだ。それが正しいとは思っていなかったが、なにかを口にしたとして、それが彼の救いになるとは思えなかった。どう言葉を弄そうとも意味などなく、なにも言わないことで間違いを犯さないことだけが、桐馬にできる唯一のことだった。


「……ふむ、余計なことを言ってしまったか」

「いえ……」


 桐馬が黙りこくってしまったことを気にしてか、史郎は暗くなり始めた雰囲気に抗うように、明るい声で思い出したように言った。


「そういえば一つだけ、心残りがあったのう」


 その声こそ明るかったが、史郎の顔はまだしんみりとした表情のままだ。


「心残り?」


「ああ、古い本なのじゃが、昔読んでいたシリーズ本の最終巻だけを読み損ねていてのう。できれば死ぬ前に読んでしまいたいのじゃが、何分昔の本で、特に界隈を騒がせるような傑作だったわけでもない。町の図書館にも一通り目を通したが見つけられなかった。この年になると古本屋を巡るのにも一苦労で、遠くの店に足を伸ばすのもだんだんと億劫になってしまってのう。見つけられないまま、もう二十年以上も経ってしまったわい」


「二十年……」


 二十年といえば、桐馬が生きてきた人生よりも長い時間だ。それだけの間諦めずに探し続けているところを見るに、よっぽどの未練があるようだった。


 叶えてあげたいと思った。その本にかける思いがどれほどのものなのか、桐馬には知りようがない。それでも、桐馬は史郎の目の中に、わずかに願いをかけるような色を読み取ったのだ。


「……もしよかったら、僕が古本屋で探してきましょうか?」


 桐馬がその瞳をまっすぐに見据えると、史郎は一瞬目を瞬いた。だが、直後にその表情は悲しげなものに逆戻りする。


「ありがたい話じゃが、お主も忙しいじゃろう。弟の世話があるのではなかったか?」


「それは……でも」


「うちの店に来る機会も減ってしまうことになるじゃろう。見つかるかも分からないものを探すために、お主のような子供をこき使うというのも気が引ける。──どうせ半分諦めておったのじゃ。気にすることはない」


「……わかりました」


 そこまで言われては、追撃のしようがなかった。望まれていないことをして史郎の願いを叶えたとしても、ただ気まずい思いをさせるだけに終わるだろう。


 ──ただ、その思いを自分が共有することまでは、拒絶されていない。


 だからこそ桐馬は、でも、と言葉を返した。


「史郎さんがそんなに長い間結末を読みたがってる本には興味があるから、タイトルを聞いてもいいですか? このお店にある本なんですよね。僕も読んでみたいです」


「ふ、口が上手いのう」


 よっこらせ、と掛け声とともに立ち上がると、桐馬に目配せをし、史郎は店の方に出ていった。


 史郎はその本が収められている本棚に桐馬を案内すると、珍しく同じ背表紙が並んでいる二冊をするりと抜き出した。上巻、中巻と書かれた本を桐馬に差し出すと、


「儂と同じような歯痒い思いをすることになっても知らんぞ」


 と、自嘲的に笑った。

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