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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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22/30

記憶の欠片:文倉史郎(2)

「すみません、うるさくしてしまって、その上お菓子までいただいてしまって」


「構わんよ。どうせ万年客の入らない道楽みたいな店じゃ。ゆっくりしていくといい」


 史郎が穏やかな笑みを浮かべながら、湯気をあげる柄違いの湯呑みを二つ、コタツの天板に乗せた。そこには既に一つの湯呑があり、中のお茶は冷めてしまっている。史郎は座布団に腰を落ち着けると、自分の湯呑を傾けて一息ついた。


 てっきり騒がしくしていたことをたしなめられるかと思っていたのだが、史郎はむしろ二人を歓迎してくれた。優馬が腹をすかしていると知ると、店舗と接続している和室のリビングに迎え入れ、煎餅や琥珀糖といったラインナップの菓子盆を用意してくれた。一も二もなく飛びついた優馬を止めようとしたのだが、史郎は叱責するでもなく、その無邪気な様子を微笑ましそうに見つめていた。


 優馬が生き生きとしているのは、もちろん滅多に口に入ることのないお菓子が目の前にあることも一因だろうが、その部屋が金澤家の雰囲気と似通っていたのも要因の一つだろう。年季の入った畳敷きに、特有の染み付いた匂い。コタツとテレビの他に家具らしい家具はなく、部屋の隅には本が優馬の身長と同じ高さに達するほどの平積みになっている。背表紙を見るにジャンルに統一感はなく、部屋の主の読書傾向が雑食であることが見て取れる。


 お茶とお菓子を出し終えた史郎は店の方に戻るのかと思ったが、桐馬たちと同じようにコタツに足を突っ込み、テレビの電源を入れた。落語家たちが座布団を奪い合う長寿番組が始まったところだった。優馬は最初こそ見知らぬ人物に顔をこわばらせていたのだが、お菓子をもらったことで態度を翻し、今はいつものようにテレビに釘付けになっている。


 恐らく史郎は、桐馬たちが店に入った時も同じようにくつろいでいたのだろう。店の引き戸には来客を知らせるベルの類もなく、それで桐馬たちにも気が付かなかったのだろう。静かに本を選びたい立ち場の客からすればありがたい配慮かもしれないが、その客が来たことに気付くことが出来ないのでは本末転倒である。


「お店の方はいいんですか?」


「構わんよ。どうせ滅多に来客はないし、老い先短い老人がだらだら続けているだけの店だ。にしても、君のような若者がやってくるのは特に珍しい。昔の本に興味があったのかね?」


「昔の、というか本自体が好きで……買い物帰りだったんですが、たまたま見かけて立ち寄っただけです」


「そうか。近頃の若者は活字離れが著しいようじゃからな、その年齢で活字に触れる楽しさを知っているのであれば、将来は聡い大人になるじゃろうて」


 ふぉっふぉ、と静かに笑う史郎。


「いいお店ですね。本の陳列方法にも独特のこだわりがあるように思いました」


「わかるかね」


 桐馬が素直な感想を言うと、史郎は満足したように口端を釣り上げた。


「この年になると固有名詞を覚えるのが難しくなってのう、文庫や作家でまとめておくと、どの本がどういう内容だったか曖昧になってしまう。あの陳列方法の方が、儂としては何がどこにあるのかを思い出しやすいのじゃよ。読み返したい時にいつでもその本の場所がわからなくては不便じゃろう」


「やっぱり史郎さんは、この店にある本を全部読んでいるんですね」


「読んでいるもなにも、元々は全て儂が趣味で集めたものじゃからな。じゃが人生も残り少なくなって、そろそろまとめて処分せねばとも考えておる。それでああして店に並べておるというわけじゃ。いかんせん、遺産として継いでくれるような家族もおらんもんでの」


「そうなんですか? お知り合いやお子さんなどはいらっしゃらないんですか」


 桐馬が尋ねると、史郎は深く息を吐き、半纏に縫い付けられたポケットから小さな箱を取り出した。史郎が箱の上部を指で叩くと、小さな破れ目から煙草が一本顔を出す。


「吸ってもよいかな?」


「大丈夫です。父もよく吸っていたので慣れています」


「子供が慣れるようなものでもないのだがね」


 口ではそう言いつつも、史郎は遠慮なくタバコを咥え、もう一方の先端に火をつけた。


 せめてもの気遣いなのだろう、そっぽを向いて煙を吐くと、史郎はぽつぽつと語り始めた。


「生来、どうも孤独に付きまとわれる人生でのう。学生の頃にできた数少ない友人からは何十年も前から年賀状も来なくなってしまったし、務めていた仕事を定年で辞めてからはそちらとの縁も切れてしまった。今では一言も口を開かない日も珍しくはない」


 背中を向ける史郎の姿が、桐馬にはとても小さく見えた。


「それに結婚というやつも、儂にはついぞ理解が及ばなくてのう。……いや、結婚以前に、色恋の類に関心が持てず、昔からこうして本ばかり漁っては、周りから変な目で見られておった。儂にとっては生身の人間よりもこちらが関心事だった、というだけのことなのだが──そんな陰気な男を好む物好きな女などいるはずもない」


「……気持ちはわかります」


 桐馬も教室では浮いた存在で、現実から目を背けるために本の世界に逃げこむ。史郎の語る言葉が、桐馬の心にはすっと入り込み、自然と腑に落ちるような感じがした。


 史郎は言葉の隙間で煙を吐き出しつつ続ける。


「今更自分が選んだ人生を後悔しているわけではない。だが事実として、頼れる人間のいない独居老人が完成してしまった。儂が若い頃ならば、近所の人間が何かと手を貸してくれたものだが、今はもうそういう時代でもあるまい」


 やはり桐馬は頷く。ボロアパートの隣人が桐馬たちに寄越してくるのは怒声と壁を殴る音くらいものだ。核家族化、という習いたての言葉が頭に浮かんだ。


「そういう意味では、君のような子供と話をするのは新鮮だ。うちで扱っているような古本を求めてやってくる若者などおらんかったからな」


 史郎は吸い殻を灰皿に放った。


「そういうわけだ。便宜上売り物として扱っているが、欲しいものがあれば持って行ってもらっても構わん。どうせ儂が死ねば、誰にも読まれなくなるような本たちだ」


「……そういうわけには」


「さっき読んでいた本は、最後まで読まねば面白くないと思うがのう?」


 夢中で立ち読みしていたところを見られていたらしい。


 ──史郎さんにも事情があるとはいえ、お金を払わずに持っていくのは気が引ける。


 とはいえ本の続きは気になるし、持ち主の許可も出ている。これが図書館ならば、気兼ねなく借りることができるのに……


「ん、図書館……」


 桐馬は口の中で呟くと、煎餅に手を伸ばしている史郎に向き直った。


「あの、いただいていくことは出来ませんが、借りていってもいいでしょうか?」


「ふむ?」


 史郎が片眉を持ち上げる。


「気になる本を貸していただいて、読み終えたら返しに来ます。図書館みたいな感じで。……あ、もし構わなければ、ですが……」


 途中で、桐馬は早々に吐き出した言葉を後悔し、言い淀んだ。


 ──それでは史郎さんにメリットがないじゃないか。史郎さんの望みは店にある本を減らすことなのに、貸して返すのでは総数が減ることはない。ただ自分の読書欲を満たしたいがための提案だった。


 そんな提案を嬉々としてしてしまったことに、桐馬は顔を赤くしてうつむいた。


 畳の編み目を見つめる桐馬の肩に、シワの多い手が置かれた。反射的に顔を上げると、すぐそばに史郎の顔があった。


「本は貸してあげよう。物語はそれを味わいたいと思っている人間の手元になくては意味がない。──だが代わりに、この老人の頼みも一つ、聞いてはもらえないかね?」


「その、頼みというのは……?」


「簡単な話じゃよ」


 史郎は老眼鏡の向こうの目を、愛しい孫を見るように細めた。


「読み終えたら本を返しにやってくるのじゃろ? だったらその時に、儂と話をしていってはくれんか。読み終えた本についての話でも、学校の話でも、内容はなんでも構わん」


「……それだけでいいんですか?」


 思わぬ提案に、桐馬は思わず目を丸くした。


「儂にとっては一大事じゃ。言ったじゃろう、この年になって知り合いの一人もおらねば、日々の話し相手にも困る始末。それに、菓子も用意しておかねばなるまい。お主の連れはよく食べるようじゃしの」


 菓子盆を見てみれば、盛られていた琥珀糖は姿を消し、煎餅も残り数枚にまで数を減らしていた。


「す、すみません! こら優馬、いくらなんでも食べすぎだ」


「良い良い。──して、どうかね。こんな老人だが、たまにでいい、話し相手になってはもらえんかね?」


 数秒の沈黙。テレビの中では大喜利を見ている観客が笑い声を上げている。笑いを巻き起こした回答の意味がわからなかったのだろう、優馬はきょとんとしている。


「……あの、僕、優馬の世話があるので、たまにしか来られないかもしれません」


「構わんと言っておる」


「本も、読む時間があるかどうかわからなくて……それに、学校では僕に話しかける人なんて誰もいないから、多分面白い話をするのもあまり上手くなくて……」


「面白い話をしたいわけはない。ただなるべく多く、誰かと言葉を交わしていたいだけじゃ」


 史郎の言葉は、まるで本の世界にのめり込む以前、テレビを買ってもらうよりさらに前の、静寂を嫌っていた桐馬と同じだった。


 ──どうせ、あの家にいても退屈なだけだ。


 この孤独な老人には遠く及ばないだろうが、桐馬だって日々、自分の中に言葉を溜め込み続けている。それを吐き出してもいい、というのであれば──


「……わかりました。ありがとうございます。本、貸してください」


 桐馬の言葉に史郎は満足そうに笑うと、残っていた煎餅を取り、大口で齧った。

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