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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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21/30

記憶の欠片:文倉史郎(1)

 金澤桐馬は本が好きだ。


 物語の世界に飛び込んでいる間は、自分を取り巻く惨めな現実から目を背けることができる。ここにはない世界に思いを馳せていると、空っぽの胃や一人ぼっちの部屋に意識が向かなくなる。紙束に印刷された文字を追っているだけで、桐馬は幸せでいられた。


 小学校にあった図書室は、調べ学習のために図鑑や辞書などが本棚の多くを占めており、桐馬が好むような小説は用意が少なかった。読書以外にやることもなかった桐馬はすぐにそれらを読み尽くしてしまい、小学一年生にして早々に図書室を卒業した。


 どこかに読み物はないかと先生に相談すると、図書室と同じような形式で利用でき、小学校の図書室などとは比べ物にならないほどの本があるという施設を教えてくれた。市で運営されている図書館だ。


 田舎の図書館とはいえ、品揃えは一小学校のラインナップを優に凌駕している。分類『文学』の棚だけでも十を超えていた。その棚を埋め尽くすようにびっしりと本が並んでいるのだ。どれを読むのも桐馬の自由。食べ放題のビュッフェにでもやってきたような気分だった。


 桐馬が図書館に入り浸り、利用時間すれすれまでページを捲るような子供になったのは自然な流れだった。家にいても一人でやることもなく、孤独に押しつぶされるだけの日常が待っている。ここではないどこかに桐馬を連れて行ってくれる図書館は、桐馬にとっては遊園地のようなものだった。


 が、小学四年になったところで、そのルーティンは崩れることになる。


 優馬が生活に入り込んできたのだ。まだ一人で立ち上がることすら出来ない乳児の世話に、桐馬は奔走することになる。時と場所と問わずに泣き声を響かせる優馬を図書館に連れていくわけにもいかず、桐馬の読書ライフは強制的に終了させられたかに思えた。


 そんな時に出会ったのが、一人の老父──文倉が中道でひっそりと営む、小さな古書店である。




 ある日の買い物帰りのこと。


 桐馬は片手に優馬の手を握り、もう片手には買い物袋を提げて歩いていた。仕事帰りの大人たちが街に出てくるにはやや早い時間で、あたりが暗くなるまでにはもう少し時間がある。買い物通りを歩く人影はまばらだ。


 いつも通っている道なので目新しさもなく、桐馬はどこを見るでもなくぼんやりと景色を眺めていた。徐々に明かりが灯り始める町並みよりもむしろ、優馬が何かの拍子に突然駆け出すのではないか、と警戒していた。まだ小さな優馬は何に興味を惹かれるか予想がつかず、行動が読めない。ひと時の油断も命取りになる、と桐馬は常に気を張るようにしている。


 そんな桐馬の目に古書店が映ったのは、本当に偶然だった。


 いつもは入らない細い枝道。店舗を営む人々しか利用しないような狭い通りにあった看板に、ちょうど明かりが灯ったのだ。


 文倉古書店。錆びきった白い看板に黒いゴシック体でそう書かれている。まるで人を寄せ付ける気のないような出で立ちに、桐馬は逆に目を引かれた。


「……ごめん、ちょっと寄り道してもいい?」


「えー、ゆーまおなかすいた」


「少しだけだから」


 すっかり消沈してしまっていた読書熱が、わずかに温度を取り戻した気がした。優馬は脈絡なく泣き出すことこそなくなったものの、癇癪を起こす癖はまだ治っていない。優馬は桐馬とは違い、本に特別興味があるというわけでもなく、むしろ家でテレビを見ている方が好きだ。年相応の絵本を借りてきて与えてみたこともあるが、一ページもめくらないまま返却することになった。そのくせに桐馬が図書館に出かけようとすると、スーパーでお菓子を買ってもらうチャンスだとばかりに、自分も連れて行けと騒ぎ出す。そんな毎日が続いていて、相変わらず図書館からは足が遠のいてしまっていた。


 ──もし優馬が騒ぎ出したら、すぐに出よう。


 そう心に決めて弟の手を引き、桐馬は今まで見向きもしてこなかったその店に入ってみることにした。


 立て付けの悪い横開きのドアを開けると、紙とインクの匂いが一息に押し寄せてきた。来客を迎える声こそなかったが、看板に光が灯った以上、営業中ではあると思われた。


 看板と同じで、店内も全体的に古びた印象だった。古書店ということで古い本ばかりが並んでいることも理由の一つではあるのだろうが、時々点滅を繰り返す蛍光灯や、床に染み付いた積年の汚れなども、そういった雰囲気を作り出す一因になっていた。壁に備え付けられたアナログ時計は機能性重視で、白黒の文字盤と針以外に特筆するべき特徴はない。図書館に勝てるほどではないが、スペースに対して本棚が限界まで詰め込まれており、冊数は膨大だ。タイトルを流し見てみると、並んでいるのは小説ばかりのようだった。図書館では同じ本が複数蔵書されていることがある事も考えると、小説に限れば案外引けを取らないかもしれない。


 本の並びはめちゃくちゃで、隣り合う本の装丁やサイズが異なっているなど当たり前。文庫も作者もばらばらの陳列は、客のことを考えず闇雲に並んでいるように思える。閑古鳥が鳴いている理由に察しがついたのだが、すぐにその考察は翻されることになる。


 本棚の同じ列の中に、何冊か内容を知っている本を見つけた。背表紙を見れば読んだ当時のことをなんとなく思い返すことができる。ジャンルこそ異なっているものの、記憶の中にある感覚に共通点があるように思えた。一見すると規則性のない並び方に見えて、実はそうではない。読んでいて感じる雰囲気や、読者に訪れる読後感に応じて並べられているのだ。


 桐馬は読んでいてスカッとする物語が好きだ。全ての伏線を回収して芸術的なエンドを迎えたり、胸がすくような感動の結末にたどり着いたり。ミステリーならば非道な犯罪を犯した人物が因果応報的に無惨な目に遭ったりする場面には釘付けになってしまい、そのシーンだけを何度も読み返すことがある。この古書店では、そういった読後感を強く意識した陳列が為されているのだ。


 こんな途方もないことを実現するには、全ての本をじっくりと読み込む必要がある。この古書店を営む店主は、さぞ気骨のある本好きなのだろう。


 桐馬は棚の中から特にオチが好みだった一冊を見つけ出し、そのすぐ隣にある本を引き出した。


「優馬、少しだけ待ってて」


 返事を待たずに表紙をめくる。表紙だけでなく、内側まで日に焼けているほどの年季の入りようだったが、本の良いところは新しかろうと古かろうと、虫食いにでもなっていない限り内容に優劣はないところである。


 開始数ページで、桐馬の気分は一気に前のめりになった。筆者の想像の世界がとてつもない重力を以て読者を引き込んで来る。今まで鉄の鎖によって抑圧されていたものが解放されたかのように、桐馬の手は止まらなかった。文字を追いかける目が、ページを捲る手が止まらない。


 あと1ページだけ、この章を読み終わるまで。頭の片隅でそんな言い訳をして、服の裾を引く優馬を意図的に意識外へと追い込んだ。


 だが、そんなことを続けていれば、優馬がどう反応するかは目に見えている。


「うわああああ! にーちゃんがむしする! もうかえるー!」


「わっ、ご、ごめん」


 案の定、優馬は声を上げて泣き出した。気づけば桐馬は、ハードカバー本の三割ほどを消化してしまっていた。壁掛けの時計を見れば、店を訪れてから三十分が経過しようとしている。いつもなら夕食を食べているような時間だ。優馬が駄々をこね始めるのも無理はない。


 他にお客さんの姿は見えず、店主も未だに顔を出してはこないようだった。とはいえ、本がある静謐とした空間で騒ぎを起こしてしまったことに、桐馬は顔が熱くなった。元から優馬が騒ぎ出したら帰ろうと決めていたのだ。読んでいた本の内容はキリがいいとは言えなかったが、こればかりは仕方がない。買って帰ることができればいいのだが、古本に貼られた値札でも桐馬の財布には大打撃になってしまうのだ。名残惜しい思いをしながらも、やむなく桐馬は立ち読みしていた本を閉じて本棚に戻した。


「ごめん優馬、すぐに帰ってご飯にしよう」


「ん」


 涙を引っ込めた優馬と手を繋ぎ、店を出ようとしたその時だった。


「すまんすまん、客が来ておったのか。すっかり裏で本に集中しておったわ」


 おっとりとしたしゃがれ声に、桐馬は足を止めて振り返った。


 皺を刻んだ老齢な肌に、色の抜けた白髪。分厚い老眼鏡の向こうにある目は瞳が見えないほどに細い。タンクトップに半纏を羽織ったちぐはぐな様子で、腰は“く“の字に曲がっている。


 老人は騒がしくしてしまったことを責めるでもなく、おっとりとした声色で桐馬たちを迎えた。


「いらっしゃい、客が来るのは一週間ぶりだ。ゆっくりしていくといい」


 それが、古書店の主人、文倉史郎との出会いだった。

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