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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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20/30

残り4メートル

「何度目かのおかえり。さて、そろそろ分かってきたんじゃないかな?」


 悪魔が口の端を吊り上げている。いつの間にかまた、現実で転落中の自分に戻っていた。


 いよいよアスファルトが近い。時間感覚が曖昧で分かりづらいが、重力に引っ張られ続ける桐馬の身体は加速し続けているはずで、あとコンマ五秒もせずに桐馬は地面に叩きつけられることが決まっている。


 今更抵抗のしようもない。もう死を回避するために使える時間は失われてしまった。ろくに体勢を変えることすらできていない。桐馬の身体は頭からの着地を余儀なくされる。


「分かってきたって……何がだ?」


 疑問を疑問で返すな。先にそう考えたのは桐馬の方だったはずだが、悪魔の質問の意図するところが本当にわからず、そうせざるを得なかった。


 三日月の形になっていた悪魔の口元は一転、真一文字に結ばれた。


「ふむ……おかしいね、僕に分かっていることは桐馬、君も分かっているはずなんだけど」


「お前が何を言ってるのかさっぱりわからん」


 今回の記憶を見て桐馬に感じられたのは、血は争えない、同じ穴のムジナ、因果応報──そういった自嘲的な感情だった。


 桐馬には弟がいたが、桐馬が目を離したせいで自宅のベランダから転落死している。そんな桐馬も学校の屋上から突き落され、同じ運命を辿っている。一部始終を見ている神がいるとしたら、自業自得だと鼻で笑われても仕方ないくらいだ。あの時の優馬も、こうして迫りくる地面を目の当たりにしたのだろうか。


 いくら優馬の自分勝手な態度には手を焼いていたとはいえ、死んでしまえと思うほど憎んでいたわけではなかった。母があの調子だった以上、優馬の健やかな成長を世界で一番願っていたのは、間違いなく桐馬だろう。


「俺がここで死ぬのが流れ的に正しいって話なら、言われなくても痛いほど分かってるがな。これまで見た記憶を総合すれば誰にでも分かる。俺はしょうもないやつだった。同級生も、恋人も、家族すら大切にできないようなやつだった。優馬が地獄の底から俺の足を引っ張ってるようなもんだ。むしろこれで生き残ったほうが寝覚めが悪いだろ」


「そういうことじゃないんだけどなあ。自分のことには盲目的だってよく言うけど、ここまで分かっていないと鏡でも持ってきて見せてやりたくなるね」


 悪魔は初めて不機嫌そうな態度を見せた。


「記憶の中の君と、今の君。態度に天と地ほどの差があるとは思わないかい? 君は今の記憶の終わりに何を考えていたのか。そしてここにいる僕の存在。空想の物語が大好きな僕たちであれば、思い当たってもよさそうなものだけれどね」


「僕『たち』? お前も本が好きだとは意外だな。悪魔ってのはもっと、人の不幸や絶叫なんかを求めて生きているんだと思っていた。俺の絶望を食らい尽くしに来たんだろ?」


「だから違うって。そもそも僕は悪魔なんかじゃない、君にとっては悪魔に近い存在だ、という表現をしただけだ。例え話だよ。答えはもっとちゃんと現実的だ。ひとつひとつ要素を分解していけばわかるはずだよ。ここが走馬灯だという結論に自力でたどり着いたみたいに」


 また、悪魔が授業でもするみたいに語りかけてくる。


 要素の分解。悪魔について知っていることがあるとすれば、以下が挙げられる。


 悪魔は桐馬の脳が加速して認識しているこの世界でも、桐馬と等速で会話ができている。桐馬が言葉を発さずとも心を読んで会話を成立させ、桐馬とは知識を共有している。悪魔には実体がなく触れることが出来ない。


 加えて、たった今見た記憶によれば、優馬が事故死した後の桐馬は相反する思いに両腕を引かれ、二つの間で感情がぐらぐらと揺れ動いていた。絶望と開放感。理性と感情。最終的には抑制の効かなくなった感情が、桐馬の価値観をすべて転覆させた。


 その日から、桐馬の行動原理は一変した。初めに見た記憶を思い出すと、それがまったくのデタラメではないことに気付く。桐馬の高校生活はお世辞にも模範的とは言えない。その根底にあるのは、優馬と同じくやりたいように、好き勝手に生きるという信条だ。


「──そういうことか」


 全てを説明できる要素が、一つだけある。桐馬が思い至った結論が正しければ、悪魔の正体にも説明がつく。


 こいつは悪魔なんかじゃない。絶望を食らうというよりも、むしろ──


「お前は──俺があの時感じた『絶望』そのものってわけか」


「正解」


 悪魔は再びにやりとした笑いを浮かべ、ゆっくりと拍手をした。


 気づいた瞬間、悪魔の顔にかかっていたもやのようなものが一気に晴れた。桐馬が推測した通り、そこには鏡写しにしたかのように自身と瓜二つの顔がある。──いや、今の桐馬に比べればやや幼い顔立ちだ。髪もまだ黒一色で、着ている制服はサイズが足りずにくるぶしがはみ出している。


「僕は君が元々持っていた主人格──言わば、金澤優馬が死ぬ前までの金澤桐馬だ。そして君は優馬が死んだ時に湧き出てきた開放感をベースに作られた、新しい人格ということになる。つまり君は二重人格なんだ。まあ正確には、僕という人格は君の底に沈んでしまって、めったに浮かび上がってこられることはないんだけどね」


 悪魔の正体は自分自身。優馬が死んだ時に桐馬の心の底に沈没していった本来の人格が、悪魔の正体。


 判明した真実に面食らいながらも、桐馬は空元気で笑ってみせた。


「はっ、仮にそうだと認めたとして、今更そんなやつが俺に何の用がある? 自分の身体が死に際になったことに文句でもあるのか? だとしたら俺に身体を明け渡したお前が悪い。それとも最期に言いたいことを言いに浮かび上がってきたってのか?」


「いいや。僕はずっと、君の心の底で君の振る舞いを見てきた。見るに耐えないひどいものだったね。君が生まれてから二年と経っていないが、優馬よりも君のほうがよっぽどわがままで、自分勝手で、人にかけた迷惑の数も桁違い。そんなやつが自分の顔をして、自分と同じ身体で生きているんだ。これ以上の同族嫌悪があるかい? ……僕はね、君の生き方が間違っていたことを証明したくなったんだ」


「んなことは最初の記憶を見た時点でわかりきってた話だ。今更説教されるまでもねえよ」


 生き方が間違っていたという事実は、悪魔に言われるまでもなく、記憶を巡った桐馬自身がいちばん理解していた。そもそも桐馬が突き落とされたのは、いじめ相手を過剰に追い詰めてしまった桐馬の行いが原因だ。もし普通に学校生活を送っていれば、こんなことにはなっていなかった。


 自由に生きてみたい。今の桐馬を形作る原点は変わっていない。やりたいことを全てやらなければ気が済まない。抑圧された感情が起こした爆発的な衝動に従わずにはいられなかった。もしその衝動すらも押し殺してしまっていたら、桐馬は未だに骨壺の前から動けずにいたかもしれない。ある種の自己防衛みたいなものだ。それに今更自分の間違いを自覚できたとしても、時間を巻き戻してやり直すことは出来ない。


 悪魔は桐馬の空元気に気付いているのか、腹の底からこみ上げる笑いを噛み殺している。


「君の生き方が間違っていたことを証明する。それは確かに僕の目的の原点ではあるけれど、それだけで僕の役割が済むのだったら、君が最初の記憶を見た時点で僕は消えている。でも僕は、君に押し付けられるべき絶望を全部受け止めて、最後の一瞬までそれを堪能してもらいたいんだよ。──君にはあと一つ、見るべき記憶が残っている」


「そうかい。だが本当にお前が俺なんだとしたら、そんな話を聞いて素直に記憶を見てやるほど俺が素直じゃない、ってのは分かってんだろ。どうせ死ぬってのに、これから胸糞悪いものを見せつけられると聞かされて、素直に目を開けてるやつがどこにいる? そもそもお前には俺が見る記憶の選択権も強制力もない。このまま俺の脳みそが潰れりゃ、それで終わる話だ」


 悪魔の言葉を唾棄する。しかし悪魔は余裕の笑みを崩そうとはしない。


「ああ、一つ嘘をついていたのを忘れていたよ。嘘というか、まだ言っていなかったことがある、が正しいか」


 ぐにゃり。何度目かになる景色の歪みが訪れる。だが今までとは少し様子が違った。今度は桐馬ではなく、悪魔を中心にして、世界がマーブル模様に作り変えられていく。


「あ?」


 呆けた声が出た。悪魔の口の角度が最大限に持ち上がる。


「僕は君の記憶に介入できない。でも、僕が記憶を見るのに巻き込むことはできるんだ。なにせ、僕は君で、僕だって君と同じく、今まさに死に際に立たされているんだからね」


 世界はまた形を変える。悪魔に引きずり込まれるようにして、桐馬はその記憶へと飛び込むことになった。

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