饒舌な悪魔
︎ ︎ ︎ ︎時間が止まっていた。
比喩などではなく、少なくとも金澤桐馬が知覚する中では、確かに時が止まっていた。そう断言できるのは、桐馬自身の身体が宙に投げ出されたまま、ピタリと静止していたからだった。身じろぎしようとしたが、手足も固まって言うことを聞かない。
頭も動かすことはできないが、視界にあるものは認識することができた。下を見れば空は夕焼けのオレンジ色が東の空から徐々に夜の闇に呑まれ始めており、上を見れば無骨なコンクリートの地面がそこにある。その中間には見慣れた大秋高校の校舎が立っている。
どうやら桐馬の身体は自由落下しているらしい。今まさに、学校の屋上から転落しようとしている真っ最中だった。
となればなおさらに状況が分からない。生身の人間が空を飛べる道理などなく、桐馬が空中に留まっている理由は不明なままだ。
改めて地面を見てみるが、落下していく先に人影はなく、誰かの助けは得られそうにない。
桐馬の身体はうつ伏せ気味に上下が反転していて、無意識に宙を泳ぐように手足をばたつかせているところで止まっていた。腰でも悪くしそうな体勢だが、体勢を変えようにも身体が一切動かない。
とにかく何か掴まれるものを探してみる。しかし手の届く範囲に足場になりそうなものは見つからなかった。眼前にある校舎には触れることすらできそうにない。そもそも壁面には凹凸らしい凹凸もなく、仮に手が届いたとしても掴まることはできそうになかった。
臓器がふわりと浮いているような強烈な浮遊感に襲われながら、桐馬は記憶を探った。どうしてこんな状況になったのか。何かの拍子に足を踏み外してしまったのか、それとも誰かに突き落とされたのか。
だが、どうも記憶は曖昧でぼんやりとしていた。転落した理由どころか、なぜ自分がこんな時間に屋上にいたのかすら思い出すことができない。ただ一つ心に残っていたのは、胸にぽっかりと穴が空いたような、心地の悪い寂寥感だけだった。
「……つか、どうしたらいいんだよこの状況は。なんの時間だ?」
心の中で呟くが、状況はなにも変わらない。重力が正しくはたらくことはなく、かと言ってなにか好転する要素があるわけでもなく、桐馬はただ困惑し、流れているのかも分からない時を消化することしかできなかった。
一分、十分、三十分と、体感する時間だけが過ぎていく。それだけあれば夜の帷が空の侵食を進めそうなものだが、そこには変わらないオレンジと紫色のせめぎあいがあるだけだ。止まってるのは桐馬の時間だけではなく、世界そのものが硬直してしまっているのだ。
音も臭いもしない。落下に伴う風切音がやけに耳に残っている気がしたが、今はまったくの無音だった。
──それは突然のことだった。
視界の真ん中やや上方に、人影があった。いつから存在していたのか、桐馬にはわからなかった。見えている景色に意識を向け、周囲を探っていたときには存在していなかったはずだ。
その人影は桐馬と同じように、重力を無視して空中にとどまっていた。だがその態度はまったく違う。まるで浮遊していることが当たり前であるかのように、動揺する素振りを少しも見せずにいる。
……いや、こいつも自分と同じで、身動きが取れないのか。もし本当に時が止まっているのだとしたら、その方が説明がつく。突然現れた理屈は不明なままだが、おかれている状況は自分と同じなのではないか。
そんな推測は、すぐに破られた。
「やあ」
そいつはさも当たり前のように片手を上げた。挨拶のつもりらしい。顔は桐馬の体勢からでは見えない。だが、相手はこっちをじろじろと見ているという直感があった。
──誰だ、こいつは?
「誰だと思うかい?」
──質問を質問で返すな。
「最近の人は定型文のようにそう言うけれど、君はどうしてそれがいけないのか理解したうえで言っているのかい?」
──うるせえな。
「感情的な論点ずらしだね」
いきなり現れて、やけに突っかかってくるやつだな。
というか、こいつはなんで俺のモノローグに反応してる? どうして止まった世界で片手を上げ、言葉を発することができている?
──あれか? 死に際に現れる非現実的な存在なのか? 天使とか悪魔とか、俺を死後の世界に導く存在なのだろうか?
「とりあえずはそういう認識でも構わないよ。どちらかと言えば悪魔のほうが近いかな」
「悪魔ねえ……」
それにしては、ずいぶんと人間に近い姿形をしているものだ。変わらず首から上は見えないが、見たところ身長や体型は桐馬と変わらない。一般的なイメージとしてイラストなどに描かれるような黒い羽根や角も生えているわけでもなければ、それらしい武器を持っているわけでもない。
聞き覚えのない声だった。どこか情けないような、へにゃへにゃとした声質。口調は遠回しだが明確な悪意を感じるわけでもなく、なんだかんだで桐馬の問い掛けに応じる意思を見せている。いきなり危害を加えてくるというつもりでもないようだ。
「おい悪魔、お前はこの状況がなんなのかわかるのか?」
「わかるとも。というか、それは君にだってわかっていることだと思うけどね」
「なに……?」
「状況を整理して、順に挙げていってみなよ。そうすれば君も答えにたどり着けるはずだ」
状況の整理。そんなことは悪魔が現れる前からやっていた。なにせ他にできることはない。
桐馬は指を折る──ことはできないので、頭の中で箇条書きにするようにして、現在わかっている事柄を改めて言葉にしていった。
「時刻は夕方、場所は大秋高校。俺は屋上から落ちてる最中。身体は動かない。このままだと地面に叩きつけられて死ぬ。が、なぜか世界の時間が止まって空中にいる」
「うん、その通りだ。情報はそれだけで十分。そこから紐解いて考えていけば、この状況の理由を君自身で説明できるはずだ」
悪魔を名乗るそいつは、授業中に問題の答えが分からない生徒を少しずつ正解へと導く教師のように、腕組みをして桐馬に考えることを促してくる。他にやることもないし、悪魔は自分から答えを開示する気はないらしいので、桐馬は思考を前に進めることにした。
──このままでは、俺の運命は落下死できまりだ。つまり今は死に際ということになる。死に際といえば、走馬灯を見るという話をよく聞く。今まで生きてきた時間の中で蓄えた記憶が、一瞬のうちに次々とフラッシュバックするという現象だ。だが走馬灯とはどうやら、単に思い出を振り返っているわけではなく、記憶の中から現状を打開するための知恵を引っ張り出すために、脳が限界に近い速度で駆動しているがゆえに起こる現象らしい。そんな話をどこかで聞いたことがある。
──つまり、答えは走馬灯か。
「正解。言わば、脳における火事場の馬鹿力みたいなものだね。君の脳は今、最後の力を振り絞って必死に思考を巡らせている。屋上から転落し、掴まれるような場所もなく、落下は止まらない。そんな絶望的な状況をひっくり返すためのキーを探し出すために与えられた時間。それが、今だ」
悪魔は饒舌に、得意げに解説している。
「ちなみに、君が今走馬灯という答えにたどり着いたこともまた、走馬灯による賜物だ。状況を理解するために君は過去の断片的な記憶を掘り起こして思考した。そうして正しい答えにたどり着くことができた。ここから生き残る方法を探るには、まず状況を正しく理解しないといけないからね」
「……つまり俺は、今から記憶を遡って生き残る方法を探し出すってことか? 地面に叩きつけられるまでの時間で頭を回して、どうにか死を回避しろって? このどうしようもなさそうな状態からなにをひっくり返せるってんだ? 記憶の中からパラシュートでも持ち出してこられるんなら、この世から転落死って概念はなくなってる」
「さあ? それはやってみなくちゃわからない。ここから先は君次第だ」
「第一、お前は悪魔なんだろ? だったら俺が死んだほうが都合がいいんじゃないのか。デケェ鎌で魂を狩るとか、俺の首根っこを掴んで地獄まで引きずってくとか、そういう類の存在だろ、お前は」
「想像力がたくましくて素晴らしいね。その調子だ」
悪魔は二度、三度と拍手をした。どうやら悪魔は、この状況でも好き勝手に動き回れるらしかった。
最期に悪魔が大きく手を叩いたが、それは桐馬の耳には仕切り直しの手拍子のように聞こえた。
「さて、時間は限られている。校舎の高さは約14メートル、空気抵抗を考えないなら。地面に到達するまでの時間はおおよそ1.7秒といったところだ。それまでに状況を覆せなければ、君は時速60キロメートルで地面に叩きつけられ、全身が砕けて死ぬ。──そろそろいってらっしゃいだ、桐馬。君自身の記憶の旅へ」
悪魔がそう告げると、周囲の景色が突然、ぐにゃりと歪んだ。空と地面の境目がなくなり、じわりじわりと色が溶けだしていく。
絵の具をぐるぐるとかき混ぜるようにして、世界という絵は乱雑に、不規則にかき乱され、別の光景へと描き換えられていく。そんな世界の中に、桐馬はわけも分からぬまま身を投じることとなった。




