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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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18/30

記憶の欠片:金澤優馬(5)

 連休も終盤に差し掛かったところで、ようやく優馬を受け入れてくれる保育園が見つかった。母が役所に直談判してどうにか枠を見繕ってもらったらしい。前に通っていたところに比べると日曜保育をやっておらず、家からの距離も遠い。他にも劣る部分があったが、背に腹は代えられなかった。


 優馬が盗みをはたらいた相手は、ついぞ見つからなかった。


 相手からの告発があればすぐに応じるつもりで、桐馬はあえて利用するスーパーを変えなかった。レジ付近で起こった盗難なので、まず間違いなくカメラには映っていただろう。相手がうっかり買い忘れたと勘違いしたか、そもそも気にも留めていないか。どちらにしても、桐馬は寝ても覚めても宙吊りにされているような気分で、片時も心を落ち着けることが出来ずにいた。


 優馬の罪が表沙汰にならないことに、桐馬は逆に心を苛まれた。次に買い物に行った時に指摘を受けるかもしれない。子供がやったこととは言え泥棒には変わりないのだ。保育園の時のように親を呼べと言われる可能性を考え、桐馬は母の携帯番号を控えていた。


 だがいつまで経っても審判の日は訪れない。一週間を過ぎても店員からはなんの沙汰もなく、もう事件は闇の中に葬られたのだろう、と桐馬はなんとなく予想していた。それでも罪悪感が薄れることはなかったし、むしろ早く店の裏に連れて行ってくれと思わずにはいられなかった。


 しかしあれ以来進展したこともあった。優馬がわがままを言う回数が極端に減ったのだ。今まで口頭でしか注意していなかった桐馬が、容赦のない平手打ちを食らわせたのが相当響いたらしい。実際、頬を張られた優馬はお得意の大号泣には移行せず、呆然とした顔で桐馬を見つめていた。優馬なりに思うところがあったのかもしれない。


 新しい保育園でも、職員室に呼び出されるレベルの問題を起こすことはなかった。家では桐馬との会話こそ減ったが、桐馬としては自分の時間が増えて本の消化ペースが上がったし、それが悪いこととは思わなかった。


 そんな折、いつものように美玖と下校デートをしていた時に、美玖から提案を受けた。


「クリスマスイブ、一緒に出かけない?」


 前までの桐馬ならば、一言目で謝罪していたはずだった。今年のクリスマスイブは土曜日。新しい保育園は休日保育を実施していないので、朝から晩まで優馬の面倒を見なくてはならない。


 だが最近の優馬はすっかり牙が抜けている。一日くらいなら、家に一人で残しておいても問題ないのではないか。そんな邪な考えが頭をよぎった。


 よぎったからには思考を止められなかった。母はどうせ帰ってこないので、桐馬が一日だけ世話をサボタージュしたとしても知られることはない。そもそも母だってろくに優馬の世話をしていないのだ。一日くらい家を空けたところで責められるいわれはない。


 優馬は1人で食事を用意できるし、いつも家で一緒にいる時は、トイレ以外でテレビの前を離れることはない。そのトイレだって、1人でできるようになってかなりの時間が経過している。便器に落ちるような事故が起こることもないだろう。


 今の優馬ならば、どこにも行かず一日家にいて、と聞かせておけば、素直に言いつけを守ることだろう。守ることが出来たらおやつを買ってあげる、とでも約束してやれば、信用できる要素をさらに増やすことができる。


「わかっ……た。まあ……なんとかするよ」


 思考の結果、桐馬は美玖との予定を優先することを決断した。




 その日優馬を保育園に迎えに行き、優馬の手を引いて家に帰ってから、面と向かって話をした。ビンタを食らわせて以来では、正面切って会話をしたのは初めてのことかもしれなかった。


「今度の土曜、かの──友達と、遊びに行きたいんだけど、1人で留守番できそう?」


「ん。だいじょぶ」


 優馬は素直に首肯してみせた。


「朝から家にいないと思う。ご飯はいつもと同じだから、自分でできるよね」


「できる」


「夜には帰ってくるつもり。優馬の好きなおやつ買ってくるから。もしいい子にしていられたら、優馬にあげる」


 おやつという単語にぴくりと反応した優馬だったが、取り立てて騒ぐようなことはなかった。てっきりクリスマスデートが実現した時の美玖並みに舞い踊るかと思ったのだがそんなこともなく、ただ鼻の穴を大きくしながら頷いていた。一時期に比べればずいぶん大人しくなったものだ。


 改めて生活態度を観察してみても、今の優馬ならば一人で留守番をさせていても問題なさそうに思えた。第一、優馬は以前から勝手に一人で家を出たりするような様子はなかったのだ。優馬は外で遊ぶよりもテレビを見ているのが好きなようだった。インドア気質なところは桐馬と似ていたが、単に外で遊べるようなボールなどの遊び道具が金澤家になかったことが、毎日飽きずに引きこもっている理由だったのかもしれない。


「いい子だね。今日のご飯は、特別にサンマの缶詰を開けようか」


「ん」


 金澤家の食卓にタンパク質が並ぶのは本当に久しぶりだった。だが優馬は缶詰にも大きな反応を見せることはなく、ただいつも通り黙々と、サンマの蒲焼きを口に運んでいた。




「それじゃ、行ってくるから。いい子にしてるんだよ。おやつ買って帰ってくるからね」


「ん。にーちゃん、いってらっしゃい」


 当日になって桐馬が家を出るときにも、優馬は変わった様子を見せることはなかった。


 念のため、優馬にはアパートのすぐ外にある公衆電話の使い方を教え、数枚の小銭と、美玖の電話番号を記したメモを残しておいた。美玖にも了承を取っており、なにか問題が起きたら彼女の携帯に電話が来ることになっている。他にもガスの元栓を締めたり、窓の鍵を確認したり、優馬が一人でつけられない電灯を昼のうちからあらかじめつけておいたりと、考えうる限りの対策と準備を怠らなかったつもりだ。


 そのおかげもあり、デートは順調に進んだ。優馬のことを完全に忘れることは出来なかったが、それでも美玖と過ごした一日はかけがえのないものだった。誇張を抜きにして、桐馬が生きてきた中で最も楽しかった一日を圧倒的に更新することとなった。イレギュラーな展開とはいえお返しのプレゼントを受け取ってもらうことも出来たし、桐馬は心の底から満足していた。


 美玖と夕食のイタリアンを食べていたときばかりは、さすがに罪悪感に押しつぶされそうになった。同じ時間、家では弟が冷たいご飯に瓶詰のなめたけをかけ、一人でもそもそと食べているはずだ。心が傷まないわけがなかった。初めて訪れたイタリアンの緊張と優馬への後ろめたさに挟まれて心が押しつぶされそうになり、パスタを食べてもピザを食べても、温かいプラスチックを口に運んでいるようにしか感じられなかった。美味しいね、と笑う美玖との雰囲気を壊すわけにもいかず、どうにか笑顔を繕って頷いたが、内心は今にも胃の中のものをぶちまけてしまいたいという衝動に駆られていた。


 とはいえ気が滅入りそうだったのは食事の時間くらいのもので、この日の桐馬は、優馬に対して自分ができる万全を期したと確信していた。


 電話もかかってくることはなく、優馬は一人でもいつも通りに過ごしているのだろうと思い込んでいた。


 今思えば、優馬の大人しさは嵐の前の静けさでしかなく──


 ──桐馬の確信は、過信でしかなかったのだ。




 美玖と別れ、桐馬は優馬との約束通り、スーパーでお菓子を買ってから帰路についた。優馬の好きなヒーローとコラボしているグミを選んだ。ランダムでシールが一枚入っているらしく、優馬の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。


 いつも美玖と別れるマンションに差し掛かったところで、桐馬は違和感を抱いた。妙に辺りが騒がしいのだ。


 クリスマスイブの寒い夜にもかかわらず、周辺住民はこぞって上着を着込んで路地に集い、道路を埋め尽くしている。彼らが囲んでいるのはチキンやケーキではなく、桐馬たちが暮らしているボロアパートだった。


 救急車のサイレンが聞こえる。住宅街に反射する赤いランプが見える。


 嫌な予感がした。息が止まりそうだった。背筋を汗が伝い、通った場所から肌が冷え切っていった。

 夢中で群衆を掻き分けて前に進んだ。彼らは目にしたものに夢中だったようで、子供が足元をすり抜けていくことなど気にもとめていなかった。


 最前列には立入禁止のテープが貼られていた。ドラマなどで見たことがある黄色と黒のテープだ。区切られた空間の中には、救急車とパトカーが停まっている。ちょうど後部のドアを大開きにした救急車の中に、担架が運び込まれていくところだった。


 担架に載せられている人物の顔を見るや、桐馬は思わず叫んでいた。


「──優馬ッ!」


 規制のテープをくぐって駆け出していた。五年もの間ほとんどの時間を共にしてきた兄弟の顔を見間違えるわけがなかった。──たとえ、それが人間のものとは思えないほどにひしゃげていたとしても。


「君、近づいちゃいけないよ!」


 桐馬に気づいた警官の一人に行く手を阻まれ、桐馬の身体は抱きとめられた。大人の力は桐馬とは桁違いで、まるで壁に向かって突進しているような徒労感があった。


「やめっ、離せ! 優馬、優馬がぁっ!」


「あの子の知り合いか? 落ち着いて、どういう関係か言える?」


「落ち着いてられるかっ! 優馬は僕の弟だっ!」


 その場にいた全ての人間が揃って息を呑み、ざわり、と不穏な音がしたような気がした。


「いいか、落ち着いて聞いてくれ」


 警官が被っているつば付きの帽子が、彼の目元に暗い影を落としている。


 桐馬を抱きとめた警官は、かつて桐馬がポテトチップスを盗んだ優馬にしたように、桐馬の両肩を正面から掴んで、静かに告げた。


「君の弟は二階から転落して頭と胸を強く打った。今から病院に搬送するが──心肺が停止している状態だ」

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