記憶の欠片:金澤優馬(4)
優馬が保育園を退園することになった。
詳しいことは桐馬の耳には届かなかったが、互いの母親を交えた話し合いの場が設けられたのは事実らしい。一連の件に関して、あの母親が桐馬の書いた手紙を読み、事態を把握して謝罪と賠償をするべく登園した、という部分が、桐馬には一番現実離れしているように思えた。
分別もつかない四歳児どうしがおもちゃを巡って争うなど、どこの園でも毎日のように起きていそうなありふれた話で、今回の一度だけで退園などという処分が下されるはずがなかった。普段から優馬の行いに目をつけられていたか、話し合いの最中に優馬が決定的な何かをしでかしたのか、あるいはその両方だろうと想像がついた。
図書館に備え付けられたパソコンを利用して調べたところによると、園児の問題行動を理由に園側が一方的に退園を告げることは禁止されているらしい。だがそんなルールはハリボテに過ぎず、度重なる問題行動に対して現場では、親の教育不足や責任を問題に挙げて、婉曲的な勧告を通して自主的な退園を迫る、という流れが体系化しているようだった。
どちらにせよ、優馬の起こした癇癪が発端である。立ち場が弱いのはこちら側であり、保育園からすれば、危険な行動をとる可能性を孕んだ優馬から他の園児を守る、という大義名分がある状態なのだ。退園が決定した早さからも母が食い下がったとは考えにくく、流石に大人が顔を出さねば、という薄っぺらい責任感の裏に、これ以上の面倒事を避けたかったのだろうという気怠げな意図が垣間見えた。
優馬を引き取ってくれる都合の良い保育園はなかなか見つからなかった。
少子化で保育園が減っていることに加え、優馬の情報が出回っているらしかった。狭い田舎町だ。子供がいる親全員が優馬のことを知るまでに、大した時間はかからなかったろう。
世間ではちょうどシルバーウィークというやつが来ていた。祝日が続いている関係で学校は休みになる。保育園に行くこともなくなった優馬も、一日を家の中で過ごしていた。相変わらず四六時中家を空けている母がそれを意図していたかは不明だが、兄弟水入らずの状況を作られては、桐馬は優馬から離れるわけにはいかなかった。
桐馬が中学三年生のときの話だ。この頃には、桐馬は大秋高校の推薦枠を勝ち取っていた。工業系の私立高で、偏差値が高くない代わりに在学中から様々な機械を触らせてもらえたり、免許を取るのに学校側から補助金が出る場合もあるらしい。おまけに一年の夏休みを過ぎればアルバイトを始められるようになる。周りが受験勉強に明け暮れる中、桐馬にはその必要がなかったのは事実だ。
夏休みが始まる前あたりに、美玖から交際の申し入れがあった。クラスに話す相手のいない桐馬は、自分にそんな機会が訪れるなど夢にも思っていなかった。初めは美玖が受けているいじめの一環なのだろうと思った。クラスで一番地味で小汚い男子に嘘の告白をさせる、というやつだ。しかも、同じく爪弾きに遭った者同士でも、弾かれた方向は上下正反対である。天上界から蜘蛛の糸でも垂らされているような気分だったが、桐馬にはそれが罠にしか思えなかった。一旦その場での返答を避け、後日間違いなく二人きりの場で美玖の意思を確認するまで、桐馬は気を緩めなかった。結果的には、それは杞憂に終わったのだが。
しかし、交際は思うようにはいかなかった。クラスメイトから隠れた関係であったことも一因だが、より大きな問題になったのが優馬の存在である。学校が終われば、桐馬は家に鞄を置いた後で保育園へと優馬を迎えに行く。そこからは終日優馬の世話をしなくてはならないため、家を離れることが出来ない。腐った畳のボロアパートに美玖を呼び込むわけにも、ましてや優馬と対面させるわけにもいかず、一日の中で美玖と過ごせる時間は下校時の十数分が限度だった。美玖は携帯を持っているが、金澤家には固定電話すらないので連絡を取ることも出来ない。付き合って数ヶ月、美玖をやきもきとさせている自覚は、桐馬にもあった。
だがこの連休中は、少なくとも何日かは美玖と過ごせる予定だったのだ。事前申請をすれば日曜や祝日も保育園を利用することが可能で、母はいつもその制度を利用していた。それを見越して美玖とはカラオケやゲームセンターに行く予定を立てていたのだが、今回の退園騒動で全て台無しになった。
美玖にその事実を伝えるのは心苦しかったが、秘めていても待ち合わせ場所の駅で待つ美玖を悲しませるだけだ。振られてもおかしくないと思った。またクラスで一人ぼっちになる。蜘蛛の糸がぶちぶちとちぎれる音がしたような気がした。あの時の美玖が桐馬を見捨てなかった理由が今でも分からない。
ともあれ、桐馬以外の学生にとっては夏休み以来の長期休暇であり、勉強なり息抜きなり自由に時間を使える貴重な一週間になる。桐馬にとっては、朝から晩まで優馬と過ごすという、ある意味普段よりも心労を強いられる一週間になりそうだったが。
「にーちゃん、おなかすいた」
「はいはい……」
優馬の声に、桐馬は読んでいた本に栞を挟んで腰を上げた。確か今日の昼ご飯分まではおかずが残っていたはずだ。そう思って戸棚を開けると、そこにはパックご飯だけがいくつも積まれている。その山が少し崩れていることに気がついた。まだ二人分の中身が残っていたはずだったなめたけ瓶も見当たらない。
「優馬、もしかしてもうご飯食べた?」
「おなかすいたっていってるじゃん!」
優馬が苛立ちを露わにする。我ながら愚問だったと反省しつつ、早くも憂鬱な気分になりながらも、テレビの前の優馬に声をかけた。
「……買い物行くけどどうする、一緒に行く?」
「いく!」
「おやつは買わないからね」
意味のない定型文を口にして、桐馬は薄っぺらい財布をポケットに突っ込んだ。
買い物中にしては珍しく、優馬は終始静かにしていた。手を引けば大人しく付いてくるし、お菓子コーナーに目は向けつつも取り立てて騒ぎ立てたりはしない。会計で手を離した隙にお菓子を持ってきてレジに叩きつけたり、その場で開封してしまって買い取らせるなどという暴挙に出ることもなかった。どれも優馬が実際に犯した前科なのだが、注意すればするほど抜け道を見つけるようにして、手段はエスカレートしていった。だが今日に限っては別だった。お腹が空いていて、騒ぐ元気もなかったのだろうか。
拍子抜けだが、優馬も少しは成長したのだろう。もしかすると保育園の件で母にお灸を据えられたのかもしれない。やはり優馬に必要なのは母親だったのだ。桐馬はそう考え、一人で納得していた。
何事もなく帰宅し、二人で食卓を囲んだ。気分がよかったので、優馬のご飯には多めになめたけを載せてやった。優馬は特に嬉しそうな顔はしなかったけれど。
お腹が満たされると、次に眠気が来た。優馬の成長を実感して、少しだけ気が抜けたのかもしれない。朝のうちに掃除や洗濯は済ませておいたし、他にやることもない。たまには欲望に素直になり、昼寝をしてしまうのもいいだろう。
「ふわぁ……優馬、兄ちゃんちょっと寝るから、テレビでも見てて」
「うん、おやすみ」
思えば、このときの優馬は何やらそわそわとしていた。やけに目が泳いでいたし、後ろで手を組んでもじもじとしていた。だが本能に身を預けることに決めた桐馬は、些事と決めつけて眠りに落ちた。
まあ、後から考えれば、この時点で既に手遅れではあったのだが。
ぱりぱりと、聞き慣れない音で目を覚ました。
「ん……優馬? なにか食べてる……?」
身を起こす。寝ている間に室内は薄暗くなっており、そろそろ電灯をつけてもよさそうな時間だった。だがまだ部屋が暗いのは、優馬の身長では電灯をつける紐に手が届かないからだ。ぼやける目をこすりながら明かりを灯すと同時、優馬がドタバタと音を立てて走りだし、トイレに駆け込んでいった。
「なんだ、急にお腹でも痛くなったの……え?」
桐馬の目が止まったのは、テレビの前の空間だった。先程まで優馬が陣取っていた場所だ。
元から汚い畳ではあるのだが、その場所は何かの小さな欠片がこぼれていることによって、さらに汚れていた。近づいてみてみると、それはどうやらポテトチップスの食べかすらしかった。
その瞬間、桐馬の頭の中で、音と欠片の正体が一つに繋がった。
「優馬、ちょっとトイレから出てきて!」
「やだ! といれしてるから!」
「終わったらでいいから!」
「や!」
桐馬の背中を冷や汗が伝う。何故。いつ。どうやって? 戸棚の中どころか、うちにはポテトチップスなんか置いていなかった。優馬はどこでそれを手に入れたのか? 優馬が1人で出かけて買ってきた? ありえない。
答えは決まっている。昼にスーパーに行ったときだ。だが優馬はお菓子コーナーに近づいていない。優馬が駄々をこねて以来、レジ前の商品にも注意を払うようになった。電池やガムなど、優馬が興味を持ちそうにないものが並んでいるレジを選ぶようにもしている。
財布に入れたレシートを見返してみる。会計にもポテトチップスは入っていない。優馬の手を離したのは、商品をかごに入れる時と、会計の時、そして持参した買い物袋に買ったものを詰め込んでいるときくらいだ。
つまり、残る可能性は──
「……まさか、他の人の買い物袋から盗んだのか?」
「……」
返事はない。ドア越しで表情も見えない。だがかすかに聞こえた息を呑むような音で、桐馬は図星を突いたと確信した。
「お前、マジで何やって……とりあえずお金を……いや、そもそも誰の袋から……あああもう、本当に何やってるんだ!? 何やったか分かってるのかお前!?」
桐馬が思わず上げた大声に反応し、隣人が壁を殴る音が響く。いつもなら恐怖に息を潜めて震え上がる桐馬だが、今日ばかりはそんなものに構っている場合ではなくなっていた。
「優馬、本当にいい加減にしてくれ! 優馬のやったことは犯罪だぞ、警察に連れて行かれるかもしれないんだぞ!」
「わぁ……わああああああん! だって、だって、にーちゃんが買ってくれないんだもん!」
「泣いてる場合か! とりあえず出てくる! ほら!」
優馬は内側からトイレに鍵をかけている。が、鍵は簡易的なもので、外側からでもコイン一枚を使って捻れば簡単に開けられるタイプだ。桐馬は鍵をこじ開けると、口元にポテトチップスの欠片をつけたままで泣きわめく優馬を引きずり出した。手には棒状の入れ物に入ったポテトチップス。恐らくは服の内側に隠し持っていたのだ。
桐馬は生まれて初めて、人に手を上げた。
優馬がやってしまった事の重大さ。両側の隣人からの怒声。何より未然の事態に混乱し、感情が追いつかなくなった桐馬。その全てががちゃりと音を立てて連結し、理性という薄い膜を破ってしまったのだった。




