記憶の欠片:金澤優馬(3)
優馬のわがままエピソードには事欠かない。
スーパーにつれていけば必ず騒ぎを起こす。そう考えて優馬が寝ている隙にこっそり買い物を済ませようとしても、そういうときに限って優馬はタイミングよく目を覚ます。保育園の迎えに行く前に買い物をしてしまえばいいのだが、そうすると保育時間が延び、保母さんから遅刻だの延長料金を払えだの、小言を言われる羽目になるのだ。
そして優馬を連れていけば必ずと言っていいほど、無駄なお菓子やおもちゃを買わされることになる。幼い優馬に家計の苦しさが理解できないのは仕方のないことだが、毎月千円を超えるお菓子代が桐馬の生活を圧迫するようになったのは紛れもない事実だった。
入り浸っていた図書館からもすっかり足が遠のいてしまった。いつ癇癪のスイッチが入るかも分からない優馬をあの静かな空間に連れて行くわけにもいかない。優馬を置いて出かけようとすれば、買い物に行くなら連れて行けの連呼が始まる。優馬のわがまま加減は、ついに桐馬を本の世界から引き剥がさんとするまでに至っていた。
ある日、桐馬がいつものように優馬を迎えに来ると、その日の保育園は空気感が違っていることに気づいた。
いつもは子どもたちの遊ぶ声で溢れかえっている園が、なぜかシンと静まり返っていたのだ。
職員室にいる保母さんを呼ぶと、いつも対応してくれる保母さんではなく、神妙な顔をした園長先生が桐馬と目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。ほうれい線がくっきりと浮き出た初老の男性の顔は、眉間にシワが寄って険しさを増している。優馬がなにかやらかしたのだと察するのは容易かった。
「お母さんと連絡はとれるかな」
その言葉に桐馬は首を横に振った。優しい声が飾りであることはすぐに理解した。
母は携帯電話を持っているが、金澤家には固定電話がなく、必要になることもなかったので桐馬は母親の電話番号を知らない。園側は番号を控えているはずだろうと思ったが、この様子ではその番号にかけても連絡がつかなかったのだろう。
「ふむ……では、今から大事な話をするから、これからする話をお母さんに伝えてくれるかな。できれば園に来られる日を連絡するように伝えてほしい」
桐馬は今まで入ったこともなかった職員室に連れられ、園長のデスクの横に用意された折りたたみのパイプ椅子に座るよう促された。職員室の中は、消毒薬とコピー用紙の匂いが混ざり合っていた。
「実は、優馬くんと同じ組のお友達が、おもちゃを取り合って喧嘩をしてしまってね。その時に優馬くんが投げたミニカーが、お友達の顔に当たって怪我をさせてしまったんだ。幸い目は無事だったのだが、鼻にぶつかって血が出てしまった。他にも小さな怪我がいくつか。そのお友達の保護者さんの意向で、今病院で診察を受けている。どれほどの怪我かは診断が出てみなければ分からないが、治療費を負担してもらうことになりそうなんだ」
話を聞いているだけで光景が浮かび上がってくるようだった。大方、優馬が先に手を出したのだろう。止める人がいなければ優馬の癇癪はどんどんエスカレートする。今回はそれが流血沙汰にまで発展してしまったのだ。
桐馬の顔からは、一切の表情が消えていた。
「それは……申し訳ありませんでした」
腰を折ってまっすぐに頭を下げる。数秒待って顔を上げると、園長のシワは数を減らし、困惑したような顔になっていた。小さな子供に頭を下げられ、どう扱ったものか判断に困っているのだろう。
言葉に詰まった園長から視線を外し、桐馬は弟の姿を探した。
「優馬はどこにいるんですか」
「あ、ああ……優馬くんなのだが、私たちが抑え込んでも、喧嘩になってしまったお友達が目の前からいなくなるまで、叫ぶのをやめなくてね。今は少し落ち着いているが、別室で職員と二人にさせている」
「優馬には、怪我はないんですか」
「お友達から受けた傷はない。暴れた時に何箇所かぶつけてしまっているが、病院に行く必要がないくらいの小さな怪我だよ」
「……わかりました。今日のところは連れて帰ってもいいでしょうか。自宅で言い聞かせます」
「う、うむ」
園長は職員室に残っていた保母さんに無言で指示し、優馬を奥の物置のような部屋から連れ出させた。散々言い聞かせられたのだろうが、優馬の目には涙が浮かび、むすっと塞ぎ込んでいる。一緒にいた先生に背中を押されなければ一人で歩こうともしない。だが桐馬を見つけた瞬間、優馬は突然駆け出すと、優馬の影に隠れて先生に向けて舌を出した。それだけで普段から子どもの相手に慣れているはずの先生が、眉をぴくぴくと痙攣させる。相当に手を焼いていたらしい。その気持ちは桐馬にも痛いほどに理解できる。
「おにーちゃんたすけて! ゆーまはわるくないのにこいつらが!」
「続きは帰ってから聞くから」
「やーだ! こいつらやっつけてよ! ゆーまのおもちゃだったのに!」
「はいはい──すみません、母にはきちんと伝えておきます。今日は失礼します」
優馬が今にも落ち着きを失いそうだったので、桐馬は優馬を抱え上げ、そそくさと保育園を後にした。
家についてなお、優馬の機嫌は直らなかった。
「ぶー……ゆーまのヒーローだったのに……」
自分で歩かせようと下ろせば、優馬は保育園に戻ろうと躍起になった。結局家につくまで桐馬が運ぶことになり、疲れ果てた腕をさすりながら、桐馬は優馬に向き合った。
「どうしてお友達にミニカーを投げたの? いけないことだよね?」
「だって、とうじくんがね、ゆーまがあそびたいのにくれないんだもん」
「先にお友達が遊んでいたのなら、順番に遊ばないといけないよね。優馬だってお友達におもちゃを取られたら怒るでしょ」
「ぶー、おにーちゃんもせんせーとおんなじこという! もういい! ゆーまわるくないんだもん!」
優馬はずっとこの調子で、今にも感情を爆発させる寸前だった。
「優馬、お願いだから喧嘩なんてしないでくれ。今度お友達と会う時には、お母さんと一緒に謝るんだ」
「ぜったいにやだ!」
優馬はそっぽを向くと、それきり喋らなくなった。つけっぱなしのテレビを凝視して、桐馬とは目も合わせようとしなかった。
苛立ちは頭痛に変わり始めていた。
子どもとはこんなにも身勝手なのか。桐馬とは十歳の差がある優馬。自分の十年前がどうだったかと、桐馬は記憶を振り返る。
母と二人きり、この六畳一間が桐馬にとっての全てだった。保育園に行くことも出来ない経済状況の中、日に日にやつれていく母の顔だけを見ながら育った。子供なりに母の目の下にできた隈が濃くなっていく理由を、おぼろげながら分かっていたのだと思う。自分が大人しくしていれば母の心労が減る。桐馬が静かで聞き分けの良い子どもとして育った根底には、物心もつかない頃からの経験があった。
対して優馬の自分勝手さは、年齢を重ねるごとに輪をかけてひどくなっていく。他の子供のことは桐馬には分からないが、優馬が同年代の子に比べてわがままな性格だというのは明白だった。
違いがあるとすれば、桐馬のそばにはいつも母親がいたが、優馬はそうではなかったことだろうか。
優馬が母親と過ごした時間は決して長くない。今までの人生で一番多く同じ時間を過ごしたのは兄の桐馬だし、二番手を考えても保育園の先生に軍配が上がるだろう。
もしかすると優馬は母親に会えないことにストレスを抱えているのかもしれない。まだそれを上手く言葉にも出来ないような幼児なのだ。行き場のない感情をどうにかする方法もわからず、それはしばしば小さな火種によって爆発する。
優馬には母親が必要なのだ。桐馬による世話にはどうしても限界がある。毎日遊び歩いているようなダメな母親でも、優馬にはたった一人の母親だ。今の手を付けられない優馬を変えられる人がいるとすれば、それは桐馬ではない。
──手紙を書かなければ。
今日の保育園での出来事を伝える必要があった。面と向かって話せる機会があるとは思えないので、置き手紙にすることにした。そもそも毎晩帰ってきているかどうかも定かではないが、事態は子供の桐馬が処理できる範疇を超えている。あの母でも、自分の宛名が書かれた手紙であれば、目にすればきっと読むだろう。次は相手の親を交えての話し合いになる。桐馬の出る幕ではない。
桐馬は広報誌に挟まったチラシの中から裏面に印刷が無いものを選ぶと、インクが切れかけているペンをとった。園長の口から出た一部始終と、喧嘩相手の治療費が必要になりそうなこと、優馬の態度について一通りのことを書いた。思ったよりも長くなったせいで、チラシは二枚目に突入することになった。できるだけ丁寧な字を意識して書いた。優馬とのやりとりを思い出すだけで筆跡が荒れそうだったからだ。
「──こんなもんかな」
二枚目の半分ほどを埋めたところで書くことがなくなった。まだ余白が残っている。
少し手を止めてから、桐馬は桐馬自身のことを書いた。
友達は少ないが、学校では成績優秀で通っていて、先生からはよく褒められること。今読み進めている本のこと。最後に──桐馬からみた優馬のこと。
自分は平気だが、少しは優馬と顔を合わせてやってほしい。最後にそう書いた。
ちゃぶ台の真ん中に手紙を置き、桐馬は畳に寝転がった。まだ食事を摂っていなかったが、これ以上起き上がる気にはなれなかった。
知らないうちに疲れていたのだろう、桐馬の意識はすぐにまどろみ始めた。が、眠気に身を任せそうになったところではた、と思い出した。まだ優馬に食事を与えていない。食べ終えたら風呂に入れて、歯も磨いてやらなくては。
どうにかまどろみに抗った桐馬は、のそりと起き上がった。ついさっき置いたばかりの手紙が目に入る。桐馬は二枚目の半ばほどから下を破りとり、くしゃくしゃに丸めてごみ箱に放った。




