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時速60kmのアキレス  作者: 朔良 海雪


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12/30

記憶の欠片:雛森美玖(5)

「ふぅ、歌った歌った。桐馬くんって意外と歌もいけるんだね」


「まあ、美玖以外に人がいないならなんとか……流行の歌くらいはわかると思うし」


 ゲームセンターに続いてカラオケを楽しんだ二人は、雪の降る通りを手を繋いで歩いていた。寒気の中では互いの体温がより鮮明に感じられる。


 美玖がおもむろにスマホを取り出し、時間を確認している。十七時にさしかかろうかというところだ。


 美玖が計画してくれた予定では、この後はディナーにレストランに行くことになっているらしい。しかし、予約を取っているのは十八時からということで、少し時間がある。美玖は困り果てた様子で首を傾げた。


「まさかカラオケに時間制限があるとは思わなかった……空いた時間どうしよう」


「こういう日は利用したい人も多いだろうしね、仕方ないよ」


「事前に調べておくべきだったよ。どうする、もう一回ゲームセンターでも行って時間潰そうか?」


 桐馬は少し思案してから、横目に美玖を見て提案した。


「それもいいけど……もし美玖がよかったら、少しだけ付き合ってもらってもいい?」


「え、桐馬くん行きたいとこあったの? 言ってくれたら予定に組み込んだのに」


「いや、ほんとは明日、プレゼントとして渡すつもりだったんだけど……とりあえず、ついてきてもらえる?」


 困惑顔の美玖を従えながら、桐馬は行きつけの店に向かって歩き出した。


 その古本屋は、買い物通りから少し外れた中道に店を構えている。


 昔ながらの本屋のイメージがそのまま飛び出したような店構えだ。錆びついて傾きかけた看板に、年季を感じさせる店構え。扉を開けた瞬間に濃厚な紙とインクの匂いが漂ってくる。一般的な古本屋にかかっているような音楽もない、静かな空間。木製の本棚は敷地面積の限界まで並べられており、すれ違うにもお互いの気遣いが必要になりそうなほどだ。どの本棚にもぎっちりと本が詰まっている。漫画などが多いチェーンの古本屋とは違い、硬派なハードカバーや文庫本が主なラインナップだ。普通なら出版社や作者順に並んでいるのだろうが、ここの本はまともに整理されておらず、隣り合う本どうしが背比べをしている。だが桐馬はこの雑多な陳列を気に入っていた。思わぬ掘り出し物に出会った経験が何度もあるからだ。


「すごい、立派な本屋さん……桐馬くんはいつもここに来てるの?」


「時間がある時はたまに。古本だから値段的にも安いし、大手の本屋にはない本がたくさんあるんだよ」


「へー……すごい迫力」


 美玖が狭い本棚の間を縫うようにして、店の奥へと進んでいく。時々背表紙に目を留めては、引き出してパラパラとページを捲っていた。


 そんな美玖を尻目に、桐馬は一番奥にあるレジカウンターへと向かった。不用心なことにレジは開けっ放しな上、店主は席を外しているらしい。奥には小上がりがある。桐馬はそこに膝立ちすると、手が届く位置にある襖を横に滑らせ、大声で呼びかけた。


「じーちゃん? いるかー?」


 返事はない。トイレにでも行っているのだろうか。桐馬はひとまず建付けの悪いレジの引き出しを無理やり押し込み、しばしの間そこで待っていた。


「じーちゃん? お店の人、知り合いなの?」


 桐馬の声に先に呼び寄せられてきたのは、桐馬の考えていた人物ではなく、美玖の方だった。


「昔からお世話になっててね。ちょっとお願いしてたことがあったんだけど……」


 桐馬が呟いた直後、奥の部屋でガタガタと大きな音がした。


「じーちゃん? 大丈夫?」


「おお、桐馬か? 悪いが少し手伝ってくれんか?」


 今度は返事があった。


「今行くよ」


 桐馬は靴を脱ぐと、美玖に「ちょっと待ってて」と声をかけ、小上がりから廊下を進み、奥の部屋へと進んでいった。


 畳敷きの部屋がある。店と同じく年季を感じさせる昭和チックな、木材の柱がむき出しになった一部屋だ。仕事を全うしたブラウン管テレビが未だに部屋の隅に鎮座している。中央にはコタツが設置され、みかんやお茶に煙草、その他ティッシュや新聞、ラジオなどといった物品が散らばっている。散らばっているとは言っても、それらはこたつの上、またはこたつを中心に手を伸ばせば届く範囲に集約されている。そんな生活感満載の部屋の中に、桐馬が呼んでいた人物はいた。


「おお、桐馬。ちょうどいいところに来た」


 まるで亀だった。桐馬がじーちゃんと呼んだ人物は、上半身だけをこたつから出した状態で、畳にうつ伏せに寝転がっている。痩せ細った老父だった。


「どうしたの、腰でもやっちゃった?」


「んや、ちょっと脚が攣っての。悪いが引っ張り出してくれんか?」


 桐馬が老人の腕を掴んでコタツから引き抜けば、老父の全身がされるがままの姿で露わになる。白のタンクトップに分厚い半纏、下は夏と同じチノパンという謎のスタイルだった。靴下も履いていない足先で指が交差し、ピクピクと痙攣している。攣っているのは土踏まずのようだった。桐馬がもみほぐすと、老父は温泉にでも浸かったような声を出した。


「いいところに来てくれて助かった。動けなくて困っておったんじゃ」


「無理に動かなくていいよ。僕ら以外にお客さんが来てるわけじゃないし。それより、頼んでたものを取りに来たんだ」


「来るのは明日だと言っておらんかったか?」


「その予定だったんだけどね。もしかしてまだ用意できてない?」


「んや、準備してある。レジの横じゃ」


「ありがとう」


 老父がいそいそとコタツに戻っていくのを横目に、桐馬は美玖が待つ店の表側に戻った。


「大丈夫そうだった?」


「うん、いつものことだから。──それより、これ、あげる」


 桐馬はレジの横に置かれている二冊の本を手に取ると、そのまま美玖に差し出した。


「え?」


 こんな展開は予想していなかったのか、美玖がぱちくりとまばたきを繰り返す。


「あげる、って……クリスマスプレゼントってこと?」


「まあ、一応。大したものじゃないんだけど」


 桐馬が差し出しているのは、分厚いハードカバーの本二冊。クリスマスらしい包装もされていない、裸の状態だ。その上新冊というわけでもなく、誰のものとも知れない手垢がついている。桐馬がこの店の本棚の中から吟味して、美玖に読んでもらいたいと感じたものを選び出したのだ。


 美玖からコートを贈られて以来、桐馬は自分にできる最大限の贈り物について考えを巡らせた。


 プレゼントにするならもちろん新品が望ましいのだろうが、それは桐馬の経済力的に難しい。故にこの二冊が桐馬に用意できる精一杯のプレゼントだった。本ならば新品だろうが中古だろうが内容に貴賤はない。


 できる限りの状態回復を、店主である老父に依頼していた。色焼けしてしまった表紙はどうしようもないとして、破れ目のある部分を補強してもらったり、ページの折れもできる限り直してもらっていた。結果的には包帯ぐるぐる巻きの怪我人みたいな見た目になってしまったけれど、中身を読むのに支障がないレベルには復活していた。


 気持ちがこもっている、などと言い訳をする気はなかった。美玖の部屋には似合わない薄汚れた本だ。ましてや本には好みだってある。いらないと突き返される覚悟もしていた。


 だが、美玖は震える手でそれを受け取ってくれた。


「そんな……よかったのに。言ったでしょ、コートのお返しにデートしてほしいって。お返しならもうしてもらってるんだよ」


「僕もなにか渡したいって思ったんだよ。本当に大したものじゃなくて申し訳ないんだけど」


「そんなことないっ。大事に読むからね。ありがとう」


「受験が無事に終わってからね」


 桐馬はできるだけ自然に胸元をなでおろした。正直なところ、幻滅される可能性のほうが高いと考えていたのだ。


 だが当の美玖は幻滅どころか、目尻に涙を浮かべながらぎゅっと本を抱きしめている。


 こんなものでも喜んでもらえるのなら、時間を賭けて選んだ甲斐があったというものだ。





 美玖が予約したレストランでの食事は、桐馬が今までに口にしたことがないほど豪華なものだった。


 クリスマス限定のイタリアンコースを予約しておいてくれたらしい。そもそもコース料理を前にした経験すらなかった桐馬からすれば、漂う厳かな雰囲気に押しつぶされてしまいそうに感じられた。ぴかぴかに磨かれた銀の食器が並ぶ真っ白のテーブルクロス。マナーも食器を使う順番もわからずに戸惑っていたのだが、美玖が丁寧に教えてくれたことでなんとか事なきを得た。緊張であまり味を覚えていないのが悔やまれるが、「美味しかったね」と笑う美玖に、桐馬は何度も頷き返した。


「あーあ、もうデートも終わりかあ。あっという間だったなあ」


「そうだね」


 イルミネーションが彩る帰り道を、桐馬と美玖は二人で歩く。厚着をしているとはいえ、陽が落ちてからしばらく経つ。むき出しの顔に針が刺さっているかのような寒さだった。


 美玖の言葉に滲む名残惜しさを、桐馬もひしひしと感じていた。最初で最後のクリスマスデート。全てが完璧だったわけではないけれど、それでもろくな思い出のない中学生活の中で、最も大きな思い出になりそうなのは間違いなかった。


「家まで送るよ。いつもは僕が送ってもらってるし」


「そう? ありがと」


 どちらからともなく、二人は手を繋いだ。


 他愛のない話をした。好きな本のこと、今日のメイクのこと、学校で互いが受けた仕打ちのこと、一緒に自由行動をした修学旅行のこと。


 ただ一つだけ、これからのことについてだけは、どちらも触れようとはしなかったけれど。


 あっという間だった。気づけば雛森家の門の前にいた。


「あ……」


 デートの最終地点。窓にはまだ灯りが灯っていない。美玖の両親はまだ帰ってきていないのだろう。


「──寄っていく?」


 美玖の俯きがちな目が、桐馬の心を一瞬迷わせる。ここで頷けば、もう少しだけ二人きりの時間は続く。それどころか、二人の関係は一歩先に進むことになるのかもしれない。


「……いや、やめとく」


 数秒の沈黙の後、桐馬は絞り出すように答えた。残念がられるかと思ったが、美玖はちいさく「そっか」とだけ言うと、今のやりとりをなかったことにするかのように、桐馬の手を離して向き直った。


「今日はほんとにありがと! 最高に楽しかったし、いい息抜きになったよ」


「うん、僕も楽しかった──じゃあ、また」


「またね。冬休みの間に時間があったら、また勉強教えに来てよ」


 小さく手を降る美玖を目に焼き付ける。


 丸ごと一日を一緒に過ごすのはこれが最後になるのだろうが、美玖の言う通り時間があれば勉強の手助けをするつもりだった。あと数ヶ月は学校で顔を合わせるし、下校デートの機会だってある。あまり大げさにするのもおかしいだろう。


 桐馬が背を向けて歩いていくのを、美玖はずっと見つめていてくれた。





 ──それ以来、美玖とは一度も会っていない。

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