記憶の欠片:雛森美玖(3)
また別の日のこと。
下校のついでに、桐馬と美玖は買い物のために街に出て来ていた。美玖が手元にある問題集を一通りやり尽くしてしまったので、新しいものを買うことが目的だ。問題集は少ない冊数を何度も繰り返し解くのが望ましいらしいのだが、美玖は二周目にして問題文に対する答えを暗記し始めていて、あまり意味がなくなってしまったのだ。問題集選びに付き合うついでに、桐馬は今月発売された新刊小説のラインナップを一通りチェックする腹積もりだった。
十二月も半ばとなった街は既にクリスマスムード一色で、いたるところでイルミネーションが光っている。積雪も本格的となり、一歩進むごとにぎゅむぎゅむと根雪が音を立てる。寒さが本格化してきた買い物通りは、しっかりと重ね着をしている通行人ばかりだ。
「すっかり冬だねえ」
「そうだね」
「クリスマスも近いし、プレゼント包装された紙袋を持ってる人も多いね。……そういえば、サンタさんのソリってどうして空を飛べるんだろ?」
飾られているオーナメントの中に、そりに乗ったサンタを見つけた美玖が、不思議そうに尋ねてきた。
「この前とは違ってだいぶメルヘンな話題だね」
「ふと思っちゃって。そういえばちゃんと考えたことなかったな、ってさ」
「……一応確認しておくけど、サンタが空想って話は理解してる前提で大丈夫?」
「あのねえ、私のこと何歳だと思ってるの? あとその聞き方だと純真な子供の夢は守れないと思う」
「いや、子供が聞いてくるような質問してくるからさ」
「もちろんサンタさんがおとぎ話だってことは知ってるけどさ。でもあれって、どうやって飛んでるって設定なんだっけ」
「設定て」
身も蓋もない事を言う美玖に、桐馬は白い目を向けた。
「……まあ、ああいうのって大体魔法とかじゃない? 魔法で空を飛ぶそりが……いや、飛んでるのはトナカイの方だったっけ。そりは引っ張られてるだけだった気がしてきた」
「夢がないなあ。ソリに反重力装置がついてたり、トナカイがマッハの速度で脚を動かして、空気を蹴っ飛ばして飛んでたりしないのかな?」
「発想が理系すぎ──っぷし」
ツッコミの途中で、桐馬のくしゃみが炸裂した。盛大に鼻水を足らした桐馬に、美玖は思わず吹き出しそうになりながらも、ポケットからティッシュを引っこ抜き、何枚か取って差し出してくれた。
「大丈夫? やっぱり雪が降りはじめてるのに上着なしは寒かったんじゃ……待ってて、今からお店で、もこもこのあったかいの買ってくるから」
「いや、大丈夫。むしろ邪魔しないでほしい、これはれっきとしたライフハックだから。名付けて、『大富豪でいきなり強いカード出すやつアホすぎ作戦』」
「……一応聞いておくね。どういうライフハックなの」
「寒さがまだマシな十二月はまだ上着を着るタイミングじゃない。いまのうちに寒さに慣れておくことで、もっと寒くなる一月以降に対する免疫を──へくしゅっ」
「今にも凍え死にそうなくらい震えてるけど。もー、変な見栄張らないでよ、風邪でも引いたらどうするの?」
秋から変わらないブレザー姿の桐馬に比べ、美玖は暖かそうなダウンジャケットに身を包んでいる。手袋とマフラーも完備。桐馬の目線で見れば、早くも冬の寒さに屈している姿だった。
とはいえ、確かに今年は寒くなるのが早い。桐馬の指先は血の気が失せて限界に近いのだが、桐馬は手袋を持っていない。それに唯一持っている上着は中学時代から使っている着古しで、もう綿がほとんど潰れてしまっているのだ。新しいものを買う余裕は金澤家にはなく、この一枚で冬シーズンをやり過ごすには、プラシーボじみたライフハックでも実行すべき立派な作戦なのである。冬に入ったばかりの段階で切り札たる最強カードを切ってしまっては、この先の寒さについていくことができなくなる。そういう意味での作戦名だ。
そんなわけで、今の桐馬にできる防寒対策は、亀のように首を引っ込め、袖を内側に丸めて握り込み、服の中に冷たい空気が入ろうとしてくるのをわずかに阻止することだけだった。
「決めた、桐馬くんのクリスマスプレゼントは、とびっきりあったかいコートね。くるぶしくらいまで長さがあるやつ」
「いや、悪いよ。僕お小遣いとかもらってないからなにも返せないし」
「おまけで手袋とネックウォーマーもつけてあげよう。あ、耳当てもいる? 真っ赤になっちゃってるよ」
「話聞いてた?」
桐馬の言葉などどこ吹く風、美玖は早くもウインドウショッピングを始めている。冬本番とあって、暖かそうな上着のラインナップには事欠かない。美玖は次々と店頭を駆けめぐっては首をかしげていた。脳内の桐馬に試着させているようだ。
「桐馬くんに着せる上着かあ……やっぱり無難に黒かなあ? 茶色系って大人っぽい感じがするけど、学生が着てるとちょっと背伸びしてる感もあるよね。知ってた? 私たちの親世代のコートって、高いほど重さが増してたらしいよ。うちのお父さんのコートなんて米俵みたいに重くて。絶対軽いほうが使いやすいのにね」
「コートの豆知識とか知らないよ……もらったとして、僕はなにも返せないんだって」
桐馬の家は万年金欠で、小遣いも出なければ上着を買い替えることもままならない。もちろん、美玖が常用している料理の宅配サービスなど使ったこともなかった。思えば子供の頃から、桐馬のもとにサンタがプレゼントを持ってやってきたことは一度もない。サンタの存在がまやかしだと桐馬が気づいたのは、恐らく全国にいる子どもの中でも一、二を争う早さだった。
「それより早く帰ろうよ。暖房効いた部屋であったかいものが食べたい」
桐馬のぼやきを黙殺し、美玖は数歩だけ先に行ってしまう。
「──あるよ。桐馬くんが返せるもの」
美玖はその場で立ち止まると、上半身だけで振り向き、流し目で桐馬を見た。心なしか頬が赤い。コートを探して走り回っていたからだろうか。行く手を塞がれた桐馬は、美玖の前で足を止めた。
「お願いがあるの。それを叶えてくれたら、他にはなにもいらない。どうかな?」
「いや、だからそれじゃ僕が納得できな──」
「クリスマスイブ。一緒に出かけない?」
「……え?」
一瞬、桐馬の思考が固まった。
珍しく桐馬の言葉を遮ってきた美玖。その目の鋭さは、彼女が本気であることを物語っていた。
「ほら、桐馬くんっていつも用事ばかりで、全然デートできないじゃない。でも恋人になって初めてのクリスマスだし、やっぱり一緒に過ごしたいんだけど……」
恋人になって初めてのクリスマス。まちがった表現ではない。だが、美玖がその言葉の裏にもう一つ、意味を含ませていることにも気がついていた。
今回が恋人同士として過ごす最後のクリスマスでもある、ということだ。この雪が溶ける頃には、桐馬と美玖はまったく別の道を歩むことになるのだ。来年のクリスマスが訪れる頃には、きっともう完全に関係が切れてしまっている。
美玖もきっとそれを分かっていた。分かったうえで最後とは言わずに、ただ一緒に過ごしたいと提案してくれている。
イブも用事がある。それが桐馬が告げるべき答えだった。桐馬の意地が悪いわけでも、美玖とクリスマスを過ごしたくないわけでもない。コートのプレゼントがどうこうという話を抜きに、単純に恋人としての残り少ない時間を大切にしたい。それでも実際に予定は埋まっていて、デートに出かけることは出来ない。
だが、美玖がこちらを見る瞳がその答えを喉元でつまらせている。彼女の期待を裏切りたくない。だが桐馬の身は一つしかない。裏切りたくない。現実がそれを許さない。
桐馬を苛む葛藤。純真な美玖の視線。その両方が痛みとなり、桐馬の心をザクザクと刺し貫く。
美玖からの誘いを断るのはいつものことだ。だが、今ここで考えなしに無理だと伝えれば、いつか後悔の念に押しつぶされることになる。そんな予感が頭をよぎってしまった。
「わかっ……た」
迷った末、桐馬は言葉を詰まらせながらも、どうにかそう答えた。最後の最後で、今日という日を思い出して後悔することを想像してしまったせいだ。
美玖がきょとんとした顔になる。どうやら本当に望みが叶うとは考えていなかったようだ。
「え、ほんと、ほんとにっ? イブは出かけられるの?」
「まあ……なんとかするよ」
一度口に出した言葉は戻せない。渋い顔で笑う桐馬とは裏腹に、美玖は一気に上機嫌になった。滑りやすい足元なのも構わず、雪を跳ね上げてぴょんぴょんとジャンプしている。それだけでは足りなくなったのか、人目も気にせずに雪道をスキップで駆け回り始めた。
「やったー、やったー! クリスマスは桐馬くんと一緒!」
「声を大にして騒がないでよ。クラスメイトに見られてたらどうするんだよ」
桐馬は冷静な口調を崩さないようにしながらも、内心は自分も一緒になって踊り出したいくらいの気分だった。なにせクリスマスは毎年、友達とすら過ごしたことがなかったのだ。そんな桐馬が一気に、恋人と二人きりのクリスマスに飛び級である。今までの人生で、自分にこんなことが起こるなど想像もしていなかった。
ひとしきり喜びを表現し終えると、美玖は桐馬の隣に戻り、ひしっと効果音がつきそうな勢いで腕に抱きついてきた。喜びを隠しきれず、口角は上がり切ったままだ。
「今年のクリスマスは親が二人で出かけるみたいで、一人ぼっちで勉強漬けかぁ、って思ってたところだったんだけど……言ってみるものだねぇ」
「受験生としてはそれが正しいと思うけどね。一応確認するけど、今回は勉強会デートじゃないよね?」
「ふふん、バカなこというもんじゃないよ、朝から晩まで遊び尽くす所存だぁ! ……なんてね。もちろん、当日気兼ねなく楽しめるように、勉強はしっかりやっていくつもり。今日買った問題集がノルマ、ってことで。イブは思いっきり息抜きするんだ」
いやあそれにしても、と美玖は感慨深そうに呟く。
「桐馬くんはモノで釣るのが正解だったか。物欲なさそうな顔しやがって、このこの」
「勘違いしないでほしいんだけど、断じてコートに釣られたわけじゃないから」
「わかってる、わかってるって! あ、それはそれとしてコートは今日買っちゃおうね。本当に寒そうだから」
美玖はそう言って桐馬の手を引く。美玖に連れられて入りかけた先のアパレルショップは、特有の妖艶な雰囲気を醸し出していた。
店のショーウインドウがちらりと目に入る。そこには二桁万円の値札が付けられたコートが飾られており、桐馬は今までに出したこともないような力で美玖を引き止めた。




