第19話「蘇る古の存在」
ケイトは再び窓の方を向いた。
背後に手を組み、静かに立つ。
夕陽の光がガラスを真紅に染めていく。
まるで空に血が広がったみたいだ。
彼の姿は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に——
誰も自分と対等だと思っていない。
圧倒的な自信が潜んでいる。
その時。
趙リンフェイが音もなく近づいてきた。
優雅に、完璧に。
まるで獲物を狙う雌豹のように。
細い指がケイトの肩に触れる。
ゆっくりと、優しく。
緊張した筋肉を揉みほぐし始める。
「もしそれがお望みでしたら、主人様」
甘い酒のような声。
言葉の端々に誘惑を忍ばせて。
「喜んでお受けいたしますわ」
だが、次の瞬間。
ケイトが素早く彼女の手を払った。
荒々しくはなく。
ただ、完璧な制御のもとで。
「触らないでください、奥方」
感情のない一言。
それが部屋に響く。
まるで平手打ちのように。
重い沈黙が落ちた。
趙リンフェイを知る者でさえ、驚きを隠せなかった。
特に三人の少女たち。
エレナ・グロモワ。
大和晴子。
カトリーヌ。
彼女たちは知っていた。
この女が男たちをいとも簡単に籠絡する姿を。
相手に選択をさせていると思わせながら、すべてを自分の掌で操る姿を。
なのに今。
その誘惑は無視すらされず。
ただ、価値なしと切り捨てられた。
趙リンフェイはゆっくり手を引いた。
完璧な微笑みを保ちながら。
だが、心の奥では——
(この野郎……!)
雷のような怒りが走る。
自分、趙リンフェイが。
どんな頑なな男も折ってきた自分が。
拒絶された。
しかも、衆目の中で。
屈辱だ。
一瞬、瞳が暗く揺れた。
だが、すぐに抑え込む。
本物の女優のように。
誰も気づかせない。
ゲームはまだ終わっていない。
彼女は瞬時に感情を封じた。
長年の鍛錬で培った炎の制御。
弱さなど見せられない。
特に、この場にいる者たちに。
軽く唇を吊り上げて、ケイトを見据える。
(私を侮辱したつもり?)
瞳の奥に凶暴な光が灯る。
それでも、表面は冷たく計算高い微笑みだけ。
「実はですね」
一歩も引かず、彼女は続けた。
「私はあれを“触れる”とは呼びませんわ」
「それは敬意の証。
あなたの……偉大さを認めるしるし。
ですが、お望みとあれば」
「それなしでも結構ですわ」
◇◇◇
俺は窓の外を見つめたまま、背後の気配を感じていた。
趙リンフェイの怒りが、熱波のように伝わってくる。
だが、俺は動じない。
この女の誘惑など、最初から通用しない。
次回、第75話「拒絶の代償」
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「ふむ」
ケイトが独り言のように呟いた。
口元に、わずかに歪んだ笑みを浮かべて。
振り向かず、ただはっきりとした声で。
「もし君たちの“忠誠”が欲しければ、認めてやってもいいかもしれない」
「だが、すでに言った通りだ」
「俺が必要なのは、君たちのコレクションにある“それ”だけだ」
再び、沈黙が落ちる。
部屋にいる全員が——
力で対抗できる者も、コネを持つ者も。
固まったまま動けない。
その一言に込められた嘲りと、隠れた脅威。
どんな提案よりも、重く響いていた。
(どこまで話したっけ……ああ、そうだ)
ケイトが首を軽く傾けた。
小さく笑って、続ける。
「君たちは、伝説を信じるか?」
「神話を?」
部屋が、粘つくような静寂に包まれる。
リュドヴィク・デュポンが、他の顔をちらりと見回した。
久しぶりに、わずかな緊張を覚える。
最初は修辞的な質問かと思った。
だが、ケイトを見る。
声のトーン。
姿勢。
眼帯に隠された視線。
すべてが、本気だと告げていた。
趙リンフェイは、少し離れた場所で。
もう演技をやめていた。
微笑みも、媚びる仕草もなし。
ただ、冷たく鋭い視線を注ぐだけ。
ケイトは窓沿いに、数歩歩く。
背後に手を組んだまま。
ゆっくりと、まるで古い昔話を語るように。
「千年前、この世界に一つの存在がいた」
「人間でも、魔でも、神でもない」
「何か、別のものだ」
「複数の手と足を持ち」
「理を超えた力を宿していた」
「ただ魔法を使うのではない」
「現実そのものを支配していた」
「空気を金属に変え」
「石を肉に変え」
「重力をねじ曲げて、大地を脆い氷のように砕く」
「周囲の空間が歪み」
「世界がその存在を収めきれなくなる」
「一振りで、都市が消える」
「まるで最初から存在しなかったように」
「一瞥で、敵の体内で時間が止まる」
「空の殻だけを残して」
「軍など必要なかった」
「それ以上の存在だった」
「敵が戦おうとすれば」
「武器は主人に背き」
「体は自分たちのものではなくなる」
「何世紀も支配した」
「今も支配していたかもしれない」
「もし、消えていなければ」
「あるいは、誰かが歴史からその名を消し去らなければ」
沈黙が、さらに深くなる。
空気すら重く感じるほどに。
「だが、過去の影は完全に消えない」
「遺物が残る」
「知識の欠片が」
「古い蔵に隠され」
「忘れられた遺物に刻まれ」
「そして今——」
「この時代に」
「それを蘇らせようとするカルトが存在する」
「その存在を甦らせようと」
「そして、君たちももう気づいているだろう」
ケイトが振り返った。
顔は眼帯で隠れたまま。
だが、全員がその視線を感じ取る。
「その方法が」
「俺が必要とする遺物に刻まれている」
リュドヴィク・デュポンが、静かに息を吐いた。
引き攣った笑みを浮かべて。
「いい話だ……」
雰囲気を和らげようとした。
だが、周りを見回す。
誰も笑っていない。
誰も話題を変えようとしない。
ただ、黙っている。
ケイトの言葉の一つ一つが。
空気に張り付いたまま。
重くのしかかっていた。
◇◇◇
俺は皆の反応を、背後から感じ取っていた。
伝説を語っただけで、ここまで沈黙させる。
面白い。
奴らはまだ、本当の恐怖を知らない。




