第16話「楽園の裏側」
冷たい朝霧が辺りを包み込む。
重い金属の軋む音が響いた。
複合施設のゲートが、ゆっくりと開き始める。
徹夜明けの警備員たちが、一斉に立ち上がる。
顔には疲労と緊張が張り付いていた。
「奥様! ゲートが開きました!」
一人の警備員が慌てて車に駆け寄り、叫ぶ。
大和春子は革張りのシートに座ったまま、コーヒーカップを手に窓の外を見つめていた。
目を細める。
表情は変わらないが、瞳の奥にわずかな不安がよぎった。
「もう?」
静かだが鋭い声で呟き、カップを置く。
「全員に伝えろ。すぐに準備して、遅れるな」
「かしこまりました!」
警備員は走って仲間に指示を飛ばす。
すぐに全員が車の周りに集まった。
疲れた顔だが、目は決意に満ちている。
清澄忠が窓辺に立ち、小さく咳払いをした。
「奥様、お父上の容態がまだ不安定です。慎重に……」
春子が振り返る。
冷たく、しかし抑えた視線。
「心配ないわ、忠。お父様はそう簡単に倒れる人じゃない」
その頃、警備員たちは装備を最終確認していた。
銃を直す者、ベルトを締め直す者。
誰もが、これから未知の領域に踏み込むことを理解していた。
足音が近づいてくる。
エレナ・グロモワが現れた。
表情は落ち着いているが、目に緊張が宿る。
「あら、もう準備できたの? もう少し遅いと思ってたわ」
軽く笑みを浮かべて、春子の側へ。
「急ぎましょう。時間を無駄にしたくない」
春子は短く頷く。
「ええ」
「無駄話はいいわ」
春子は苛立ちを隠さない。
頭の中は、父がまだ危険に晒されていることばかりだった。
◇◇◇
ゲートをくぐり、車で敷地内へ。
空気が一気に張り詰める。
各車に数人の警備員。
いつ何が起きても対応できる態勢。
ミスは許されない。
やがて、広大な中庭に到着。
全員が息を飲んだ。
目の前に広がる光景に、言葉を失う。
想像していたものとはまるで違う。
施設は果てしなく広がり、完璧に設計されていた。
こんな山奥に、こんな場所が隠れていたとは。
春子は思わず息を漏らす。
美しい噴水。
手入れの行き届いた庭園の小道。
「こんな……ユートピアみたいな場所だなんて」
緑の丘が周囲に広がる景色に、目を奪われる。
フリードリヒ・ヴァイスが吐き捨てる。
「ドローンの写真? クソくらえだ」
顔をしかめて。
「こんな楽園みたいな場所が、廃校だなんて誰が信じる」
エレナ・グロモワも頷く。
感情を隠さない。
「本当に。写真とは全然違うわ。ここ……生きてるみたい。緑も、水辺も……現実味がなさすぎる」
ルドヴィク・デュポンが、娘のカトリーヌの隣で周囲を警戒しながらも、感嘆を抑えきれない。
「確かに。ここは……とんでもない価値がある。完璧すぎて、偶然とは思えない」
ユルゲン・ヴァイスが口笛を吹く。
「こんな隠された場所が、こんなに壮大だなんてな。すげえよ」
セルゲイ・グロモフは少し離れて立ち、眉を寄せる。
「ここにいるほど、疑問ばかり増える。この場所はいったい……誰が作ったんだ?」
春子は静かに窓の外を見つめたまま、胸の奥でざわめく不安を抑える。
父様は無事でいてほしい。
でも、この美しすぎる場所が、逆に不気味でならない。
中庭をさらに見回していると。
内側の建物の扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは、東洋風の伝統衣装を纏った若い男。
所作は優雅で、しかし自信に満ちている。
穏やかに頭を下げ、微笑む。
「ようこそ。お越しいただき、嬉しいです」
柔らかく、それでいて芯のある声。
一歩進み出て、手で内庭への通路を示す。
春子は隣の大和竜二郎に視線を走らせた。
周囲は静まり返り、張り詰めた空気。
誰もが感じていた。
これはただの訪問じゃない。
全てが計算され尽くした、最高レベルの舞台だ。
「どうぞ、お進みください」
男の目は真剣だが、温かい。
軽い風が衣装を揺らす。
壁の向こうは、別世界のような静寂。
重苦しい空気の中でも、この場所の魔力に抗えない。
皆、無言で好奇心を募らせながら、通路へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
内庭が広がった。
想像を遥かに超える、息を呑む美しさ。
濃い緑の木々。
完璧に整えられた生垣。
石段を伝う小さな滝。
だが、豪華な屋敷のようなゆったりした空気はない。
代わりに響くのは、訓練の音。
若い生徒たちが、完璧な同期で技を繰り出す。
打撃、受け、流れるように。
まるで精密機械の一部のように。
だが、すぐに全員の視線が中央に釘付けになった。
二人の男が、激しく交戦中。
片方は黒髪の青年、片手に刀。
もう一人は長身、白い長髪に黒尽くめの服装。
両目を隠す眼帯。
それでも、動きは自信に満ち、獣のように鋭い。
「悪くないぞ、ナギ。だが、まだ足りん! もっと強く!」
落ち着いた声に、鉄のような確信が宿る。
結果など、すでに知っているかのように。
「精進します、先生!」
青年は息を荒げながら応える。
客たちは最初、何が違和感なのか分からなかった。
訓練場なんて、数え切れないほど見てきた。
でもここは違う。
教えているんじゃない。
育てている。
そして、誰も予想していなかったことが起きた。
先生が杖を投げ捨てる。
手を伸ばし、二本の指を生徒に向けた。
その仕草自体が、どこか不気味。
「準備はいいか?」
静かに問う。
口元に浮かぶ笑みは、ろくな予感がしない。
ナギは息を整え、刀を強く握り直す。
構えを取る。
「はい!」
疲れていても、声は揺るがない。
ケイトが頷いた。
そして——狂気と愉悦が混じった、大きく引きつれた笑みを浮かべる。
「上等だ」
客たちは感じた。
空気が変わった。
周囲が一瞬、圧縮されたような感覚。
次の瞬間。
ケイトの指先から、赤い光が爆発的に集まる。
鮮烈なエネルギーの塊。
「何!?」
誰かが叫び、誰かが息を呑む。
誰も理解できない。
だが、これは間違いなく——本物だ。
赤い塊が、甲高い音を立ててナギへ飛ぶ。
青年は微動だにしない。
刀を一閃。
紅い光を、紙のように両断した。
残光が散り、火の粉のように消えていく。
短い、死のような静寂。
そしてケイトが、ゆっくりと拍手した。
笑みはさらに広がる。
「見事だ」
落ち着いた足取りでナギに近づく。
さっきの出来事などなかったかのように。
「ありがとうございます、先生!」
青年は微笑み、刀身を指で撫でて確かめる。
周囲の生徒たちは平然と訓練を再開。
ケイトは悠然と両手を背後に回し。
ナギは深く礼をする。
だが、客たちは——
完全に凍りついていた。
言葉が出てこない。
フリードリヒ・ヴァイスがゆっくりとルドヴィク・デュポンに視線を向ける。
だが、ルドヴィクも拳を握りしめたまま、ただ前を見つめるだけ。
山戸廉次郎は瞬きを繰り返し、喉が渇いて声が出ない。
エレナ・グロモワは震える息を吐き、父を見る。
セルゲイ・グロモフも、頭を殴られたような顔で固まっていた。
ユルゲン・ヴァイスが小さく呟く。
「こんなの……あり得るのか?」
誰も答えられない。
答えを知っている者など、いなかった。
春子は震える指で唇を押さえ、胸の鼓動を抑えようとした。
父様はここにいる。
でも、この場所は——想像以上に異常だ。
一体、何が待ち受けているというの?




