第14話「待つ影、迫る牙」
「じゃあ、俺たちただ座ってるだけか? なんで早く言わなかったのよ!」
大和晴子が苛立った声で切り込んだ。静寂を裂くような鋭さ。
「それが問題なんです、お嬢様……」
清澄忠が重い溜息を吐き、テーブルに肘をつく。
「私も何度も接触を試みたんですが……あの方はまるで溶けるように消えてしまう。これは……純粋な異常現象です。医学史上、最も稀なケース!」
その言葉を口にするだけで、彼の目は曇った。毒でも飲んだかのように。
「何……!?」
晴子が突然、清澄の肩を掴む。爪が布地に食い込み、瞳が鮮やかな紅に輝く。
冷たい恐怖が漂うはずなのに、今は怒りが勝っていた。
清澄はよろめきそうになるのを必死に堪えた。
こんなお嬢様、見たことがない。
意志が刃のように鋭く、いつ自分に向くかわからない。
「私にも理解できません」
彼は声を落ち着かせながら続けた。
「痕跡が数分で消えてしまう。変数が多すぎて、どれ一つとして答えに繋がらない」
「ただ一つ分かっているのは……あの方、あるいはその拠点が、東京の郊外にあるということです。すでに人を雇って徹底的に調べさせていますが……」
清澄の声が弱まる。
「何の痕跡も。確かなものは何も」
晴子はまだ肩を離さない。氷のような視線なのに、底知れぬ力が宿っている。
失敗なんて、許さない女だ。
「お前、わかってるの?」
静かだが、ナイフのように鋭い言葉。
「こんなに簡単に探せないってことは、どんな人間か……」
清澄は視線を合わせる。彼女の瞳に、怒り以上の闇を見た気がした。
「わかっています」
重い溜息。
「ですが、最精鋭の者たちでも、わずかな痕跡すら見つけられない……まるで消えてしまったかのように」
パチン。
指を鳴らすと、護衛たちが一瞬で壁際に並ぶ。
顔は石のように硬く、迷いなど微塵もない。
命令を待つだけ。
晴子は彼らを一瞥もせず、清澄に向き直る。
紅い瞳が燃える。
「みんな、聞いたわね?」
静かな声なのに、空気を切り裂く。
「その男を探しなさい。名前は? 清澄さん」
清澄がゆっくり顔を上げる。重い空気を噛みしめるように。
「ケイト……と呼ばれています。ただし、それは仮の名かもしれません。本名を知る者は、恐らくいない」
「ケイト」
晴子がゆっくりと繰り返す。舌の上で味わうように。
唇は動かないが、瞳に炎が灯る。
「見つけなさい。もし失敗したら……命で償うことよ」
言葉が終わる前に、護衛たちは振り向き、廊下へと消えた。
重い静寂が残る。
清澄は立ち尽くす。瞳に不安がよぎる。
結果を出せなければ、あれはただの脅しじゃない。
晴子は失敗を許さない。
部屋の隅のテレビが薄暗く光る。
画面の片隅に、小さな点が脈打っていた——どこかの影に仕込まれた盗聴器。
だが、晴子の注意は別の画面に奪われる。
そこに映るのは、彼女。
黒髪が艶やかに輝く、美しい顔。
落ち着いた自信に満ちた表情。
夜のように深い瞳は、無数の陰謀を秘めている。
姿勢は完璧。一本の足を優雅に組み、獲物を狙う猫のよう。
黒いドレスはシンプルだが贅沢で、体のラインを妖しく浮かび上がらせる。
周囲に立つ護衛は、黒い巨漢たち。だが彼女の存在の前では、ただの背景。
彼女は古酒の入ったグラスを上げる。
ゆっくりと一口。
視線はテレビ画面に固定されたまま。
そして、氷のような声が響く。
「聞いたわね、犬ども? 包帯の男を探しなさい」
感情は一切ない。だが、冷たい脅威が込められている。
護衛たちは無言で頷き、影のように廊下へ消える。
「はい、リンフェイ様」
絶対の服従。声にわずかな震えが混じる。
彼女が一瞬で命を奪えることを、誰もが知っている。
この娘は、ただの後継者じゃない。
中国ビジネスと魔術の世界で、最も危険な存在の一人。
趙リンフェイの娘。あの施設での毒事件で多くを失った父の後を継ぎ、暗部で戦争の行方を決める女。
今、彼女の標的はただ一つ——あの男を見つけること。
どんな手段を使っても。
◇◇◇
捜索は長引いた。
一歩ごとに資源が尽きそうで、疲労が積もる。
だが、すべてが霧の中。
晴子の勢力は手探りで進む。
具体的な情報は水のように指の間から零れ落ちる。
やがて、本物の沈黙の壁にぶつかった。
日本の闇社会の首領たち——恐怖を知らないはずの男たちが、ケイトの名を聞くだけで顔を青ざめさせる。
目が合っただけで、すべてがわかった。
呪われた名。
誰も口を開かない。霧に絡め取られたように。
「ケイトについて、何を知ってるの?」
晴子の声に脅威と焦りが混じる。
部下の前で弱さは見せられない。
だが、向こうの者たちは視線を交わすだけ。
重い沈黙。
本物の恐怖。
ただの黙秘じゃない。恐れの壁だ。
誰も何も語らない。
それでも、誰もが知っている——恐ろしい真実を隠していると。
ケイトの権威……
その名は単なる伝説じゃない。
闇社会の頂点すら凌駕する何か。
晴子の家系でさえ、対抗できない。
最も暗い秘密を暴き、闇の王たちを震え上がらせる存在。
晴子は悟る。
これはただの追跡じゃない。
想像もできない敵だ。
ケイトとは、一体何者?
どうして日本の最暗部すら、その名を恐れる?
◇◇◇
部屋は静寂に包まれていた。
晴子は肘をつき、視線を集中させる。
考えが乱れる。
最悪の事態——闇社会との全面戦争さえ覚悟していた。
だが、運命はいつも予想外だ。
電話が鳴る。
晴子は画面から目を離さず、受話器を取る。
相手は清澄。声に疲れ以上のものがあった。
「お嬢様……手がかりを掴みました。あの方を、見つけました」
晴子の心臓が一瞬止まる。
だが、すぐに平静を保つ。
この世界で感情は邪魔でしかない。
それでも、清澄の声に不安が滲む。
「ケイト?」
「はい。しかし……思ったより単純じゃありません。あの方は隠れていたわけじゃなく、ただ……私たちを待っていたんです。場所はわかりましたが、何を望んでいるのかは……」
その言葉に、晴子の注意が鋭くなる。
電話を耳に押し当て、隠された意味を探る。
「すべて話して」
命令口調がさらに冷たくなる。
清澄が一瞬沈黙し、言葉を選ぶ。
「追跡の末、東京南部、ほぼ放棄された古い基地に辿り着きました。護衛は何人かいましたが……誰も口を割りません。すべてが霧の中です。ただ一つ確かなのは——そこにいるのは、ただの人間じゃない。何か……もっと大きなものだということです」
ただの人間じゃない……
ケイトは、晴子がまだ理解できない存在。
闇社会を震え上がらせた名。
今も、影のように痕跡を残さない。
「わかった」
晴子は静かに答える。
頭の中で、これまでの疑問が少しずつ形を成し始める。
彼は逃げていない。恐れていない。
この世界が想像もできない何かだ。
余計な言葉は求めず、そっと受話器を置く。
部屋の緊張はさらに増す。
晴子は立ち上がり、窓辺へ。
夜の東京の灯りが、平和そうに広がる。
だが、その裏で蠢く混沌を、彼女は知っている。
《もし本当に、私たちを待っていたとしたら……》
《何を仕掛けてくるつもり?》
答えは、もうすぐそこにある。
だが、準備はできているのか——自分でもわからない。




