第13話 「絶望と希望の狭間で」
唇を優雅に結ぶ。
視線を画面へ移す。
長い、洗練された爪の指が。
テーブルを滑るように動く。
電話の受話器に触れる。
一瞬。
部屋の空気さえ静まる。
次の動きを待つように。
——二度言わせないで、犬。
静かな声。
氷のような脅しが潜む。
一言一言が鋭い針。
刺さる寸前。
ボタンを押す。
通話を切る。
姿勢を変えずに受話器を置く。
椅子に座る姿は。
獲物を狙う猫。
すべてが彼女の支配下。
黒い髪が肩に軽く触れる。
黒絹のよう。
赤い瞳。
周囲を凌駕する輝き。
冷たく、計算高い。
豪奢な書斎。
すべてが地位と影響力を語る。
高級な香水の匂い。
金の額縁の絵画。
薄い磁器のカップ。
彼女の世界での位置を示す。
その時。
ドアが僅かに開く。
入ってきたのは番犬。
石像のように動かない。
厳格なタキシード。
黒いサングラスで目を隠す。
数歩進む。
役割をわきまえて。
——奥様、ただいま清澄忠氏がお見えです。
敬意を込めた、抑揚のない声。
ゆっくりと首を巡らせる。
唇が薄く弧を描く。
ほとんど見えない微笑み。
瞳に何か。
捉えどころのない、魅惑的な光。
——忠……。
興味を帯びた囁き。
——何を待ってるの? 父の元へ案内して。
——長居はさせないで。時間の無駄は嫌いよ。
番犬が頭を下げる。
足取りが鋭く速くなる。
彼女の前では一分一秒がゲーム。
計画を乱すものは許されない。
ドアが閉まる。
再び思考に沈む。
赤い瞳は感情を表さない。
だが内に秘めた力。
これからの瞬間が決定的になる。
椅子から立ち上がる。
優雅に伸びをする。
獲物を前にした肉食獣。
軽い、ほぼ無音の足取り。
黒髪が背中を波打つ。
ドアへ向かう。
大和晴子。
この家の女主人。
生まれ持った美貌だけじゃない。
一挙手一投足から滲み出る権力。
豪華な階段を上る足音。
一歩ごとに響く。
この屋敷では、すべての歩みが権力への階段。
壁には名画とステンドグラス。
光が乱反射して、謎めいた空気を生む。
まるで建物そのものが彼女の策略の一部。
登る姿は静か。
すべてが計算済み。
父の居間へと続く扉の前。
黒スーツの護衛が二人。
両脇に立つ。
視線を合わせられない。
役割をわきまえている。
晴子は気にせず。
ゆっくりと扉を開ける。
室内は静寂。
時折、抑えた話し声。
プロフェッショナルたちの音。
医師たちは冷静に。
弁護士たちは一瞬も無駄にしない。
囁き合う声と。
ベッドから漏れる弱々しい息遣いが混じる。
父、大和竜二郎。
そこにいる。
状態は外部の目から隠されている。
昨日までこの家の頂点に君臨した男。
威圧感は今も消えない。
脈を取る手。
清澄忠。
傍らに座り、落ち着いた様子。
慣れた指先で確かめる。
視線は祖父に集中。
忠はただの医者じゃない。
盟友。
信頼される存在。
晴子との絆は細く、しかし固い。
晴子は閾で足を止める。
赤い瞳が室内を滑る。
全員が凍りつく。
忠でさえ。
一歩踏み出す。
再び静寂。
父の前に立つ。
父は彼女を見る。
表情に多くの言葉が宿る。
口には出さない。
すべては決まっている。
《父上……もう時間ね》
あの事件から数週間。
大和竜二郎。
投資者の一人として。
閉鎖された施設内で毒物を吸い込んだ。
最初は異常なし。
帰宅後、いつも通り。
苛烈な商談。
眠れぬ夜。
果てしない報告書。
だが徐々に。
影が濃くなる。
喉の違和感。
小さなもの。
次に咳。
最強の薬でも止まらない。
やがて疲労。
脱力感。
喀血。
意識喪失が日常に。
一見、普通の毒物反応。
だが実態は違う。
もっと恐ろしい。
緊急入院。
医師たちの結論は残酷。
稀な、進行性の疾患。
毒物によるもの。
体内をゆっくり蝕む。
病名すら特定できない。
症状が独自すぎる。
治療はほぼ不可能。
対症療法だけ。
それで食い止めるしかない。
だが状態は悪化の一途。
病は遊び心を持つかのよう。
少し持ち直すと。
さらに激しく襲う。
晴子は傍らにいる。
いつも通り耐える。
荒れ狂う海の岩のように。
だが日ごとに。
無力感が増す。
最高の医師たち。
高額な治療。
夜通しの協議。
医師と科学者で埋まる部屋。
それが日常。
楽にはならない。
すべてを支配してきた人生に。
唯一の未知。
予測不能。
制御不能の存在。
瞳の光が薄れていく。
足取りが重い。
疲労を隠せなくなる。
病との闘いだけじゃない。
勝てない努力の果て。
かつての不屈の精神。
今は疑問を抱く。
晴子は額に手を当てる。
弱々しく。
忠の顔を見つめる。
わずかな変化を求めて。
だが心に希望はもうない。
忠の吐息。
目に疲労。
あるいは疑念。
何をまだ期待しているのか。
——今日の容態は? 少しは良くなった?
声は平坦。
自分でも信じていない。
何度も繰り返した言葉。
忠は無言で竜二郎を見る。
唇を結ぶ。
モニターの数値に視線を止める。
ゆっくり立ち上がる。
何かから逃れるように一歩。
重い声。
——これまで通り、改善の兆しはありません。
まるで宣告。
晴子は知っている。
父はただの患者じゃない。
自分の世界そのもの。
胸が締めつけられる。
かつて無敵に見えた男。
まだ戻れるのか。
《父上……もう、限界かしら》
彼女は動かない。
絶望の淵に立ちながら。
まだ諦められない。
——でも……?
声はかすか。
だが絶望だけじゃない。
何か別のもの。
忠が合図する。
重要な話があると。
——俺を気でも狂ったと思うかもしれない、晴子。
視線を合わせる。
弱く、わずかに緊張した笑み。
——でも一つだけ言わせてくれ。
晴子はすべてを忘れる。
彼を見つめる。
期待に満ちた瞳。
この医師が最後の支え。
彼の言葉が。
絶望の闇に飲み込まれるのを防ぐ。
——数年前、似た症状の患者がいた。
——俺もお前と同じく、終わりだと思った。
——治療後、回復の見込みなしと告げて去った。
——死ぬと確信していた。
——だがしばらくして、また出会った。
言葉がすぐには届かない。
晴子は動かず。
一言ずつ噛みしめる。
内なる痛みが息を詰まらせるのに。
——それで……その人は?
声に緊張。
今は完全に忠に集中。
忠が息を吐く。
瞳が少し生き返る。
自分で驚いているかのように。
一歩近づく。
言葉をただの情報じゃなく。
鍵にするために。
——幻なんかじゃなかった。
——生きて、元気で、活力に満ちていた。
——顔が変わっていた。体重も増えていた。
——俺の患者だった男は……まるで存在しなかったように消えていた。
言葉を切る。
自分でも信じられない様子。
——どうして?
晴子は抑えきれず。
声が飛び出す。
不安と驚愕に満ちて。
忠が微笑む。
満足じゃなく。
かすかな悲しみ。
答えを探しているような。
——俺も衝撃を受けた。
——だから再会した時、声をかけた。
——カフェで座って、聞いた。
——なぜ急に病気が消えたのか。
——彼は言った。奇妙な男に拾われたと。
——奇妙な男?
晴子は考える。
思考が疾走する。
あらゆる可能性を駆け巡る。
胸が締めつけられる。
重要な何か。
まだ理解しきれない。
——ああ。
忠が頷く。
——目隠しをしていた。
——その男は妙な振る舞いだった。
——だが一番驚くべきは。
——治療は普通の医学とは無関係だと言ったこと。
——何か……異質な方法だった。
忠は言葉を止める。
晴子を見る。
——説明できない。
——だが医学の奇跡じゃない。
——我々が知るすべてのものを超えた何かだ。
晴子は立ち尽くす。
現実がぼやけるような。
信じたい。
だが疑念が蝕む。
毒のように。
奇妙な男。
信じがたいはずなのに。
言葉の奥に何か。
自分の人生に抗えない何かが起きている。
——もしこれが……私たちが待っていたチャンスだとしたら?
忠が囁く。
自分自身を抑えるように。
晴子は目を閉じる。
馴染みの世界が遠ざかる。
理解不能なものが迫る。
心臓が速く鳴る。
瞳に小さな光。
希望の欠片。
《本当に……そんな人がいるの? 父上を救えるかもしれない……》
この章では、大和家の運命が大きく揺れ動きました。絶望の淵に立つ晴子、そして父・竜二郎の命。
しかし、最後の瞬間に差し込むかすかな光——奇妙な男の存在——は、希望なのか、それともさらなる謎の始まりなのか。
読者の皆さん、ここで立ち止まって考えてみてください。
あの“奇妙な男”とは一体誰なのか?
彼の力は本当に医学を超えているのか?
そして、晴子は父を救うことができるのか?
感想や予想を、ぜひコメントで聞かせてください。
あなたの考え一つひとつが、物語の新たな視点になります。
次の章では、さらに緊迫した展開が待っています。
皆さんの推理や期待を胸に、私は物語を紡ぎ続けます。




