第12話「霧の中の覚醒」
秘密の複合施設。ヨーロッパ某所。
足音が響く。
白く無菌的な地下廊下。
空気には微かな消毒薬の匂い。
薄暗い照明と磨き上げられた床。
ここは外部の目が届かない場所だ。
先頭を歩くのは白衣の男。
銀髪をきっちり撫でつけたドクター・マーカス。
眼鏡が冷たい光を反射する。
この施設の主任研究者。
プロジェクトの総責任者。
背後にはゆったりとした足取りの者たち。
世界のすべてを手に入れてきた者たち。
富豪、財界の巨頭、政治の影の支配者。
質問などしない。
結果だけを求める連中だ。
最初に口を開いたのはセルゲイ・グロモフ。
重い視線、金の袖口ボタン、ルビーの指輪。
「何百万も突っ込んだんだ、ドクター。期待を裏切るなよ」
隣を歩くチャオ・リンフェイ。
中国の産業王。
技術とバイオで巨万の富を築いた男。
高級ネクタイを直しながらマーカスを見る。
「その通り。この規模のプロジェクトが失敗するわけにはいかない」
「我々の投資は金だけじゃない……秘密も含めてな」
声は穏やかだが、底に脅しが潜む。
マーカスが振り返る。
自信に満ちた顔。
「ご心配なく。実験は成功しました」
後ろから鼻で笑う声。
リュドヴィック・デュポン。
フランスの貴族。
欧州最大の製薬企業の主。
ゆっくりと手袋を外し、壁を指で撫でる。
埃一つないか確かめるように。
「綺麗な言葉だ。だが我々が来たのは演説を聞くためじゃない」
「結果を見に来たんだ」
「もういい」
リチャード・ウィンタース。
アメリカの武器商人。
葉巻を振り回す。
声は鋭い。
「金をかけたものを見せてくれ」
マーカスは鋼鉄の巨大な扉の前で止まる。
掌をセンサーに当てる。
赤いランプが点滅。
緑に変わる。
重い機構が唸りを上げて開く。
「ようこそ、未来へ」
扉の向こうは巨大なホール。
無数のモニターが明滅。
ガラスカプセル。
制御パネル。
中央の巨大タンク。
透明な淡青色の液体。
その中で浮かぶ人影。
平均より高い身長。
完璧な筋肉。
肌は金属のような光沢。
目は閉じたまま。
体を細いエネルギー糸が包む。
「プロジェクト・エーテル」
マーカスが荘厳に告げる。
「寿命の延長。超高速再生。身体能力、知能の劇的強化」
「総額数十億ドル。世界最富裕層による極秘コンソーシアムが資金提供」
ホールに沈黙が落ちる。
デュポンが小さく口笛を吹く。
「……くそ、これは本物か。世界が変わるぞ」
ウィンタースがニヤリと笑う。
葉巻をくゆらす。
「ただし、制御不能にならなきゃいいがな」
チャオは目を細めてタンクを見つめる。
頭の中で計算が回る。
「いつ動くところが見られる?」
マーカスは意味深に微笑むだけ。
「もうすぐです」
突然。
鋭い警報音。
赤いランプが点滅。
ホールが血の色に染まる。
サイレンが轟く。
「ドクター! 数値が急上昇!」
助手が叫ぶ。
端末に必死でコマンドを打ち込む。
「生命維持システムが……制御不能です!」
モニターが乱れる。
エネルギー跳ね上がり。
過負荷。
エーテルの流れが不安定。
数字が赤く警告。
「直ちに電源を落とせ!」
マーカスが怒鳴る。
無駄だと知りながら。
「流量を止めろ! 止めろ!」
「反応が……ありません!」
富豪たちがざわつく。
「何が起きてるんだ!?」
グロモフが唸る。
体が強張る。
金杖を握りしめる。
「何百万も払ったんだぞ、マーカス!」
チャオが後退る。
毒を吐く。
「こんな茶番じゃない!」
「状況を掌握できていない!」
マーカスが助手をおしのけて中央端末へ。
指がキーを叩く。
緊急リセットを試みる。
遅かった。
モニターが震える。
システムが暴走。
タンク内のエネルギー糸が火花を散らす。
ガラス表面を這う。
そして——
静寂。
息を呑むような。
次の瞬間。
「爆発する! 逃げろ!」
マーカスが絶叫。
キーを叩き割る勢い。
「何!?」
「爆発だと!?」
ウィンタースが後退る。
本能が叫ぶ。
「扉を! 扉を閉めろ!」
デュポンが一番に出口へ走る。
だが。
ガチャン。
自動ロック。
密閉された。
「開けろ!」
誰かがセンサーを殴る。
「警報を!」
「もう鳴ってる!」
助手が髪をかきむしる。
そして。
タンクが破裂。
バキィィィン!
青い液体が溢れ。
超硬ガラスが飛び散る。
中の人影が動く。
そして——
霧。
不気味な。
息苦しい。
生き物のように広がる。
瞬時にホールを覆う。
粘つく濃霧。
「これは……!」
グロモフが咳き込む。
喉を押さえる。
「息が……できない……」
デュポンが膝をつく。
「フィルターが……停止……!」
誰かのうめき。
◇◇◇
バァン!
ラボの扉が吹き飛ぶ。
突入する黒ずくめの特殊部隊。
戦術装備。
防弾ベスト。
重火器。
全員対ガスマスク。
「周囲確保!」
隊長の号令。
素早い展開。
グロモフを支える二人。
チャオたちを銃口で制圧。
「連れ出せ! 今すぐ!」
バゴォォン!
大爆発。
地下施設が揺れる。
天井からコンクリートが降る。
衝撃波。
マーカスがいた扉が吹き飛び。
炎の渦。
「くそっ!」
グロモフが咳き込む。
煙が肺を焼く。
部下に支えられる。
「グロモフ様、急いで!」
「分かってる!」
怒りと恐怖で顔が歪む。
チャオは無言。
燃えるラボを一瞥。
袖の埃を払う。
わずかな苛立ちだけ。
「チャオ様、車両用意済み。ルート確保」
「何が起きた?」
ドイツ人の投資家、フリードリヒ・ヴァイス。
震える手で葉巻に火をつけようとする。
「金をつぎ込んだものが燃えたってことだよ」
グロモフが睨む。
「もしかしたら全部じゃないかもな」
チャオが静かに言う。
袖口を直す。
「だがここで捕まれば牢獄行きだ」
「パイロットはどこだ!」
「ヘリで待機」
「なら動く!」
グロモフが走る。
護衛に囲まれ。
チャオは落ち着いて続く。
ヴァイスたちは遅れて。
背後で爆音が続く。
煙と赤い警告灯。
「この施設のセキュリティは何だ!」
ヴァイスが叫ぶ。
「失敗したら証拠を消すシステムだ」
グロモフが吐き捨てる。
「こんなために金を出したんじゃねえ!」
「お前がこのゲームを選んだんだ、セルゲイ」
チャオが軽く笑う。
「仏教みたいな落ち着きはくそくらえだ!」
チャオは微笑むだけ。
アンガーへ。
ヘリのローターが回る。
「ご搭乗! 今すぐ!」
「空気組成をチェックしろ!」
ヴァイスが振り返る。
「何が漏れたか分からん!」
「待ってる暇はねえ!」
グロモフが飛び乗る。
チャオは静かに座る。
手を膝に置く。
離陸。
最後に見た光景。
黒煙が施設を飲み込む。
炎と灰の中へ。
すべての秘密が。
プロジェクト・アテナは公式に消滅した。
……本当に?
《……あの霧は何だったんだ。体がまだ熱い。まさか、俺たちも……》




