第9話「目覚める剣の記憶」
朝の空気は冷たく澄んでいて、まるで時間がわざとゆっくり流しているみたいだった。
楓の葉が風に揺れ、さらさらと絹を擦るような音を立てる。
豪奢な和風庭園に囲まれた屋敷は、自然と建物が溶け合うような静けさに包まれている。
綾奈は早起きしてしまった。
理由はない。ただ、この朝の静寂を味わいたかった。
薄手のカーディガンを羽織り、髪を軽く整えて外に出る。
足元で細かい砂利が小さく軋んだ。
湿った草と針葉樹の香りが鼻腔をくすぐり、頭が冴える。
ゆっくり歩く。
石灯籠、精霊の像、人工の小川にかかる反橋。
古い瓦屋根の建物。
どれも美しい。
そのとき、遠くから響いてきた。
ドン、ドン。
重くて規則正しい、太鼓みたいな音。
好奇心が疼いた。
綾奈は音のする方へ、木々をかき分けて進む。
開けた訓練場に出た。
そこに広がっていたのは、まるで時代劇のワンシーン。
長い黒髪の少女が槍を構えている。
真剣な瞳。動きは流れるように美しく、殺意すら感じさせる精度。
対するは、若い男。
手に刀。表情は硬く、明らかに経験は浅い。
それでも目は燃えている。
端では二人の見物人がいた。
片方は小柄だけど筋肉質、パンダの覆面をつけた男。
口に枝みたいなものを咥え、にやにやしながら座っている。
隣は、痩せた青年。
顔の半分までマフラーで隠し、まるでそこにいないかのような存在感。
綾奈は木陰に身を潜めた。
息を殺して見つめる。
槍と刀がぶつかるたび、鈍い音が響く。
少女の動きが圧倒的だ。
「手をもっと上げなさい! そのままだと一瞬で弾かれるわよ」
厳しい声に、少しだけからかうような響き。
「わかってるって!」
男が苛立ちながら返す。
それでもすぐに構えを直す。
木漏れ日が刃に反射して、きらきらと光が踊る。
パンダ覆面が隣の青年に手を伸ばした。
「賭ける? あと五分持つかどうか」
青年は無言で頷くだけ。
目だけが、少しだけ鋭くなった。
綾奈は息を潜めたまま、目を離せない。
規律と緊張と、圧倒的な技術。
ただの訓練じゃない。
魂と体の戦いだ。
少女が最後の突きを放つ。
刀が弾かれ、男は背中から地面に倒れた。
「はあ……はあ……」
荒い息。
でも折れてはいない。
「やるじゃん、カイオ! さすがだぜ!」
パンダ覆面が立ち上がって拍手。
大きな笑顔。
少女——カイオは、額の汗を拭いながら満足げに笑う。
槍を肩に担いで、勝ち誇った猟師みたいに。
「今日こそ一発でも当てられると思った?」
倒れた男に向かって、からかうような声。
「くそ……カイオのやつ……」
男は地面に寝転んだまま呟く。
でも口元が少し緩んでいる。
そのとき。
カイオの視線が、ぴたりと木々の間に止まった。
鋭い目が細まる。
「おーい、隠れてる子!」
綾奈の心臓が跳ねた。
やばい、バレた。
仕方なく木陰から出てくる。
頬が熱い。
カイオは眼鏡を押し上げて、にやりと笑った。
「一緒にやらない?」
さらっと言われた。
「私、もう男の子は全員倒しちゃったし。君なら面白そうよ?」
綾奈は瞬きした。
視線が、槍、地面に落ちた刀、息を整える男の擦りむけた手のひらを往復する。
「私……?」
「そう、君」
カイオは綾奈を頭からつま先まで値踏みするように見て、笑みを深くした。
「目がいいわね。やりたいんでしょ?」
綾奈は、気づけば頷いていた。
頭では「やめとけ」と叫んでいるのに、体が勝手に動く。
パンダ覆面が隣の青年と目配せ。
「お、これは面白くなってきた」
「十七秒」
短く答えた青年に、パンダがくすくす笑う。
綾奈は一歩踏み出す。
恐怖より、参加したい気持ちが勝った。
カイオが訓練用の竹刀を差し出す。
「じゃあ、行くわよ?」
綾奈はそれを受け取った。
「うん」
右足を前に出し、竹刀を上段に構える。
動きは自然で、まるで体が覚えているかのように正確。
カイオの目が少し見開いた。
「その構え……まさか、ただの素人じゃないわね?」
笑みが消えて、本気の色が浮かぶ。
返事を待たず、カイオが動いた。
疾風のような突き。
槍の穂先が残像を引く。
綾奈は竹刀を振り下んで受け止める。
ガツン!
衝撃が腕を震わせる。
凄まじい速さと重さ。
息つく間もなく次の攻撃。
綾奈は横にステップしてかわし、反撃。
刃をカイオの肩に走らせる。
カイオは一歩退き、槍を回して防ぐ。
「やるじゃない!」
笑顔が戻る。
でも目は本気だ。
攻防が続く。
綾奈の筋肉が熱を帯び、息が深くなる。
相手の槍は、まさに体の一部。
次の突きはさらに速い。
受け止めたものの、足がよろける。
竹刀が槍の柄を滑り、穂先が肩をかすめる。
カイオがフェイント。
右に偽り、左から本命。
綾奈は後退し、八相の構えで受け身。
二人の息が荒い。
周囲の音が消えている。
「……やるわね」
カイオが小さく頷いた。
「でも、まだウォーミングアップよ」
言葉と同時に、再び突進。
今度は容赦ない連撃。
死にそうな速さ。
けれど綾奈は、もう守るだけじゃなかった。
横に滑り込み、槍の軌道を外す。
返す刀でカイオの手元を狙う。
「うおっ!」
パンダ覆面が声を上げた。
「この子、只者じゃねえ!」
カイオはギリギリで槍を引き、距離を取る。
目には明らかな尊敬の色。
「……面白い。もっと知りたいわ、あなたのこと」
にやりと笑って。
「続ける?」
綾奈は竹刀を構え直した。
瞳は、もう揺れていない。
心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。
汗が額を伝い、冷たい朝の空気に触れてひんやりと冷える。
息が白く立ち上り、すぐに霧散していく。
カイオの槍が、再び静かに構えられる。
穂先が微かに震えているのは、興奮か、それとも——。
綾奈は一歩、間合いを詰めた。
竹刀の柄を握る手に力がこもり、指先が白くなるほど。
風が吹いた。
木の葉がざわめき、二人の髪を同時に揺らす。
カイオが動く。
今度は低く、地面すれすれの払い。
綾奈は跳び上がり、着地の勢いを乗せて斬り下ろす。
ガキン!
火花が散ったような錯覚。
竹と竹が激しくぶつかり、衝撃が肩口まで響く。
カイオが笑った。
本当に楽しそうに、目を細めて。
「いいわ……本当にいい」
声が低く、熱を帯びている。
綾奈も、気づけば口角が上がっていた。
怖くない。
痛みも、疲れも、全部が心地いい。
《……私、やっぱり戦うのが好きなんだ》
心の奥底で、ずっと閉じ込めていた何かが、静かに、でも確実に解き放たれていく。
朝の光が、二人の影を長く地面に落としていた。
まだ、終わらない。
終わらせたくない。




