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旅立ち

本編開始です。

鉄の匂いがしない朝は、生まれて初めてだった。


いつもなら、夜明けの薄闇を裂くように、父の打つ槌の音が響き始める。

それが世界のリズムそのものだった。だが今朝、鍛冶場は水を打ったように静まりかえっている。


タルカスは、鍛冶場の煤けた入り口に立っていた。

背負った真新しい革の背嚢が、肩に食い込んで痛い。

腰に差した長剣は、彼が昨夜、震える手で仕上げた自らの作だ。

売り物ではない、自分だけの「業物」。


背中には、まだ残り火が燻る炉の生ぬるい熱。 目の前には、霧に濡れた石畳と、どこまでも続く灰色の道。


「……行け」


暗がりで、鉄床の前に座ったままの父が、低い声で言った。

顔は見えない。

ただ、巨大な影だけが、使い込まれた道具の山の中で動いた。


「鋼は、冷たい水で鍛えられてこそ、本物になる。お前の世界は、もうこの炉の中にはない」


タルカスは振り向かなかった。


返事の代わりに、固く握った拳を一度だけ開く。

こびりついた鉄の匂いを嗅ぎ、そして、それを振り払うように一歩を踏み出した。


石炭の煙と汗の匂いが支配した世界に背を向け、彼は暁の冷たい空気の中へ溶け込んでいく。


タルカスは、生まれ育った小さな村の、その外れにある粗末な門をくぐった。


夜明け後の冷たい霧が、彼の黒髪をじっとりと湿らせる。

父の鍛冶場から離れるにつれ、体に染みついた石炭の匂いは薄れ、代わりに夜露に濡れた土と草の匂いが、真正面から鼻をついた。


村から続く土の道をしばらく歩くと、やがて磨かれた石が敷き詰められた中央街道に行き当たった。


道はただひとつ。


北へ、北へと続き、この地方一帯を治める侯爵の都「ジュナイス」へと至る道だ。


この国には古くからの「旅立ちの儀式」という習わしがある。

思春期を迎えた若者は、それが鍛冶屋の息子であれ、パン屋の娘であれ、一度は故郷の庇護を離れ、己の足で立つための旅に出ねばならない。

そうして見聞を広め、己の技を磨き、一人前の大人として認められるのだ。

父も、父の父も、かつてはこの道を歩いた。


だが、タルカスの胸に宿る目的は、炉に戻ることを是とした先祖たちとは違っていた。


ジュナイスへ行く。


あの壮麗な城壁都市で、彼は兵士に志願するつもりだった。

父や祖父が、熱い鉄を打つために槌を握ったのとは違う。

人を、国を守るために、冷たい鋼の剣を握る生き方を選ぶために。


そして、もし運命が許すなら――あわよくば、高貴な騎士の目に留まり、その従者として仕えたい。

鍛冶屋の息子が騎士を夢見るなど、身分違いも甚だしいと、村の誰もが笑うだろう。

だが、タルカスは知っていた。


最高の剣は、最高の打ち手によってのみ生まれる。

そして最高の使い手もまた、その剣に宿る鋼の心を理解せねばならない、と。


父の言葉が蘇る。


「鋼は、冷たい水で鍛えられてこそ、本物になる」


ジュナイスこそが、彼を鍛える「冷たい水」だ。


タルカスは、もう二度と背後を振り返らなかった。


父の打つ槌音が聞こえない世界で、彼は侯爵の都へと続く道を、確かな足取りで歩き始めた。

書き出しは難しいものですね。

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