第84話 覚悟と魔物とあらくれもの
私が叫ぶ間もなく、フェニ子の小さな体が吹き飛ぶ。
そのまま地面に叩きつけられたかと思えば、すぐに炎が彼女の体を包んだ。
その中心から「けほっ」とむせる声が聞こえてくる。
「……い、痛いのじゃ……」
ただ単に無謀なだけだったのか、それとも能力を見せる前にやられてしまったのか。
フェニ子はむくりと起き上がると、フラフラとした足取りで立ち上がった。
しかし、当り前だが獬豸は待ってくれない。
今度はフラフラしているフェニ子めがけ、ものすごい勢いで突進していった。
あの様子じゃ、突進を躱すのは難しそうだ。
仕方がない。ここは――
「紅月」
「ええ」
私の合図に紅月はうなずき、地面を蹴った。
次にステータス・オープンを展開すると、紅月の力をほんの少し上げる。
彼女はそれを受け取ったのを確認すると、獬豸の首めがけてナイフを振り下ろした。
「浅い……!」
紅月の言うとおり、突進の勢いこそ削がれたものの、出血自体はそこまで派手ではなかった。
しかし獬豸は一度紅月を睨みつけると、身を翻し、そのまま森の奥へと退いていった。
森に再び静寂が戻る。
焦げた木々からは煙が上がり、湿った土にその匂いが重く漂っていた。
「はぁ、なんなのよ、まったく……」
紅月は取り出した短剣を懐に仕舞いながら文句を言う。
「なんか、普通に襲い掛かってきたね」
「ええ。それに、わざわざ戻ってきてまで」
「梁さんの話だと危険はないって言ってたんだけど……」
「もしかして、嘘だったのかしら」
「それは……あんまり考えたくないことだけどね」
「だとすれば狙いは――」
紅月は腕を組み、片足に重心を預けて思案する。
彼女はもう完全に梁さんのことを怪しんでいるようだ。
私の意見は、たしかにこうなった以上、怪しく思われるのは仕方がない。
……とは思っているが、梁さんが私たちを騙すようなことはしないんじゃないかと思っている。ただ勘だけど。
それに――
「でも、さっきの獬豸って、私たちってより、フェニ子のほうを狙ってたような気がしたけど……」
「それは……そうね。私の短刀に驚いていたとはいえ、ダメージ自体はそこまでではなかった」
「反撃しようと思えば十分できた」
同じ魔物として、フェニ子から無視できない臭い? オーラ? みたいなものが漏れ出ていて、それが獬豸の癇に障った……とか?これも完全に勘だけど。
でも、それだと事前に梁さんから聞いていないとおかしいことになるし……。
「……まぁ、そこは臆病だったということかしら。でも真緒、貴女なんで中途半端な強化をしたの?」
「え?」
「もしあのまま反撃されていたら、危なかったわよ」
「そ、それもそうだね……ごめん……」
「……違うわ、真緒。私は謝ってほしいんじゃないの。貴女の強化を乗せた短刀で獬豸を仕留められたのに、なぜわざわざ死なないように加減したのかを訊いているの。……まさか、殺すのが可哀想だなんて思ってないわよね」
「そ、そんなことは……」
そんなことは思っていない。優先順位は私の中できちんとつけてある。
だとしたら、私はなぜあのとき、中途半端な強化をしたのだろう。
紅月の言うとおり、無意識的に獬豸の命を奪うことを忌避したのだろうか。
今さら博愛の精神に目覚めたから?
……いや、ちがう。
私はこれまでにもオオムカデをはじめ、いろいろな魔物の――
「いろいろな……」
命をこの手で奪ってきた。
……本当にそうだろうか。
今になって思い返してみると、私はオオムカデのときくらいにしか、生物の命を奪っていない。
それにあれは、どちらかというと戸瀬と牙神による功績のほうが大きい。
しかし先ほどの〝斬撃〟に関しては、私のさじ加減で生かすことも殺すことも出来た。
紅月も、私がそれなりに強化すると思ったので、突くのではなく斬るを選択した。
なら私は――
私自身の手で生物の命を奪うという行為に嫌悪している……?
「そんなはずは……」
なら仮に、あの酒呑童子や目の前の紅月があのとき降参せず、負けを認めなかった場合、私は容赦なく命を奪えていたのか?
他人が命を奪うことには特段なにも思わないのに、それが私に回った途端、それを忌避してしまう。
それはなんて――
卑怯なんだ。
だとしたら、私の能力がこの〝ステータス・オープン〟だった理由って――
「ビビったのじゃ。まさか親愛的が妾を強化してくれないなんて」
「……貴女、本当に空気読めないわね」
いつの間にかフェニ子がお腹をさすりながら、私たちの元へとやってきた。
「読んどるぞ、空気。お主が親愛的をいじめておるようじゃから、こうしてやってきたのじゃ」
「誰が誰をいじめてるってのよ」
「顔色が優れぬようじゃが、大丈夫か親愛的」
「うん、大丈夫。ちょっとだけ自己嫌悪になっただけだから。フェニ子は?」
「妾も問題ない。腹に穴が開いた程度じゃ。もう塞がっておる」
「そっか。フェニ子は強いね」
「うむ、ツラくなったら妾を抱くがよい。ほんのり温かいぞ」
「はは……ありがとね」
私はそう言うと、フェニ子の頭を撫でた。
「……まあいいわ。真緒、今回は鳥が腹を貫かれただけで済んだけど……」
「のじゃ!? いま妾のこと、鳥と言うたのか!」
「魔物たちは躊躇なく私たちを殺しにくる。貴女も、躊躇なんてしていたら死ぬわよ」
紅月から容赦のない言葉が飛んでくる。
けれど、同時に私のことを想って言ってくれているのもわかる。
「そうだね。……ありがとう、紅月」
「礼なんていらないわ。次から気を付けなさい」
命を奪う奪わないはともかくとして、魔物と対峙する時に気を抜くべきではない。
安全な依頼だからといって舐めたことをするのは、もうこれっきりにしよう。
私は気を取り直し、角を拾い上げる。
まだかすかに熱を帯びていたが、問題なく持ち運べる程度には落ち着いていた。
この手袋のおかげだろう。
「また獬豸が戻ってこないとも限らないし、ここは早めに立ち去りましょう」
「そうだね。ひとまず帰ろっか」
そうして私たちは、朝日を背に来た道を戻っていった。
◇◇◇
森を抜け、再び瑞饗へ足を踏み入れると、違和感を感じた。
相変わらず美食街は朝から活気がすごい。……んだけど、時折、しんと静まり返る瞬間があるのだ。
いままで笑顔で接客していた人たちも、私の顔を見るなり、その顔をこわばらせている。
「なんか私、警戒されてない……?」
「昨晩のことがあったからじゃないかしら」
「いやいや、どんだけ乱れてたのよ」
なんてことを紅月と話していると――
『姉御!』
『……アネゴ?』
妙に聞き馴染みのある呼称が私の耳に飛び込んできた。
私は声のするほうを振り返ってみると、そこには、路地裏から這い出してきたような荒くれ者たちが屯していた。
頭を半ばまで剃り上げ、油で固めた辮髪を垂らす者。
ぼろ布のような衣を腰に巻きつけ、素足のまま泥に踏ん張る者。
中でも目を引いたのは、胸いっぱいに墨を刻んだ大男だった。
裸同然の上半身に、絡み合う黒い文様が這い、腕を組んで仁王立ちしている。
『おはようございます、姉御。依頼ですか』
馴れ馴れしく話しかけてくるこの男は一体――
「……はっ」
その瞬間、今朝の紅月との会話を思い出す。
たしか昨晩は私に金を巻き上げられた人たちがいたとのこと。
もしかしてこの人たちは――
『あ、あの、お金は返すので勘弁してもらえませんか……?』
私がそう言うと男たちは目を丸め、互いに顔を見合わせた。
『金……ですか? もし昨晩のことを仰られているようであれば、返金は不要です。我々もいろいろと勉強になりましたので』
『べ、勉強……? なにか教えたんですか、私?』
『またまた。……では姉御、今はこの辺で。時間があれば、また夜にでも』
『なんの話!?』
男たちは一方的にそう言うと、ぞろぞろとどこかへ行ってしまった。
なるほど、どうやら昨晩の飲み食いを経て、あの男たちに気に入られてしまったようだ。
それにあの下手から来る感じ、私は一体、昨晩何をしていたんだ。
「……真緒、白雉国でもそうだったけど、こういうのはやめておいたほうがいいわよ」
「こういうのって?」
「悪そうな男共を周りに侍らせることよ。そういう男が好きな気持ちはわか……らないけど、ああいうのと関わると、貴女の品位ももれなく下がるわよ」
「ち、ちがっ、私のせいじゃないって……!」




