第83話 雷獣カイチ
まだ空が白み始める前の刻限。
私たちは瑞饗から出て、梁さんが指定した西の森へと向かっていた。
森に向かう小道は夜露を含んだ草の匂いで満ち、遠くで鶏が鳴く声すら聞こえてくる。
夜明けはそれなりに近そうだ。
「ふぉぉ……なぜこんな時間に森へ行くのじゃ……」
一方で、うちの鳥はどうやら朝に弱いようだ。
げっそりとした顔で肩を落とし、ふらふらとゾンビのように左右に揺れながら歩いている。
「昨日散々言ったでしょ。今日の朝は早いよって――」
かくいう私も――
「ふわぁ……っ」
フェニ子の眠気が移ってしまったのか、不意に出る欠伸をなんとかして噛み潰した。
「貴女も眠たそうよ」
「……だね。正直、昨日は食べ過ぎたし、飲み過ぎたから……」
さすがにはっちゃけ過ぎたのか、昨日の記憶はあまりない。
途中からはフェニ子の偏食を治すということも忘れ、飲んだり食べたりしていたと思う。
こうなってくると怖くなってくるのは財布への影響だが、幸い、どの屋台のご飯も安かったので、影響は少なかったのでは……と所持金を確かめてみたのだが、なぜか増えていた。
謎である。
「だから全然、お酒が抜けてないんだよね……」
口内からまだ酒のにおいがする。喉もカラカラだ。
起きてからきちんと水分補給はしたはずなんだけど、またすぐに水が欲しくなってしまう。
「貴女、知らないおじさんたちと肩を組みながら、飲み比べしていたものね……」
「えぇ……そんなことしてたの私……」
「呆れた。覚えてないのね」
「まったく。……なんか粗相してなかった?」
「飲み比べで負けた相手から金品を巻き上げてたわね」
「だめじゃん」
でも、なるほど。
お金が増えていたのはそういうことだったのか。
「そっかぁ……とりあえず帰ったら、お金返さないとね」
「べつに、いいんじゃないかしら?」
「いやいや、ダメでしょ」
「いいのよ、両者合意の上だったんだし。あちら側も文句はないと思うわ」
「いいのかな……それ……」
とりあえず今後一切、アルコール類を口にするのはやめておこう。
私は何度目かの誓いを心の中で立てると、獬豸がいるとされる森の中へ足を踏み入れた。
湿度はさらに増し、木々の間から朝靄が漂っている。
辺りはしんと静まり返っているので、鳥の羽ばたきや虫の声が、ひときわ大きく響いていた。
「うぷっ!? な、なんじゃこやつら!」
そして気が付くと、フェニ子の周りにいろいろな虫が集まっていた。
おそらく体がぼんやりと発光しており、誘蛾灯のように虫を引き寄せているのだろう。
おかげで、私たちは快適に森の中を進める。
◇◇◇
薄暗い森の中を散策していると、やがて、木々の影に淡く光るものを見つけた。
そこに佇んでいたのは、大柄な獣。
身近な動物で例えるなら、鹿に近いだろうか。
まぁ、鹿といっても白雉国で見るような小柄な鹿ではなく、一頭で大型のソリを引いてしまえるような体躯だった。
頭頂部から伸びた一本角は青白く輝き、火花を散らして周囲の草を焦がしている。
「あれが獬豸……」
「なにやら苦しそうに唸っておるのう」
「わかるの、フェニ子?」
「うむ。なにも言葉だけが意思伝達ではないからのう。大まかにじゃが、喜怒哀楽くらいならわかるぞ」
「なるほどね」
フェニ子ってば、魔物と意思疎通までとれるんだ。
さすがに魔物相手に勇者の翻訳機能は適用されないし、これから重宝することになりそうだ。
「む、そろそろじゃぞ」
フェニ子がそう言うと、獬豸は角をゴリゴリと木の幹に擦りつけ始めた。
角を擦りつけられた木は、やがてプスプスと音を立て、黒煙を昇らせる。
次に頭を大きく何度も振ると、角の根元が赤みを帯びていき、やがて――
東の空に少し陽光が差し込んできたところで〝パキリ〟と乾いた音が森に響く。
呆気ないほどに角は外れ、草むらに転がり落ちた。
そこからは白い蒸気が立ちのぼり、揺らめいている。
獬豸は落ちた角には一切目もくれることなく、静かに森の奥へと去っていった。
「……今のうちに回収しよう」
私たちは息を詰めながらその角へと近づいていった。
だが伸ばした指先に〝ぱちり〟と火花が走る。
「痛っ……! なんかまだビリビリしてる……」
「当たり前じゃない。直前まで木の皮を焦がすくらい、帯電してたのだから」
それもそうだ。
紅月の冷ややかな視線が刺さる。
「……けど、どうする? 電気が無くなるまで待つ?」
「どれだけ待てばいいのよ。それに、梁さんの注文はこの時間帯だったわ。だったら、先でも後でもなく、今じゃなきゃダメなんじゃない? 理由はわからないけれど」
「たしかにそうか。落ちた角拾ってくるだけなら、わざわざその時間帯に行かなくてもいいもんね」
私はふと梁さんから渡されていた、厚手の手袋を思い出した。
材質はゴムでできている。
「そっか、このために……」
私は手袋をはめ、角を慎重に掴もうとしたそのとき――
「親愛的、敵じゃ」
「敵?」
フェニ子に言われて顔を上げると、森の奥へ消えたはずのカイチが再び姿を現した。
まるで角を取り返しにきたと言わんばかりに、こちらをじっと睨みつけている。
その様子はあきらかに、こちらに対して敵意を剥き出しにしていた。
「なにやら怒っているようじゃの」
「それは見たらわかるけど、理由はわかる?」
「さあ。じゃが、交戦は避けられんようじゃ」
「え、獬豸って、穏やかで臆病な性格……なんじゃないの?」
「なにか獬豸にとっての地雷を踏んだのか、それとも――」
紅月がそこまで言って、懐からナイフを取り出した。
「呵呵、おぬしは引っこんでおれ」
「はあ?」
「よいよい、妾に任せるがよい!」
なぜかこの局面でフェニ子は紅月を押し退け、一歩前に出る。
「森に住んどる鹿風情、妾だけでも余裕じゃ! ならばここは、手ずから彼奴に引導を渡してくれようぞ!」
彼女は胸を張り、その小さな体で大きな影を睨み上げる
「おお……」
「来い! 獣よ!」
次の瞬間、煽られた獬豸がフェニ子めがけて突進する。
ここまで大見えを切るからには、やはり湯たんぽ以外にも戦闘機能が備わっているのだろう。
……にしても、すごいへっぴり腰だな。
そんなことを考えていると、獬豸の頭に閃光が走った。
無くなっていたはずの角が、ぼんやりと頭頂部に生えたのだ。
しかしどこか透けているため、おそらくあの角に実体はなく、魔力か何かで作られたものだということがわかる。
そして、角はバチバチと激しい電気を帯びると、やがて先端から電撃が放たれる。
電撃は一直線に飛んでくると――
「のじゃああああああああああああああああ!?」
「ふぇ、フェニ子おおお!」
フェニ子の腹部を貫いた。




