第81話 瑞饗にて鳳凰伏す
潮風が頬を撫でる。
燦花から船でおよそ一日。
ついに私たちは無事、丹梅国の港へと辿り着いていた。
船に架けられた橋板を渡りながら、私はぐいっと背伸びをする。
そうしてすぐに違和感に気づいた。
はじめての異国の空気は、白雉国のものと明らかに異なっていたのだ。
とりわけ〝におい〟が全く違う。
鼻腔をくすぐるのは、香辛料や魚醤が混じった濃厚な匂い。
耳に飛び込んでくるのは聞き慣れない言葉ばかり。
怒鳴り声も笑い声も、そのすべてが異質だ。
「うわぁ……やっぱ全然違うね、丹梅国」
「まあ、外国だし」
紅月が相変わらず冷静なトーンで、無難に返してくる。
「そういえば紅月って、異国の食べ物とか食べたことある?」
「ないわよ。そもそも、今まで白雉国から出たこともないもの」
「そうなんだ……」
「なによ、文句あるの?」
「えっと……」
なんだか、紅月の言葉にややトゲのようなものを感じる。
それもそのはずで、昨日からずっとフェニ子と言い合いをしていたのだ。
フェニ子がああ言えば紅月はこう返し、紅月がああ言えばフェニ子がこう返す。
四六時中そんな調子だから、自然と私への当たりも強くなったのだろう。
私も私で、後半は面倒くさくなって止めるのも放棄していたのだが、まさか二人がここまで水と油だとは思っていなかった。
今はまだ軽口を言い合っている程度だが、そのうち互いの地雷を踏みぬいてしまうかもしれない。
「……はぁ、ごめんなさい。貴女に当たるつもりはなかったの」
私が返答に詰まっていると、紅月はバツが悪そうに謝ってきた。
ここはなるべく早めに、対策を考えたほうがいいのかも。
「……って、あれ。そういえばフェニ子の姿が……」
いつの間にか、フェニ子の姿が見えなくなっていた。
しょうがないなと思い、あたりを探そうとするが――
「お、おいおい、嬢ちゃん! 大丈夫かい!?」
背後から男性の声が聞こえてくる。
振り返ってみると、私たちが先ほどまでいた甲板に、うつ伏せに倒れ込んでいるフェニ子の姿があった。
傍らにいた船員さんは心配そうに、フェニ子の体を揺すっている。
私はそれを見ると、急いでフェニ子の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたんですか……!?」
「お、おう、急にこの嬢ちゃんが倒れ込んでよ……」
私はフェニ子を抱き起こすと、彼女の表情を見た。
青い。
あきらかに体調がすぐれていない顔色だ。
でもいったいなぜ……?
「ちょっと、フェニ子。大丈夫なの?」
「むぅ……なんか力が出んのじゃ……」
私はフェニ子の額に手を当ててみるが……熱い。
かなり熱めの温泉くらい熱い。……でも、フェニ子は鳳凰。
私にはこれが平熱なのか、それとも風邪なのか判断がつかない。
「……すみません、船員さん。船医の方は……?」
「すまねえなあ。今回の航海は一日だからってんで、軽いけがを手当てできるヤツくらいで、医者は乗ってねえんだよ。見た感じ、嬢ちゃんは怪我ってわけでもねえんだろ?」
「そう……ですね」
私は再びフェニ子を見る。
たしかに外傷のようなものは見られない。
だとすれば、やはり船員さんの言うとおり、なんらかの病気の可能性が高い。
けど……この場合、果たして掛かるのは医者でいいのだろうか。
獣医……?
獣医なんて、この世界にいるのだろうか。
「そういえばよ、この港を出て北へ進んだところに瑞饗っていう都があるんだよ」
「瑞饗……ですか?」
「ああ、丹梅国で一番の都だ。そこなら間違いなく医者がいるはずだぜ」
「……わかりました。ありがとうございます」
「おう。気ぃ付けて行くんだぞ」
私は船員さんに頭を下げると、フェニ子をおぶって、再び橋板を渡る。
そうすると、紅月が疑わしげに目を細め、私の背後にいるフェニ子を見据えていた。
「……なにを話していたの?」
「なんか、体調崩したのかもって」
「体調? 残響種が?」
「うん。だから瑞饗に行って、お医者さんに診てもらおうかなって」
「……どうせ放っておけば勝手に復活するのでしょう?」
「それは……たしかにそうかもだけど……」
背後を振り返ってみるが、フェニ子はとてもゆっくりと息をしている。
風邪や病気というよりは、衰弱しているようにも見えた。
しかし、その原因にまったく心当たりがない。
「……どのみち、瑞饗へは行かなきゃなんだし、このまま連れて行こうよ」
私がそう言うと、紅月は目を丸めて驚いたが、すぐに大きなため息をついた。
「はぁ、本当に貴女は……でも、私は背負わないわよ」
「わかってるよ。フェニ子、そんなに重くないし、私が瑞饗まで運ぶから」
そう言って、私が軽くフェニ子を背負いなおすと――
「はぁ、もう……貸しなさい、それ」
紅月が私の背中から、フェニ子を奪うような形で抱きかかえた。
「ここから瑞饗までそれなりに歩くし、貴女力ないし、私が持ってあげるわ」
「あ、ありがとう……」
「ひとつ断っておくけど、これは鳳凰のためじゃないの。貴女のためなんだからね。私だけだったらこんなの、海の中に投げ捨ててるわ」
「それはどうかと思うけど……」
私は代わりに紅月の荷物を持つと、彼女はゆっくりとフェニ子を背負い、そのまま歩き出したのだが――
「うぅ……に、人間クサい……のじゃ……」
「……本当に捨ててしまおうかしら、この鳥」
◇◇◇
瑞饗へと続く城門をくぐった途端、むあっとした熱気に包まれた。
灰色の煉瓦造りの家屋が整然と並び、軒先からは赤い提灯が連なっている。
一見すると落ち着いた古都の趣だが、その実、大通りは混沌そのものだった。
両脇には屋台がひしめき合い、そこかしこから白い湯気がもうもうと立ちのぼっている。
鉄鍋を振る音、油が弾ける音、香辛料を炒める匂い。
一歩進めば別の香りが鼻を突き、さらに歩けばまた別の香りが追いかけてくる。
道行く人々はみな、串に刺した肉や焼いた餅、肉まんに湯気の立つお碗などなど、何かしらの食べ物を手にしながら歩き、声を張り上げ、笑い合っている。
「今日ってお祭りでもあるのかな……」
私がそうつぶやくと、隣にいた紅月が首を横に振った。
「いえ、瑞饗はわりと毎日こんな感じらしいわよ」
「ま、毎日!?」
「ここが〝美食街〟と呼ばれる所以ね。まさかここまで活気があるとは思っていなかったけれど……」
「び、美食街……とな……!」
聞いただけで涎が出てきそうだ。
でも、今はフェニ子のことが先決。
私は気を取り直して、紅月の後に続いた。
◇◇◇
診察室に通されると、初老の男が私たちを迎えた。
豪快な口髭を生やし、額に汗を浮かべながらフェニ子を診ている。
「……有脉搏。发烧也是……奇怪,体温的上升方式和人类不一样」
お医者様が丹梅国の言葉でそう話している……のだが、不思議と私は聞きとれていた。
紅月が言うには、勇者はこの世界の言葉なら、どんなマイナーな言語でも理解できるのだとか。
そして私がしゃべっている言葉も、自動的にその言語に出力されるとのこと。
うーん、便利。
「这是怎么回事?」
紅月がお医者様にそう訊き返す。
ここらへんはさすが元エリートなだけあって、彼女もそれなりに異国の言葉を話せるのだとか。
「这……不,对了,内脏的位置和人类不一样……? 这样的话,简直就不像是人类……!」
フェニ子の体を診ていたお医者様が取り乱し始めた。
「什,开什么玩笑啊。外表明明是人类吧?」
「不,以我所知的医学无法解释这种症状。难道这个女孩……」
これは……少しまずいか。
お医者様がなにかに勘づいてしまったみたいだ。
もしここでフェニ子が魔物だとバレてしまったら、どんなことが起きるかわかったものじゃない。
私と紅月は互いに目を見合わせると――
「非常感谢!」
私は頭を下げ、紅月と一緒にフェニ子を診察室から担ぎ出した。
背後で医者の困惑した声が追いかけてくる。
◇◇◇
外に出ると、港の喧騒が一層騒がしく感じられた。
私と紅月は人気の少ない路地に入ると、フェニ子を地面に横たえた。
その表情を見るに、先ほどよりも優れないように思える。
「これ、ちょっとまずいんじゃない?」
「鳳凰と一緒に依頼へ行ったときは、突然炎に包まれたのよね?」
「うん。急に動かなくなったと思ったら、炎に包まれて、それで全回復した感じ」
「なら、いっそのこと……やってみる?」
「なにを!?」
私がそう言うと、紅月は冗談だと言わんばかりに両手を顔の高さまで上げた。
「……看起来你们遇到麻烦了啊」
背後から声。
びくりと振り向く。
そこに立っていたのは、フードで顔を深く隠した男だった。
痩せた体格に、腰からは薬草や小瓶がいくつもぶら下がっている。
包帯に覆われた手が、ぎしりと小瓶を鳴らし、黒いマスクの奥からは低い笑い声が漏れていた。
「……您是何人?」
紅月が私とフェニ子の前に出て、警戒の声を上げる。
男は丸眼鏡の奥からこちらを覗き込み、口元を歪めた。
「我是个医生……不过不是治人类的,而是治疗别的病人的医生」




