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第80話 魔王の耳打ち


 燦花の港は朝から活気に満ちていた。

 潮風に混じる干物の匂い、波止場を叩く波音、行き交う人々の掛け声。

 そのざわめきの中で、私たちは荷をまとめ終え、出航の時を待っていた。


 綾羅の時とは違い、今度こそ見送りに来てくれたもっさんは、いつもの眼鏡とやる気のない書体で〝さらば〟とプリントされた、ヨレヨレの白Tシャツを着ていた。


「そんなにしんみりすることないっスよ。会おうと思えば、またいつでも会えるっス」

「そんなにしんみりしてるように見える?」

「あれ、してないんスか?」

「……でも、もっさんはどのみち付いて来てくれないんでしょ?」

「そんなこと言わないでほしいっス。こう見えて、あたしもついて行けるならついて行きたいんスから」

「ほんとかな。なんか嘘っぽいけど」

「あはは……」


 苦笑いで言葉を濁す彼女に、私はそれ以上踏み込まなかった。


「忘れ物とかないっスか?」

「うん、ないと思う」

「手ぬぐいとか、ちり紙とか、冒険者証とかもきちんと持ったっスか?」

「おかんか」


 私がそうツッコむと、もっさんはなぜか嬉しそうにはにかんだ。


「……あたしが渡した万年筆は?」

「持ってるよ」

「じゃあ、向こうに着いたらビアーゼボによろしく頼むっス」

「たしか、渡すだけでいいんだっけ?」

「そっスね。今も微妙に魔力が込められてるっスから、渡したら察してくれると思うっス」

「まだ魔力が残ってるんだ……でも、もう天使とか来たりしないよね?」

「魔力はたしかに残ってはいるっスけど、あいつらを呼び出すほどじゃないから安心していいっスよ」

「了解、今度は嘘じゃないってこと祈っとく」

「あれもべつに嘘というわけじゃなかったんスけどね……」


 そんな軽口を叩き合いながら、別れの空気が漂っていた。

 紅月も横で無言になっている。

 フェニ子は……飽きてしまったのか、港の中をキョロキョロと見回していた。


 やがて乗船の合図が鳴り、船員が乗客たちを誘導し始める。

 私たちもそれぞれの荷を手に、桟橋へと向かおうとしたが……。


「紅月、ちょっと耳貸すっス」


 そのとき、もっさんが不意に紅月を呼び止めた。

 そしてもっさんは紅月になにか耳打ちをする。


「……え?」


 紅月は眉をひそめ、きょとんとした顔をもっさんに向ける。

 ……なにを話してるんだろう?


 船員に促され、私は先に、少し斜めに立てかけられた橋板を上がる。

 そのまま甲板へ足を踏み入れると、背後で紅月がまだもっさんと何か言葉を交わしていた。

 それからやや遅れて、紅月もこちらへやって来る。


「……お待たせ」

「なんか話してたの?」


 私が紅月にそう尋ねると、彼女は小首を傾げて言う。


「……これ、言っていいのかしら」

「大丈夫でしょ。もっさんだし」


 私がそんな無責任なことを言うと、紅月はしばらく考えるような素振りをして――


「〝シショーに気をつけろ〟……ですって」


 さらっと、もっさんとの会話を私に漏らしてきた。でも――


「ししょー? なにそれ」

「私もわからないわ。急に呼び止められて、耳打ちさせられて、そんなこと言われたのだから」

「ししょー……って、師匠ってことだよね? もっさんに師匠なんているの?」

「さあ、私は聞いたことないけれど……」


 私たちがそんなことを話し合っていると、いつの間にか横で聞いていたフェニ子が、なぜか「ふむ……」と意味ありげに頷いた。


「フェニ子、もしかしてなにか知ってるの?」

「……いいや、妾の勘違いじゃろう。忘れるがよい」


 フェニ子はそう言って肩をすくめ、あっさりはぐらかしてしまった。

 こういうのって、勘違いである可能性のほうが少ないんだけど……。


 そして、船はゆっくりと港を離れていく。

 甲板に立ち、私は遠ざかる燦花の街並みを眺めた。

 大きく手を振っているもっさんの姿がゆっくりと遠ざかっていく。

 これまでの喧騒も、燦花の記憶も、気持ちのいい朝の潮風に溶けてゆくようだった。


「――さあ下僕よ、親愛的(ますたあ)の荷物を運ぶのじゃ!」


 そんな声が聞こえて振り返ると、フェニ子と紅月がさっそくなにか言い合いをしていた。


「……もしかして下僕って、私のこと言ってるの?」

「何度も言わせるでない、下僕。上から順に親愛的(ますたあ)、妾、そして下僕である貴様が、このぱあてぃい(・・・・・)においての階層じゃ。ならば妾の言葉に傅くのが摂理であろう」

「はあ!? 誰が下僕よ! 誰が!」

「下僕の反論など聞こえぬ。疾く従うがよいぞ」

「ちょ、ちょっと、やめなって……」


 慌てて止めに入る私をよそに、二人のやり取りはますますヒートアップしていく。


「そもそも貴女、私たちに倒されているのだから、傅くのは貴女のほうじゃないかしら?」

「勝てば官軍負ければ賊軍。くだらぬ。そのようなものは人間同士でやっていればよい。妾を崇めぬ理由にはならぬ」

「なにが人間同士よ。貴女だって鳥じゃない」

「と、鳥じゃないわい! 鳳凰じゃ!」

「うるさいわね、この鳥!」

「なんじゃと、この雑魚!」

「焼き鳥!」

「焼き魚!」


 もはやただの連想ゲームになりつつある。

 これはこれで平和なのかもしれない。


 それにしても、まさかフェニ子が私以外だとここまで態度に出るとは……でもまあ、なんとかなるだろう。


 そう楽観的に構えながら、私はもう一度だけ港の方角を振り返った。


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