第70話 一羽去ってまた一人
……重い。
胸のあたりからお腹にかけて、ずしりとした重みを感じる。
身じろぎをしようにも、金縛りにでもあったかのように体が動かない。
まるで何かにゆっくりと圧し潰されていくような感覚。
私はその何かから逃れるように、目を開けた。
「へ?」
顔。
鼻と鼻とが触れ合うような距離で、見知らぬ幼女がこちらを覗き込んでいた。
それによく見ると、幼女の目は左右で瞳の色が違っている。
右目は金色っぽい朱色。左目は朱色っぽい金色。
そしてその綺麗な瞳には、私の間抜け面がはっきりと映りこんでいた。
「な……え……? なんで……ここは……」
この状況が理解できない。
またいつもの薄ぼんやりとした夢かとも思ったが――
くんと鼻を鳴らすと、甘く艶やかな香りが鼻腔をくすぐった。
それは花の蜜のように濃厚で、どこか陶然とする甘さの奥に、消臭効果のある香木が放つ、ツンとした香りも感じる。
夢にしてはあまりにも現実的すぎる匂い。
そして、この独特な匂いで、私が今どこにいるかを理解する。
ここは病院じゃない。例の、もっさんの小夜曲の建物内だ。
「おお、ようやく起きたの。加減はどうじゃ? 痛むところはないかの?」
この幼女が私の上から退いてくれるつもりがないのはわかったが――
ひょっとしてこれは、私に話しかけているのだろうか。
わかる。東雲はこの状況で何をトボケているのだ、と言いたいのだろう。
私も状況的に、私以外に話しかけているのは有り得ないのはわかっている。
そのうえ、こうして体の上に乗って、その綺麗な瞳で私を見ているのだから、他に選択肢はないのだろう。
だけど、あえてトボケさせてほしい。
私にはこんなちびっ子の知り合いなんていないのだ。
唯一、音子ちゃんがいるにはいるが、年齢的にはこの子よりも少し年上くらい。
それに綾羅からもかなり距離が離れているため、彼女の友達という可能性は限りなく低い。
だから、おそらく私を誰かと間違えているのか、それとも悪戯をしているかだと思うんだけど、そもそもこんな小夜曲に小さな子がいる時点で、私は責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
――いや、待てよ。こういう施設だ。
やむにやまれぬ事情という可能性も――
「アスモデウスー! 東雲真緒が目を覚ましたのじゃー!」
やがて幼女は、もぞもぞと私の上から下りると、ぺたぺたと足音を響かせて部屋から出ていった。
そうして私はぽつんとひとり、部屋に取り残されてしまった。
幼女が出て行ったあと、ようやくクリアになった視界から、私は部屋を見た。
低い天井からぶら下がっているのは、火の粉で黒ずんだ紙の灯籠。
ほのかな蝋燭の灯りが揺れ、梁の影がゆらゆらと壁を這っていた。
首を動かすと、幼女が出ていった障子の隙間から、赤みがかった光が漏れてきている。
体の下には分厚い布団。
沈み込む背中がやけに柔らかい。
どうやら私は部屋の真ん中に転がされていたようだ。
それにしても珍しい格好だった。
白雉国ではまず見かけない、赤と黄を基調にした鮮やかな薄絹の衣。
走ったときに袖や裾が炎のように揺らいでいたのがすごく印象的だった。
それに……なんだろう。
裾の下からは、孔雀のように艶やかな尾羽みたいなものが、光を受けてきらりと色を放っていた。
燦花の子どもたちは、あれを尻に差して遊ぶのだろうか。
変わった文化だ。
ややあって、その幼女に手を引かれるようにしてもっさんが現れた。
その顔は若干疲れているようにも見え、眼鏡をしていないせいか、相変わらず艶っぽい。
「もっさん、大丈夫? ……なんか、疲れてない?」
「ああ、まっさん。本当に起きたんスね」
「本当にって?」
私がそう尋ねると、もっさんはぽんと幼女の頭に手を置いた。
「こいつが、まっさんが身じろぎするたび、あたしのとこに来て喚き散らすんスよ。そのせいでまともに寝れなくて……」
ふぁぁ……と、もっさんが口に手を当てながら、小さく欠伸をする。
「魔王にも睡眠って必要なんだね」
「そりゃそうっス。あたしのモットーは規則正しい生活っスから」
「この世界の魔王像が未だにわからないから、むやみに突っ込めない……それはそうと、紅月や戸瀬はどうなったの?」
「おや、もう本人からネタバラシされてたんスか?」
「ネタバラシっていうか、さすがにそうじゃないかなって思っただけ。でも、もっさんの反応を見るに、やっぱり園場さんの正体は、戸瀬だったんだね」
「そっスよ。なんで正体を隠してたのかは、あたしにもよくわかんねっスけどね」
「あれ、てっきりもっさんの指示だと思ってたんだけど……」
「違うっスよ。あたしは、もしかしたら今回の件で使えるかもって思って呼んだだけ。けど、意外と使えたっスね、彼」
「どういうこと?」
「そのへんの諸々は、あとできちんと話すっス。……で、まっさんの質問っスけど、まずは紅月雷亜の体調についてっスね。彼女は極度の脱水症状から意識障害、循環器系の異常、体温調節不能などの症状が出てるっス」
「……え?」
「あとは軽度っスが、火傷の症状も複数箇所見られたっス。あたしが耐火の結界を張ってたとはいえ、あの火力を至近距離で受けちゃったら、まあ、そうなるかなって」
「だ、大丈夫なの? 紅月は?」
「まぁ、問題はないっスよ。死にはしないっスから」
「いやいや、大雑把すぎるでしょ」
「大雑把? 診断結果はそれなりに正確だと思うっスけど……」
「そういう意味じゃなくて、大丈夫のラインが――」
「嘻嘻、問題ないぞ親愛的」
突然、幼女が悪戯っぽく、人差し指を口元にあてながら笑う。
けど、それよりも――
「……ますたあ?」
もしかして私のことを言っているのだろうか。
見ず知らずの幼女に、マスター呼びされる謂われなんてないんだけど。
「彼の者には妾の灰を分けてやった。多少、人の理から外れるやもしれぬが、重篤な後遺症が残るよりはよかろう? それに、こうなってしまった原因も妾にあるらしいからのぅ」
「え……っと、ちょっと待って。妾の……灰? それに、紅月がこうなった原因って……も、もしかして、お嬢ちゃん――」
私は幼女を指さしながら、もっさんの顔を見た。
「そう。察しのとおり、このちっこいガキンチョこそ、まっさんたちが戦ってた鳳凰なんスよ」




