第60話 燦花のセレナーデ
昼下がりの〝酔楼〟は、まだ客の姿もまばらだった。
広い店内には合計百席ほどの卓や座敷、長いカウンターが並び、夜にはきっと酔っ払いで溢れるんだろうなという空間に、食欲をそそる炭の香りを漂わせていた。
私はちょうど二人が対面で座れるほどの卓で、焼鳥に舌鼓を打っていた。
食べているのはずり。
こりこりとした弾力のある食感の肉を噛むたび、口の中いっぱいに炭火の香りとジューシーな肉汁が広がって――
「これを日本酒で流し込めば……」
私はすかさず、おちょこを手に持ち、中に入っている透き通った清酒をきゅっと口に含む。
口の中に残った脂とずり特有のクセのある香りを、米の豊かな風味が攫って行き、口内に残るのは清涼感と肉の余韻。
これだよこれ。召喚されたのが白雉国で本当によかった。
「……紅月は食べないの?」
私の向かい側で頬杖をつきながら、私を見ていた紅月に言う。
「私のことは気にせずどうぞ。……それに、私そんなにお肉好きじゃないし」
それならなんでわざわざこの店を選んだんだろう。
「そうなんだ……勿体ない……」
私はそんな紅月をよそ目に、今度はねぎまを口に含んだ。
すこし焦げた甘辛いタレの肉と、白ネギの完全なる調和。
それを炭火の香りが上手くまとめている。
これはいくらでも食べられる。やはり炭火は正義なのである。
「よく食べるわね……」
「美味しいからね」
「……それよりも貴女がさっき言っていた、ニホンシュってなんなの?」
そう尋ねられると、私は徳利から酒をおちょこに注ぎながら答えた。
「このお酒の名前だけど……って、そっか、こっちの世界だとまた名前違うよね」
「ふぅん……貴女、それがわかるってことは、記憶が戻ったの?」
「いや、相変わらずだね。私のことに関してはなにも思い出せてない」
「そう……それで、医者はなんて?」
「わかりませんって」
「わからない……というのは、なにが?」
「なんで記憶を失ってる理由。いちおう検査はしてもらったけど、健康体そのもの。ラファ――」
私はあの天使の名前を言いかけて止まった。
さっき診察室でその名前をだしたら、ものすごくびっくりされたんだった。
咄嗟に冗談ってことにしておいたけど、あいつの名前をこんなところで出すのはやめておいたほうがよさそうだ。
「あいつが使った雷のこともそれなりにぼかして伝えたけど、それでもよくわからないって。たぶん一過性のものだから、そのうち思い出すかもって」
「曖昧ね」
「しょうがないよ。私だってなんでこうなったのか、よくわからないんだし、うまく説明できたとも思えないし。……でも、とりあえず、健康には異常はなさそうだから――」
「こうやって呑気に串焼きを食べているわけね」
「そういうこと。……紅月のほうはどうだったの?」
「私? 私もとくに問題はなかったわよ。ただ、大金が消し飛んだというだけ」
紅月は相変わらず頬杖をつきながら、表情も変えずにそう答えた。
「おかげで、私も働かなくちゃ食べていけなくなるかもしれないわ。……そもそも冒険者じゃないのに、外国で働くなんてどうするのよ」
ここは早めに話題を変えたほうがよさそうだ。
「はは……ご愁傷様……で、これからどうするんだっけ?」
「そうね。船が出航する時間までまだあるし、燦花で暇つぶしを……なんて、考えていたけれど、やっぱり港で待つわ」
「出航の時間はいつだったっけ?」
「明日の朝よ」
「は? ……いやいや、まだ夕方にもなってないよ? 一晩中港で待ちぼうけはさすがにツラいって」
「そうは言っても私、こんなところに泊まる余裕ないわよ?」
「なら私が――」
出そうか? ……と言いかけて止まる。
あの紅月が港での一泊を選ぶほどだ。
たしかに燦花は綾羅に負けず劣らず栄えているし、私がまだ勇者の時にあてがわれていた旅館も、あとで知ったけど目が飛び出るほど高額だった。
ここは慎重になるべきだ。
「……ふふ。いいわよ、私のことは気にしないで。貴女はここに泊まりなさい」
「でも……」
さすがに私一人だけ、旅館のお布団でぬくぬく……というわけにはいかないだろう。
「それに、正直いうと私、あまりこの街にいたくないのよね……」
「なんで?」
私がそう尋ねると、紅月はずいっと卓の上に乗り出して、右手で口元を隠し、耳打ちをしてきた。
「……ここの街の支配者って知ってる?」
「いや、知らないけど……ていうか、街の支配者って何? 街って国の管轄じゃないの?」
「そうね。魔王アスモデウスのスラットみたいな、一部自治区を除いて、基本的に白雉国の村や町はみんな国の統治下にあるわ。でも実際は、ある程度の自治を任されてるの。中央の役人が細かいところまで手を出していたら、とても回らないでしょう?」
「まぁ、そうだね。それで、その燦花の支配者? ……のなにが問題なの?」
「貴女、燦花を見てなにも気が付かなかった?」
「いやまぁ……人は多いし、栄えてはいるけど、べつに普通じゃない?」
「そっか……そうね。そういえば貴女まだ、燦花に来てから病院と酔楼にしか来てなかったわね」
「なんかあるの?」
「ここの支配者……夜撫っていうのだけれど、そいつ、魔王アスモデウスに負けず劣らずの危険人物でね」
「人物……」
「その夜撫が統治するようになってから、燦花もずいぶん様変わりしたらしくて……」
「どんなふうに?」
「もうすこし燦花の中心部へ行くと、スラットみたいな光景が広がっていたのよ!」
「あー……」
なるほど、納得した。
紅月は余裕がないからと言っていたが、理由としてはこっちのほうがしっくり来る。
スラットにいたときは常に全力でキョドってたからね。
「つまり、いかがわしさ満点の街になってたってわけだ」
「破廉恥だわ……!」
「でも、それならべつに中心部に行かずに、すこし外れたところで宿とればよくない?」
「お金がないって言ってるじゃない!」
ああ、ダメだ。
これはもう、何を言っても無駄なやつだ。
しょうがない。
紅月が一晩港で過ごすってんなら、私もそれに付き合うか。
……となれば、晩ご飯もここらで調達しておいたほうがよさそうだ。
なにか持ち帰れそうな食べ物ってあったっけ。
私は手を挙げると、暇そうに店内を見回していた女性の店員さんを呼んだ。
店員さんは「すこし待ってくださいね」と私に断りを入れると、そのまま厨房へと引っ込んでいき、緊張した面持ちで卓の前までやってきた。
「あの、すみません、なにか持ち帰っても大丈夫そうな食べ物ってありますか?」
「あの、東雲真緒様……でしょうか?」
急に名前を言い当てられ、私と紅月はその店員さんの顔を見た。
「はい……そうです……けど、あなたは?」
私がそう尋ねると、店員さんは手に持っていた紙切れを卓上に静かに置いた。
「こちらをどうぞ……」
何なんだ急にとも思ったが、私はそれを手に取り、紅月にも聞こえるよう読み上げる。
「ええっと――はじめまして、私は夜撫と申します――!?」
私が顔を上げると、店員さんは申し訳なさそうに目を伏せた。
途端、紅月が私の手の中からメモを強奪し、ものすごい勢いで眼球を動かしていく。
「……よかった。真緒、その人は夜撫本人じゃないみたい。でもこれ……」
店員さんは頭を下げると、そのまま厨房の中へと消えていった。
「紅月、そのまま読み上げてくれる?」
「ええ、わかったわ。……続き、読むわね――」
「う、うん……」
「……書き方がややこしくなってしまい申し訳ない。どのような形でこの手紙が東雲真緒様、ならびに紅月雷亜様の手に渡っているかはわかりませんが――」
紅月は顔を上げて、眉を顰める。
まるで、私たちがここに来ることを予知していたかのようだった。
紅月は再び視線を戻し、口を動かす。
「……この手紙をあなたがたへ託した人物は、夜撫とは無関係の方です。自己紹介が遅れましたが、私、夜撫は、僭越ながら燦花における自治を承っている者です。急な話で恐縮なのですが、燦花について是非お耳に入れていただきたい話があるので、お手すきの際にで結構ですので、燦花商業区にある〝小夜曲〟という店にお越しくださいませ。尚、私にお会いにならなかった場合、船は出航しないものとお考えください」
すべて読み終わったのか、紅月が顔を上げ私を見る。
それは、とても丁寧な脅迫文だった。




