第59話 東雲真緒、頭を診てもらう
船が燦花の港の桟橋に接舷し、やがて橋板がかけられる。
乗客や冒険者たちが次々に船から下りていき、私もそれに続き下りようとすると、視界の端に例の笠を見た。
園場さんである。
天使の件以降、姿が見えなくなっていたので、彼にはお礼を言いそびれていた。
あのとき彼が時間を稼いでくれていなければ、はたしてどうなっていたか。
それにしても、ラファエルとの戦闘時は気にならなかったけど、やはりあの声、どこかで聞いたことがある気がする。
それに彼の言っていた〝借り〟という言葉も気になる。
紅月にも心当たりはないと言っていたので、おそらく私が忘れているだけか、園場さんが私を誰かと勘違いしているかだ。
私は改めて礼を言うべく、すこし駆け足で彼に近づいていった。
「園場さん」
私が名前を呼ぶと、園場さんはちらりとだけ私のほうを向いた。
こうして近づき、下から彼の顔を見れば誰かわかる……かと思ったが、その口元も布で隠されている。
これでは確かめられない。
いっそのこと『その笠と布、外してもらっていいですか?』……なんて、言えるはずないし……うーん、どうすれば……。
いや、ここまで顔を隠しているということは、それなりの事情があるということ。詮索するだけ野暮というものだ。
それに、知り合いかどうかはこの際関係ない。
この人のお陰で今がある。だからきちんと感謝を伝えるのだ。
「あの、天使の件、ありがとうございました」
私は園場さんの顔色を窺うように礼を述べると――
「フン」
彼は鼻を鳴らし、そのまま船を下りていってしまった。
やはりシャイなのだろう。なぜなら、嫌われるようなことはしていないからだ。
それに、そう考えると、ここまで必死に顔を隠しているのも納得する。
そんな感じで園場さんに相手にされなかった私は、四日ぶりの陸地に降り立った。
足元が揺れていないって素晴らしい……!
なんて、おなじみの台詞を吐いてみたいが、どうやら私は船酔いとは縁遠いようで、航海中一度も気分が悪くなることはなかった。
「……うん」
遠くから見えていたが、港自体は綾羅の港と大差はない。
違いといえば、遠くのほうにちらりと天守閣のようなものが見えるくらいだ。
「……そこで何してるの、邪魔よ」
「ああ、ごめん……」
後ろから紅月の声が聞こえて、急いでその場から横にずれる。
そうすると、わざわざ前に回り込んできた紅月が、私の顔をずいっと覗き込んできた。
「……貴女、本当に大丈夫?」
「なにが?」
「頭よ、頭。いまは――瞳孔も脈拍も問題なさそうだけど……」
頭。
つまり紅月は私の記憶のことについて言及しているのだろう。
そう、なぜか私はいま――前いた世界のことを思い出せなくなっているのだ。
……いや、この表現は正しくないか。
正確に言うと、東雲真緒が何をしていたのかを思い出せないのだ。
どこで生まれ、どこで育ち、どこに住み、どのような家族構成で、最終学歴や恋人の有無まで、私個人に関することはなにも思い出せないのだ。
べつに今すぐ困ることではないのだが、これがものすごく気持ちが悪い。
例えるなら、声は聞いたことがあるのに、顔と名前が全く一致しないくらい気持ちが悪い。
記憶喪失の原因だが、紅月は十中八九、ラファエルの攻撃によるものだろうと言っている。
たしかに、あれほどの衝撃だ。
目立った外傷はないとはいえ、人体に何かしらの影響を与えていると考えるのも無理はない。
しかし……それと同時に、この世界に召喚されてから、この船に乗るまでの間、はたして私は、自身の出自について振り返ったことはあったのだろうか。
いまではそれすらもわからない。それに関しても、ものすごく気持ちが悪い。
「病院とか、行く? いちおう燦花にも、そういう病院はあるみたいだけど……」
「そういうってなによ」
「ほら、頭とか精神とかの……」
「あるんだ……この世界にも……」
……このように、前の世界にあった施設などは普通にわかる。
他にも歴史や文化、文明など、いわゆる現代知識のようなものもわかる。
ただ私のことだけ、すっぽりと記憶が抜け落ちているのだ。
「あるわよ。魔術師くらいしか利用してないんだけど」
「そうなんだ……」
まずいな。このままだと病院へ行く流れになってしまう。
魔術師って単語も出てきたし、ここは一度、話を逸らしてみるか。
「へえ、普通の人は利用しないんだ?」
「そうね、基本的には」
「それって、魔術師は精神が病みやすいからってこと?」
「そうなんじゃない? だから、貴女も病院へ行きましょう」
おっと、急に軌道修正してきたな。
「私は……まあ、いいかな、うん」
さっきも言ったけど、べつに前の世界の記憶がなかったからといって、なにか困るようなことはないのだ。それになにより、面倒くさい。
「なんで? 新しい船を用意している間、貴女どうせやることがないんでしょ?」
「あるさ」
私は自信満々にそう答えた。
ここまではっきりと言えば、彼女は何も聞いてこないと思ったからだ。だが――
「たとえば?」
どうやら彼女には、思い遣りの心というものが著しく欠乏しているようだ。
そこをそんなに掘り下げてどうするんだと、私は問いただしてやりたい。
「……観光とか」
「受診したあとにすればいいじゃない」
「いや、めちゃめちゃ勧めてくるね、病院」
「それはそうよ。せっかく貴女について行こうとしているのに、すぐに倒れられたら、なんかバカみたいじゃない、私」
「いや、そんなことはないと思うけど……」
「とにかく、貴女が受診するまで燦花から出るつもりはないから。そのつもりでよろしくね」
どうやら彼女も引く気はないようだ。
仕方がない。
あまり使いたくはなかったが――
「ちなみに、ここで首輪を使ったら私、舌噛み切るからね」
「いやいや、それ脅しじゃん」
またそれか。
これでは誰に命令権があるか、わかったもんじゃない。
「……使おうとしたのね。あまり使いたくないなんて言っておいて」
「ソ、ソンナワケナイジャン」
「ま、脅しでもなんでもいいわよ。……ていうか、いいじゃない、行ってくれば。そんなに時間はかからないし、なんなら費用は私が持つわよ」
「いやそれは――」
さすがにそこまでしてもらうのは気が引ける。
すこし迷った私は――
「……はぁ、しょうがない」
一度行けば紅月も満足するだろうし、それに私だって、なにか確たる理由があって拒否しているわけじゃない。
ただ単に面倒くさいし、意味がないと思ったからだ。
健康診断くらいのノリで行ってみるか。
「そこまで言うなら行くよ。……で、病院行ってる間、あんたは別行動でいいの?」
私がそう尋ねると紅月は目を細めて笑った。
「ふふ、なあに? 診察を渋っていた理由って、もしかしてそれ?」
「は? どれ?」
「怖いから私に隣にいてほしいの? 貴女、意外と可愛いところあるのね」
「ちがうっつの。あんたはあんたの用事あるんでしょ? 待ち合わせ場所と、時間くらいは決めたほうがいいんじゃないって意味」
面倒くさいなこいつ。
「ふぅん、なるほどね。じゃあ……燦花ってたしか、かなり大きい居酒屋があったはずだから、そこで集合ってことでいいかしら?」
「わかった。名前は?」
「そうね、たしか……〝酔楼〟だったかしら」




